第22回「設楽原の戦い」
今回は戦がメインだったので、信長の戦い方が象徴的な回だった。
今回のあらすじ
前回の話で、徳川と織田の両軍で長篠城にいる兵を救出することが決まった。
雨の中、徳川軍は武田四郎勝頼が率いる戦の場である「設楽原」に向かった。
長篠側は織田と徳川の援軍が救出に来たと大喜びしていた。
その数約3万の大軍である。
一方、武田側はその半分の1万5千の兵で差があるため、勝頼たちはむやみに動けずにいた。
織田・徳川方が数として優位なのに、織田側は特に何もしないでせっせと馬防柵を作ってばかりだった。
織田側の動きを理解できない家康は、嫡男・信康と家臣・酒井忠次を伴って織田の陣営に向かった。
当の信長は家臣と碁を打っていて、まったく戦闘の準備をしていなかった。
とても余裕な光景だが、信長はこの戦は勝てると見込んでいたからではなかろうか?
家康がしびれを切らしていたら、酒井忠次がわずかな手勢で武田の背後から襲い掛かる策を考え付いたのだった。
この役を忠次が引き受けたため、他の家臣団は心配していた。それぐらい危険な賭けだった。
それでも、幸運にもこの策は功を奏した。
背後を攻められると、敵軍は逃げ道を塞がれてしまう。
通常なら軍を引くのが妥当な道で、(武田家臣)穴山梅雪もそう諭すが、勝頼はその道を選ばなかった。
父である信玄を超えたいがために、手堅い戦をするより、目の前の織田と徳川の首を手に入れることを優先したのだ。
そんな選択をした勝頼に、武田家臣・山県昌景(やまがたまさかげ)も続くのであった。
真正面から赤い大軍である武田勢が攻めかかってくる…!
じつはそれこそが信長の狙いだった。
「俺は武田を追い払いに来たわけでも、長篠を救いに来たわけでもない。武田を滅ぼしに来たんじゃ」と家康や信康に戦の光景を見るよう、促していた。
織田側の攻撃は鉄砲隊を指揮して、馬防柵から3,000丁の鉄砲を放っていった。
次々に発砲する弾に、武田軍はあっという間に倒れていく。
それでもなかには織田陣営に近づく者もいたが、鉄砲と槍の攻撃には敵わなかった。
山県昌景も弾には勝てずに命を落としていった。
こうして、武田軍は多くの兵を失っていった。
これが設楽原の戦いにおいての、徳川・織田の勝利である。
戦いが終わり、徳川家康と信康は織田の臣下になることを信長に誓うのだった。
今回の戦で織田の戦いぶりを見せつけられて、徳川家臣が圧倒されていたのも臣下になる理由であろう。
特に、信康は戦場の光景に「なぶり殺しだ」とつぶやくほど、衝撃を受けていた。
臣下になる徳川方に、信長はさらに武田へ追い討ちをかけるよう命じた。
「設楽原の戦い」には勝利したものの、武田勝頼はまだ滅んでいなかった。
武田家の根絶に向けてさらなる戦に出る徳川勢だったが、だんだん信康の様子がおかしくなっていった。
表向きは敵兵を倒して得意げに会話をしていたが、戦場の悪夢にうなされていた。
そんな苦しい状態の信康に接しない正妻・五徳だったが、じつは父・織田信長からある任務を頼まれていた。
信長いわく、織田にとって今後最も恐れるべき相手は徳川らしい。
五徳は徳川家の面々をよく見張るよう、命じられていたのだった。
眠れずに、庭園で涙を流す信康に、心配しながら声をかけるのは母・瀬名であった…!
今回の見どころ
今回は織田の戦い方がいかに迫力あるものだったかが分かる中身でした。
武田軍の屍の数がすごかったです。
通説との違い
まず、通説を読むと、題材が「長篠・設楽原の戦い」と表記しているものが多いです。
長篠の部分を読むと、鳥居強右衛門の記述が目立つので、今回は「設楽原の戦い」の部分だけを掘り下げていきます。
通説のあらすじ
舞台は1575年5月18日、徳川と織田の連合軍が設楽原に到着しました。
通説では、織田軍が3万人、徳川軍が8千人だったようです。
到着すると、彼らは連吾川沿いに馬防柵を作り始めました。
その柵は南北およそ2kmで、二重三重にも作られていました。
これは武田軍が騎馬隊を駆使した戦いを得意としていたため、その機動力を封じ込めるためだったとされています。
他にも、柵を作ることで、こちらが弱腰であるかのように見せて、武田軍の突進を誘う狙いもありました。
家康は家臣の酒井忠次に、武田軍の背後である鳶の巣山(とびのすやま)を攻撃するよう命じました。
鳶の巣山は武田軍にとって、食糧保管庫やのろしを使う通信施設であったので、陥落することによって武田軍は補給路を絶たれることとなりました。
そのような背景もあり、武田軍側から襲撃することとなりました。
その襲撃に織田勢は火縄銃で攻撃を始めました。
次々に武田軍の兵が撃たれていき、なかには馬防柵までたどり着いて、柵を突破しようとした者もいました。
通説では、連合軍の陣地まで入った者もいるようですが、連合軍側は必死に追い返しました。
こうした攻防が繰り返されて、武田軍は壊滅していきました。
戦死した武田側には、軍を率いた山県昌景もいました。
設楽原の戦いと鉄砲
しかし、このときの銃撃戦は史実では疑問が残っています。
ドラマでの設楽原の戦いでは「三段撃ち」が使われていましたが、史実ではどうだったかという点です。
今回のシーンで使われた三段撃ちとは、横1列に1000挺ずつ3段に分けて鉄砲3000挺で一斉交代して射撃をする方法です。
これまでの通説では、この戦い方が伝えられてきましたが、織田信長に関する歴史を知る一次資料である『信長公記』には書いていなかったことが分かりました。
『信長公記』とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての史料(原本は江戸時代初期に成立)で、比較的良質なものだったといわれています。
けれども、その書物には長篠の戦いや鉄砲の数の記述はあっても、鉄砲の三段撃ちのことは記されていませんでした。
三段撃ちの説は『信長公記』を参照しながら、自己流に創作された『信長記』から広がったものだといわれています。
『信長記』は史料ではなく、小説なので「信憑性に問題がある」とされたのです。
この小説の記述がいつの間にか定説となったのでした。
鉄砲の数も史料では3000挺ではなく、1500挺くらいだったといわれています。
山県昌景とはどのような武将だったのか
山県昌景は武田信玄や勝頼の近くにいた重臣でしたが、今回で最期を迎えます。
どのような武将だったのでしょうか。
まず、山県昌景の生誕がいつなのかは不明です。
1515年、1518年、1529年と諸説あります。
出自は飯富氏であり、この一族は甲斐の武田家に仕えていました。
昌景も若い時から武田信玄に仕えて、侍大将や職(しき)を務めました。
そんな昌景に事件が起こります。
信玄の嫡男である武田義信が謀反を画策していました。
それに加わっていたのが昌景の兄である飯富虎昌です。
これを知った昌景は、謀反に身内が関わっていることを承知の上で信玄に密告したのでした。
この謀反は防ぐことができ、信玄から信頼を得た昌景は「山県」の名跡を与えられて、さらに出世していきました。
このときに、「赤備え」として部隊の装備を赤くしていきました。
赤備えの装備は、武田軍の主力部隊として大きく戦果をあげていきました。
昌景は敵を恐れぬ猛将だったようで、短期間での城の攻略を得意としていました。
この勢いが1572年の「三方ヶ原の戦い」にもつながっていくのです。
この戦いでは徳川家康側も大変苦戦しました。
しかし、武田が好調の中で信玄は死去してしまいます。
ドラマでは、その嫡男・武田勝頼と昌景は良いやりとりをしていましたが、通説では折り合いが悪かったようです。
このような関係の中で「長篠の戦い」が始まりました。
ドラマでの昌景は勝頼の進軍に賛成している様子でしたが、史実では撤退を進言していたようです。
ですが、勝頼と他の側近が決戦を主張したことで襲撃が始まったのです。
そのさなかに山県昌景は戦死したとされています。
享年47でした。
今回の配役
山県昌景役を演じたのは橋本さとしさんでした。
略歴
大阪府枚方市出身。
1989年『劇団☆新幹線』の出身でその公演にてデビューした。
1997年の公演を最後に退団している。
劇団を退団した後は、しばらくテレビなどの映像系の作品に出演することが多かったが、1999年から再び舞台に立った。
舞台作品には蜷川幸雄演出の『ハムレット』や宮本亜門演出の『くるみ割り人形』などがある。
2004年には帝国劇場のミュージカル『ミス・サイゴン』の主役であるエンジニアに抜擢された。
現在は「キューブ」という事務所に所属している。
今までの主な代表作(ドラマ)
- 平清盛(NHK・大河ドラマ)
- なつぞら(NHK・連続テレビ小説)
- 下町ロケット
- 救急病棟24時(2001年)
- 富豪刑事
- 謎解きはディナーのあとで
- ラスト♡シンデレラ
- グッドパートナー 無敵の弁護士
など
まとめ
今回は「設楽原の戦い」に焦点を当てて見てきました。
ドラマではかなりの壊滅に追い込まれた武田軍でしたが、まだ滅んではいません。
それに、織田信長が徳川側を恐れているとは、意外でした。
娘の五徳にスパイを命じる信長と、徳川の関係はどうなってしまうのでしょうね。