大河ドラマ『どうする家康』第18回について

大河ドラマ『どうする家康』第18回について

第18回「真・三方ヶ原合戦」
この回は私も目がウルウル来ました。

今回のあらすじ

前回は井伊直政(板垣李光人)が三方ヶ原へ向かうと、目の前は武田信玄軍に敗れた徳川軍の屍の山。
そして、目を凝らしてみると、金荼美具足(きんだみぐそく・今川義元から賜った金色の鎧)を身に着けた遺体が運ばれていた。
遺体は首と胴体が切り離されていて、首は武田信玄の元へ差し出されていた。
それを見て満足げになる信玄であった。

徳川家康の居城・岡崎や織田信長軍では、情報が錯綜していた。
「徳川家康が討ち死にされた」と噂されていた。
それを聞くや、家康の正室「瀬名」も動揺するが、「戦場では良からぬ噂が流れておる。虚言に惑わされずきちんと子細を見極めよ」と自身の嫡男(信康)や娘(亀)を励ます。
織田信長軍も武田信玄との合戦を覚悟していた。

しかし、真実はこうだった。
上記から遡ること約半日前:::

三方ヶ原に向かった武田軍を追いかけた徳川軍は、そこで自分たちよりはるかに軍勢が多く、配列も整えられた武田軍にタジタジなる。
家康が「引き返せ…」と言うより先に、信玄の「かかれ!!」の合図で合戦が始まった。

徳川軍も精一杯戦うが、その実力はやはり、武田軍のほうが上だった。
その中で本多忠勝・平八郎の叔父である本多忠真が戦いに散った。
彼が戦闘に残ったのは本多忠勝や榊原康政を逃がすためだ。
忠勝も叔父と戦おうと残ると言うが「お前が死ぬところはここではない。お前は殿が好きじゃろう」と諭す。
ここが忠勝と忠真の永久の別れの場となった。

一方、戦いの中徳川家康の安否も不明になり、心配になる三河家臣団だった。
そんな家康は武田軍に見つからないように、物陰に隠れていた。
緊張な家康とその家臣たち。
そこへある男が家康たちの隠れ場所を見抜き、近づいてきた。

それは武田側ではなく、徳川側の事務方である「夏目広次」だった。
この男はいつも家康から名前を覚えてもらえない者だった。

その夏目が家康に「鎧をお脱ぎくだされ」と指示した。
家臣たちに鎧を脱がされ、抵抗する家康。
その間、家康は自身の幼き頃を思い出し、夏目広次がかつての「夏目吉信」だということを思い出した。

「影が薄いから名前を覚えてもらえない」と返答していた広次だったが、じつは名前を変えていたのだ。
その昔、家康がまだ竹千代という幼名だった頃、竹千代たち徳川家臣が海辺で織田軍に襲われた。
竹千代は織田側に拉致され、徳川側の死体だけが残った。
しかし、幸運なことに夏目吉信のみ生きていた。
竹千代が拉致されたことに、嘆く吉信。
そのことに責任を感じ、松平広忠(家康の実父)に切腹を願い出るが、広忠はそれを拒否して「名を変えよ」と命令しただけであった。

そんな夏目広次が家康の鎧を身に着け、身代わりになると提案した。
断固反対する家康に「一度ならず二度も命を助けていただいた」と説明した。
夏目広次はかつて本證寺(ほんしょうじ)での三河一揆の際に寺側に加担していたにもかかわらず、家康からはそれを不問の処分にされていた。

広次は覚悟を決めて、家康の身代わりになり、大きな使命を果たした。

残った家臣たちは、自分たちの城が攻められないように門を開け放ち、灯をたいた。
これは諸葛孔明の策・「空城の計」であり、この異様な門構えを察知した武田勝頼軍は引き返した。
この策は酒井忠次が考え出し、成功したのであった。

次はいよいよ、織田軍に迫ってくると誰もが予想していたが、なぜか武田軍は攻めるのをやめて甲斐に戻っていった。
籠の中の武田信玄は疲れているように見える。
信玄に何があったのか…!?

今回の見どころ

今回の見どころは夏目広次が果たした使命と彼の正体である。
徳川軍が武田軍を追いかけたところまでは良かったが、その軍勢の差は歴然。
戦を終わらせるために、徳川家を守るために、夏目広次がとった行動は苦肉の策で背水の陣だったろう。

そんな家康の身代わりになった夏目だったが、私は今までの放送の中でなぜ家康が夏目の名前をよく間違えるか疑問に思っていた。
その疑問の伏線回収(謎明かし)がじつに良くできている。
夏目はじつは、幼き家康(竹千代)にとって、大切な存在だったのである。
そんな大切な家臣との別れに家康も視聴者も涙したことだろう。

そんな号泣な場面がこの回には詰まっていたのである。

通説との違い

そもそも通説では、家康は武田軍と衝突するのを家臣に反対されていました。
それを家康が反対を押し切って、武田との合戦が始まったのです。
吉信は最初、浜松城で戦の様子を見ていましたが、徳川軍側が敗走一歩手前だと察知すると家康を救援しに向かいます。

そして、撤退を進言します。
しかし、家康は聞く耳を持っていなかったので、吉信は家康の馬の向きを強引に変更してまで撤退させました。
そして、吉信は残って、少ない兵で武田軍と奮戦しました。
享年55歳の生涯でした。

夏目吉信とはどんな武将だったのか

夏目吉信は家康に仕えて武功を上げた武将です。

これまでの生い立ち

夏目吉信が誕生したのは1518年で、父は夏目吉久でした。
夏目氏が三河に移ってから松平(徳川)に仕えるようになって、譜代衆になりました。
吉信が松平家に仕えていた頃は家康は今川家の人質でしたが、「桶狭間の戦い」で今川義元が討ち死にすると、家康は今川家からの独立に踏み出します。
やがて、徳川家康が三河の領主になると、夏目吉信は家康に仕えます。
三河国の反対勢力や今川家との戦いでは、殿(しんがり)を務めるなど数々の武功を上げました。

しかし、一度は家康と対立します。
それがあらすじの欄でも触れた「三河一向一揆」です。
寺側についた吉信でしたので捕縛されましたが、一緒に捕縛された松平伊忠が吉信の助命を嘆願したことにより、吉信は命をつなぐことができたのでした。

そして、再び家康の家臣として過ごしていましたが、10年後の1573年に武田信玄の合戦が始まったのです。

その後の夏目家は?

ちなみに、夏目吉信には5人の息子がいました。
吉信が討ち死にした後、四男の夏目吉忠が跡を継ぎました。
しかし、すぐ吉忠は病死し、吉忠の子も6歳で早世してしまいます。

四男の家系は途絶えたものの、五男の吉次は三男である信次とともに出奔して加藤清正に仕えていました。
この際に召還されて徳川秀忠の家臣に配されました。その後信次は常陸国で530石を領する旗本となりました。

明治の文豪といわれている夏目漱石は、夏目吉信のひ孫(夏目吉次の、次男・吉尚の子の、夏目吉之の子孫)であるといわれていますが、定かではありません。

いっぱい集まっている夏目漱石の千円札

今回の配役

今回の見どころである夏目広次(吉信)役を演じたのは甲本雅裕さんです。

略歴

岡山県岡山市出身
ミュージシャンの甲本ヒロトは実兄。

1989年に東京サンシャインボーイズに入団してから活動が始まる。(それまではアパレル会社で働いていた)
1995年1月に劇団が解散するまで、数多くの舞台作品に出演、解散後は活躍の場をテレビや映画にも広げていく。

今までの主な代表作(ドラマ)

  • 踊る大捜査線シリーズ(1997年~2012年)
  • はみだし刑事情熱系シリーズ(1997年~2003年)
  • 遺留捜査シリーズ(2012年~2022年)
  • 三匹のおっさん~正義の味方、見参!!~シリーズ(2014年~2019年)
  • 京都人の密かな愉しみ Blue 修行中(シリーズで2017年~2021年)
  • 元禄繚乱(大河ドラマ)
  • 武蔵_MUSASHI(大河ドラマ)
  • 新選組!(大河ドラマ)
  • こころ(連続テレビ小説)
  • カーネーション(連続テレビ小説)
  • カムカムエヴリバディ(連続テレビ小説)

まとめ

今回「三方ヶ原合戦」の真実をお伝えしました。
冒頭の金荼美具足を高々と掲げている武田軍が印象的でしたが、あれは身代わりだったのです。
そうでなければ、徳川家康が開く江戸幕府も江戸時代も始まりません。
私としては、身代わりが家康だと認識した武田信玄側はある意味すごいと思いました。(家康と夏目広次の死人は同じに見えるのか?)

この疑問については
首実験では、面識があっても敵味方に分かれ、数年も経ち、屍となりさらに首だけとなったなら、その人物が誰なのかを認識するのは、そのときの装い(兜や刀など)を基にしていたようです。

もし夏目広次が身代わりにならずに、本来の家康が討ち死になっていたら、日本の歴史も大きく変わっていたでしょう。
やはり、三河一向一揆のときに家康が広次のことを「不問」の扱いにしたのが、後々“幸運”をもたらしたのです。
それぐらい夏目広次は家康に忠義の厚い男でした。

次回の武田側の動きが気になりますね。