第25回「はるかに遠い夢」
この回はラスト後半、特にラストより3分の1くらいから涙が出ました。
松本潤さんの演技に涙しました。
Contents
今回のあらすじ
1579年夏、ついに瀬名の謀が織田信長の耳に入ってしまった。
瀬名の謀とは、徳川や武田、それに北条や上杉などの近隣の諸国と手を結んで、巨大な国に創り上げて織田に対抗することだ。
“奪い合うのではなく、与え合うこと”を目的としているため、天下統一を狙う織田信長には知られるわけにはいかなかった。
この計画は2~3年順調だったが、武田勝頼が裏切り、謀が世に漏れたのだ。
織田家臣の佐久間信盛は、家康に真意を問い、信長は「お前の家中(かちゅう)で起きたことじゃ。俺は指図せん。お前が自分で決めろ」と命じた。
信長の命令にうなだれながら、家康が築山に戻ると、瀬名や信康、信康の妻・五徳が待っていた。
瀬名は五徳に姑と夫の悪行を訴える手紙を信長に宛てて書くよう、指示した。
(その書状は、家康家臣・酒井忠次によって信長の元へ届けられた。)
そして、家康は瀬名と信康への責めとして「妻子を逃がす」ことを決めた。
つまり、身代わりを用意して斬るという話である。
けれども、家臣たちがどのように説得しようとしても、信康は自分が逃げ延びることを良しとしなかった。
身代わりと入れ替わらず、幽閉先の堀江城に留まってしまった。
その様子に家康は苛立ち、家臣・大久保忠世を加えて、再度逃がすよう命じた。
説得の場は堀江城から二俣城に移ったが、それでも信康は「母上が無事に逃げてからじゃ」と主張を曲げなかった。
一方、瀬名側も難航していた。
舟で佐鳴湖を渡って、とある岸辺(富塚)に着いた。
そこに身代わりである娘を隠していたのである。
待っていた家康家臣・鳥居元忠と忍びの女大鼠は、着替えて身代わりと入れ替わるように伝えたが、瀬名がその身代わりの女性を逃がしてしまった。
「信康は無事に逃げたか」という瀬名の問いに、鳥居ははっきり答えられなかったため、瀬名も命を絶つ覚悟を決めていたのだった。
介錯(切腹する人の首を切り落とすこと)を頼む瀬名に、女大鼠が取り掛かろうとしたが、鳥居はそれを止めた。
そうしたところに、家康が舟で富塚にやってきたのだった。
瀬名に会った家康は、逃亡するように説得した。
しかし、瀬名は「私たちは死ななければならない」と口にした。
家康はかつて今川に捕らえられていたことを話し始めた。
織田と同盟を組むために、今川と決裂し、瀬名たちを見捨てざるをえなかった。
それをどうにか家族を取り戻したとき、家康は「この先は何があっても守っていく」と決めていた。
それでも瀬名は「あなたが守るべきは国でございましょう」と家康の願いを受け入れなかった。
瀬名は『いつか大切なものを守るために命を懸けるときがくる』と両親からもらった言葉を話し出した。
「今がそのとき」だと、「すべてを背負わせてください」と覚悟を決めていた。
そんな瀬名の姿に家康は瀬名を抱きしめ、泣きじゃくった。当時の家康は38歳くらいである。
瀬名は「相変わらず、弱虫・泣き虫・鼻水たれの殿じゃ」といじり、「かつて、『どこかに隠れて私たちだけでこっそり暮らそう、小さな畑をこさえて、世の騒がしさにも我関せず、ただ静かにひっそりと暮らしたい』と話したことがあるが、それがたった1つの小さな夢」と述べた。
それが瀬名の「はるか遠い夢」であった。
やがて、瀬名は本多忠勝と榊原康政に、家康を城に連れ帰って安寧の世を一緒に作るよう命じた。
家康は泣きながら家臣たちと舟でその場を後にしようとしたが、「ダメじゃ!こんなのは間違っておる!」と舟を降りて引き返そうとした。
そんな家康を家臣たちは「お覚悟を!」と必死に止めていた。
そして、瀬名は覚悟を決めて自ら首を切って自害した。
その後すぐに、女大鼠が瀬名を介錯した。
(介錯した後、瀬名にひれ伏していたのが印象的だった。)
家康はとても泣き叫んでいた。
その頃、信康への説得が続いているところに、服部半蔵がやってきた。
半蔵は「瀬名は逃げた」と説明するが、信康はそれは嘘だと見抜いた。
瀬名が自害したことを悟ったのだろう。
信康は家臣たちの説得を聞き入れて、家臣の平岩親吉に手を貸してもらい立ち上がるが、それは偽りであった。
信康は平岩親吉の刀を奪って腹を切ってしまったのだ!
「わしの首を信長に届けよ…わしが徳川を守ったんじゃ…」と平岩に介錯を頼むが、彼は頑なに拒否して号泣した。
介錯は服部半蔵が引き受けた。
止めようとする平岩に、大久保忠世が必死に彼の体を押さえていた。
半蔵も涙をにじませながら介錯していた。
瀬名の自害だけでなく、家臣・井伊万千代から信康の自害の報告までをも受けた家康は、倒れて寝込んでしまった。
ただ瀬名との最期を思い出して、うつろな表情で寝込んでいた。
瀬名と信康の最期を知って、家康の母である久松夫婦や今川夫婦(氏真と糸)も悲しみに暮れていた。
武田側も歩き巫女である千代はどこかへ旅立っていった。
そして、織田信長にもダメージを与えていた。
「これで徳川と織田の結びつきも強固になる、よかった」と言う佐久間信盛に対して、「何が良かっただ?二度と顔を見せるな」と信長は怒りをあらわにしていた。
瀬名と信康の死は、ほぼ皆が心を痛めていた。
ただ一人、瀬名の謀を裏切った武田勝頼からは家康を「人でなし」と評していた…!
今回の見どころ
今回の見どころは、何といっても瀬名(築山殿)と信康の最期である。
しかし、だいぶ脚色をされている回だと感じた。
通説との違い
重要なポイントは正室と嫡男の命を奪うとなると、単なるスキャンダルでは済まないということだ。
家中にしこりは残るし、信康の家臣たちも黙って主君粛清を受け入れる保障などないからである。
徳川の家中で起きたことなら、家中から追放させたり、出家させたりするくらいで済んだはずではないか。
それでも2人が命を絶つほどの処遇となったのは、徳川家や織田・徳川同盟にとって許しがたい「罪」である背信行為を働いたという説が強い。
それは謀反(敵への内通)が理由だったのではないか。
史実の築山殿も武田に近づいていた。
だけど、彼女が近づいたのは1575年の大岡弥四郎事件の頃からだった。
説によれば、武田勝頼が甲斐の口寄せ巫女を懐柔して築山殿に取り入らせ、「信康を武田勝頼の嫡男にする」という託宣を述べさせた。
このとき、西慶という唐人医師も巻き込んだとも言われている。
これは当時の徳川が危機的な状況に陥っていたからである。
築山殿が徳川家の滅亡を覚悟するようになり、その対策として信康を武田家のもとで存立させる選択をしたのではないかと考えられている。
ドラマでは、武田に寝返ったのは大岡弥四郎を筆頭とした信康家臣たちだったが、通説では築山殿も武田に近づき暗躍していた。
しかし、この動きは家康にとっては、敵国に内通する謀反にしか他ならない。
さらに、その後信長の娘で信康の正室である五徳にも知られることにもなった。
彼女が父に訴状を送ったため、信長にも知られることとなったのである。
ただし、通説も築山殿と信康の処断は家康自身が決めている。
築山殿の処罰の理由は上記で述べたが、同様に信康にも武田方に通ずる謀反の噂があったためとされている。
信康の方はどこまで主体的に動いていたかは不明であるが、築山殿と連動する動きがあったため、謀反の疑いがあると捉えられてしまったのであろう。
こうした理由で処罰は避けられなかったといえる。
瀬名(築山殿)はどのような女子(おなご)だったのか
瀬名は1542年頃生まれた。
父は名門・今川家の重臣「関口氏純」、母は今川義元の妹といわれているので、瀬名は今川義元にとって姪であった。
そんな瀬名が家康と結婚したのは1557年で、今川義元の意向によるものである。
これは徳川家康が三河国の岡崎城城主であるため、瀬名と姻戚関係を結ぶことで三河国の支配を維持しようとしたからである。
瀬名と徳川家康は1559年に松平信康を、1560年に亀姫を授かった。
しかし、1560年の「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長との戦いで討ち死にすると、彼女の人生は大きく変わってしまう。
瀬名や子らは今川家の駿府城に残されたままなのに、家康が今川家を見限ってしまった。
「今川氏真(今川義元の嫡男)」が一向に織田信長に対して、仇を討とうとしないからであった。
それでも、その後家康が瀬名や子供たちを人質交換として駿府から取り戻したため、一家は岡崎城に暮らすことになった。
このとき「築山」に住まいを構えたことから、“築山殿“と呼ばれることとなった。
しかし、家康は織田信長の配下となったため、遠江の浜松城に住まいを移し、瀬名は信康を後見するために岡崎にとどまった。
一方、1562年に両親が自害した。
娘婿の家康が今川から独立したことで、氏真からその去就を疑われたためである。
そして、1567年には信康が織田信長の娘・五徳と結婚する。
これは信長と家康の同盟強化のためであった。
さらに、1573年には、瀬名の娘の亀姫が奥平信昌に嫁ぐ。
これも三河・奥平氏を味方に引き入れるためであり、この結婚には信長の助言もあったようだ。
信康と五徳の間には2人の子供が生まれたが、いずれも女児であった。
そのため、瀬名は嫡男誕生のために信康に側室を娶るように勧めた。
だが、このことが五徳の反感を買ってしまった。
五徳は父・信長に「十二か条の訴状」を送り付けた。
※その後の悲劇は、前項で記載した通りです。
瀬名は38歳で生涯を閉じました。
今回の配役
瀬名(築山殿)を演じていたのは、有村架純さんでした。
略歴
1993年2月兵庫県生まれ
2009年12月、高校在学中に現在の事務所・FLaMmeのオーディションを受けて合格。
2010年5月『ハガネの女』でドラマ初出演を果たした。
そして、2013年の連続テレビ小説『あまちゃん』にて、主人公の母(小泉今日子)の若かりし頃を演じて話題を呼んだ。
2015年5月に主演した映画『映画 ビリギャル』にて金髪ギャルを演じて話題になるだけでなく、その映画で「第39回日本アカデミー賞優秀主演女優賞および新人俳優賞」を受賞した。
2016年の第67回NHK紅白歌合戦では、紅組司会者に起用された。(自身初の司会業)
この司会は翌年も続いた。
その他、ドラマや映画だけでなく、声優(思い出のマーニー)、舞台劇など、幅広い作品に出演している国民的女優である。
今までの主な代表作(ドラマ)
- ハガネの女
- あまちゃん(NHK)
- ひよっこ(NHK・主演)
- スターマン・この星の恋
- 失恋ショコラティエ
- 弱くても勝てます~青志先生とへっぽこ高校球児の野望~
- いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう(主演)
- 中学聖日記(主演)
- 姉ちゃんの恋人(主演)
- 石子と羽男-そんなコトで訴えます?ー(主演)
など
まとめ
今回は「信康・築山殿事件」の回でした。
ドラマでは、瀬名を悲劇のヒロインとして描かれていましたが、瀬名が武田と内通していたことはたしかです。
しかし、瀬名は“信康思い゛だったということが、ドラマでも通説でも共通していると分かりました。
築山殿のことは築山御前だけでなく、「信康御母堂」とも呼ばれています。
瀬名が悪女だという言い伝えは、江戸時代の史料で書かれているだけですから、本当は悪女ではなかったかもしれません。
ドラマでの家康はとても号泣していました。
愛する妻子を失った家康は、これからどう運命に立ち向かっていくのでしょうね。
そのことがきっかけで瀬名と信康が処罰される流れになりますが、これは『三河物語』(江戸時代)に記された内容です。
この書物は戦国の世を生き抜いた家康の家臣・大久保彦左衛門が、徳川家と大久保家の歴史をつづったものです。
家康の家臣の立場から、家康や徳川家にとって都合の悪いことは書きません。
つまり、家康を良く見せようと偏った記述かもしれないので、「瀬名の性格が悪かった」と安易に決めつけるのはいかがなものかとも思われます。