大河ドラマ『どうする家康』第26回について

大河ドラマ『どうする家康』第26回について

第26回「ぶらり富士遊覧」

最愛の妻と息子を失い、失意の家康。物語の前半が終わり、今回から妻亡きあとの家康の人生の後半生が描かれます。
悲劇からどう立ち直り、天下人となったのか。注目回です。

今回のあらすじ

瀬名の死から2年たった天正9年(1581)春、武田の陣地となっていた高天神城が徳川へ降伏を申し出てきた。
だが断る家康。「上様(信長)の命(めい)」として降伏を受け入れないという。
高天神城の兵たちを無情に見殺しにし、信長を立てる家康に不信感を募らせる家臣たち。
特に本多忠勝(平八郎)は家康を「腑抜けになった」と評して憤っていた。

年が明けてすぐ、秀吉が家康を狩りへ誘う。
毛利攻めで忙しい最中大丈夫かと問う家康に、秀吉は「心配だから。」と答える。
妻と息子を信長に殺されたような形になり、信長を恨んでいるのでは、と秀吉は聞く。
家康は「すべてはわが愚かなる妻と息子の不行状(ふぎょうじょう)ゆえ。」と答え、信長を恨んでいないことを伝える。秀吉は家康に意味ありげな目を向ける。

虫眼鏡に大きく書かれた「疑惑」の文字同じ年の2月、武田勝頼との最終決戦のため織田・徳川両軍が甲斐へ向かう。
勝頼の首を取ろうと意気込む平八郎・榊原康政(小平太)だったが、勝頼を討ち取ったのは信長の嫡男・信忠であった。

武田の居館である躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)で、家康は勝頼の死報を受け取った。
これには武田家臣・穴山梅雪も無念の表情を浮かべる。
彼は最後まで武田に忠誠を誓い館に残っていたが、館に踏み込んできた家康と家臣・石川数正に対し、織田・徳川に尽くすことを伝えていた。

自分たちが勝頼を討ち取れなかったことを悔しがる平八郎に対し、家康は「信忠様に功をあげられたことはよいことじゃ。」と応じる。
織田方の肩を持つ家康に家臣の平八郎・小平太・鳥居元信・平岩親吉(七之助)は、不信感を募らせる。

武田を滅ぼした織田勢を祝うため、家康たちは信長のもとを訪れる。
信長は勝頼の首を家康の前に持ってこさせ、蹴るなり踏みつけるなりせよと明智光秀に言わせる。
じっと家康を観察する信長。「恨んではおりませぬゆえ。」と答える家康に、「恨んでおるのは別の誰かか。」と問う。
「何のことでございましょう」と答える家康だが、そこへ家臣の石川数正が割って入り、安土へ帰る前に織田勢を徳川がお祝いしたいと申し出る。

祝いの席での肴やお料理家康は事前に祝いの手はずを整えていた。
富士山の麓の浅間神社では、家臣の酒井忠次・大久保忠世・万千代(まんちよ。後の井伊直政)・家康の側室の於愛が準備を進めている。
そこへ家康一行が様子を見に訪れる。

まだ何も知らない家臣たちに、家康は「安土までの街道の要所要所で上様をおもてなしし、富士の絶景を楽しんでいただく。」と楽しげに説明する。
「何のために。」と詰め寄る平八郎に、家康は「上様にお喜びいただくために決まっておろうが!」と声を荒げる。
足りない資金は京から茶屋四郎次郎を呼び寄せて用意させ、一部の家臣たちを除き「エイ・エイ・オー!」と大いに沸き立つ徳川勢であった。

織田勢を連日連夜もてなし、信長に富士の絶景を見せるために四方に垂れ幕まで用意した徳川勢。
「せーの!」で一気に垂れ幕が引かれ、眼前に現れた富士山に「見事じゃ。」と信長は笑顔を見せた。

しかし、喜んだのもつかの間、すぐに次へ行こうとする信長に徳川勢は振り回され、浅間神社は大慌てであった。
「もう来るぞ!」と皆が忙しく立ち回る中、やる気のない小平太・万千代。平八郎に至っては帰ってしまっている。

小平太をたきつける大久保に、「殿のあのようなお姿は見たくない。」と小平太。
於愛は「殿がどんなお気持ちで上様をもてなしておられるか」と詰め寄り、「殿には深いお考えがおありだと、わしは信じておる」と諭す酒井。
「平八郎殿を呼んでくる。」と折れる小平太であった。

春にちなんだピンクの扇子と和雑貨ついに織田勢が浅間神社へ到着し、徳川勢は舞を披露する。
手酌でもてなす家康に、「お前たちは田舎くさい。これからは馬鹿にされるぞ。」と笑う信長。
さらに明智から、伊賀者を根絶やしにするよう告げられる。金で動く伊賀者がはびこっては世が乱れるという。
笑顔で応じる家康に、絶望した表情を見せる平八郎・小平太・万千代。

緊迫した空気が漂う中、笛を再開した於愛に合わせて得意のえびすくいを披露しようとする酒井を家康が制し、自ら踊ると申し出る。
これまで家康を主君として信じていた石川・酒井・大久保も、これにはさすがに驚いた顔を見せる。

「家臣・家康、三河のめでたき舞をご披露いたします。」と言い、歌いながら滑稽な踊りをする家康に信長・明智ら織田勢は笑い声をあげる。
於愛や茶屋四郎次郎・酒井・大久保らが次々と家康の舞に参加する中、神妙な面持ちでいた石川も立ち上がり、平八郎・小平太・万千代の3人に「おぬしたちも中へ」と促す。
小平太・万千代はすぐに参加するが、平八郎は不満に満ちた表情を浮かべていた。

安土へと帰る日、信長は大いに満足したこと、安土へ招待することを家康へ告げる。
接待役は明智が務めるという。家康と別れたあと、明智に「あれ(家康)は変わったな。腹の内を見せなくなった。」と言う信長であった。

その夜、薬を作る家康のもとへ伊賀者・服部半蔵が参上する。
織田への恨みを持つ伊賀者を、いつでも動かせるよう手名付けておくと家康へ伝える。

一方、備中・高松では秀吉の弟・秀長が、徳川の信長へのもてなしについて兄・秀吉に噂していた。
「家康から目を離すな。」と告げ、またも意味ありげな表情を浮かべる秀吉。

シーンはまた家康へ。夜、瀬名とのひとときを思い出しながら湯を飲む家康のもとへ、石川・酒井ら家臣8名が訪れる。
神妙な面持ちで酒井が「お心の内をそろそろお打ち明けくださってもよい頃合いでは」と問うと、家康は静かに「信長を殺す。わしは天下を取る。」と言った。

そして「本能寺の変まであと46日」というテロップが流れ、終了となる。

今回の見どころ

甲斐から安土までの道中、道を整備し茶屋を建て、連日のように信長を接待した徳川。
富士見物の際の垂れ幕の演出や、えびすくいのシーンは視聴者にとっても「見事じゃ。」と言わざるを得ませんでした。
家康の行なった接待は史実なのでしょうか。

通説との違い

『信長公記(しんちょうこうき)』によると、4月10日に甲府を出発した織田勢は4月21日に安土へ到着しています。
それまでの道中、道を整備し警備の者を置き、要所要所に茶屋や厩(うまや)を建て豪華な料理でもてなした、とあります。
さらに、暴れ川で知られる天竜川には船と船橋(船をつないで作った橋)を準備し、信長を大いに感激させました。
至れり尽くせりのおもてなしは史実だったようですね。

『信長公記(しんちょうこうき)』とは
信長の側近・太田牛一(ぎゅういち)が、信長の死後に編纂した一代記です。
死後の編纂ではありますが、側近として実際に目で見たり体験した出来事を記している点で信長に関する一級資料、信憑性の高い唯一の資料と評されています。
ただし、明らかな誤りや不備も見られ、いまだ研究は続けられています。

武田勝頼とはどのような武将だったのか

今回、武田勝頼がついに討ち取られてしまいました。
あらすじではかなり端折ってしまいましたが、最期まで誇り高い武士でしたね。

多くの家臣が寝返る中「行きたい者はどこへでも行け。たとえ一人になろうとも5万の敵を討ち払ってみせようぞ。」というセリフを始め、ついに敵に取り囲まれたときに放った「ここを死に場所と決めた!武田の名を惜しめ!」「我こそは武田四郎勝頼である!」というセリフ、非常に潔く雄々しく、一言で言うと「かっこいい!」です。
ドラマではかっこよく描かれていた勝頼でしたが、実像はどうだったのでしょうか。

軍配団扇を持っている武田勝頼の像武田勝頼は天文15年(1546)、武田信玄の四男として生まれました。
四男でなぜ信玄の跡を継いだかというと、長兄が父・信玄の暗殺計画を企て失敗、自害したことによります。
次男は盲目で出家しており、三男は早世していたことから勝頼に当主の座が巡ってきました。

元亀4年(1573)に父・信玄が病死すると、当主となった勝頼は信玄に仕えていた重臣たちからの信頼を得ることに苦慮することになります。
勝頼は一時は織田・徳川に脅威を与えるほど勢力を拡大します。

しかし、長篠の戦では多くの家臣から反対されたにも関わらず出陣、大敗を喫してしまいます。
織田・徳川両軍が揃う決戦で勝利すれば、一気に重臣たちの信頼を得られると考えたのでしょうか。
それほどまでに、信玄以来の重臣たちの心をつかむのは大変だったのかもしれません。

その後は北条氏や上杉氏との外交に力を注ぎます。
しかし、長篠の戦いから7年後の天正12年(1582)、織田・徳川の大軍になすすべもなく、天目山まで敗走したところで死を迎えます。
自害だったのか討ち死にだったのかはわかっていません。享年37歳でした。

今回の配役

武田勝頼を演じた眞栄田郷敦(まえだごうどん)さんについて、紹介します。

略歴

2000年ロサンゼルス生まれ。父は俳優の千葉真一、兄は新田真剣佑。
兄・新田の影響で俳優として活動を始め、2019年に映画「小さな恋のうた」で俳優デビュー。
特技はサックス・空手・英会話。
2023年、兄と共にそれぞれが一般女性と結婚したことを発表。

今までの主な代表作(ドラマ)

  • ノーサイド・ゲーム
  • 星になりたかった君と(主演)
  • カナカナ(主演)

など

まとめ

徳川家康像と富士山との合成写真ひたすら笑顔で信長を接待する家康の本心が視聴者にもわからず、緊張感のある回でした。
特に家康がえびすくいを踊るシーンでは、悲壮なBGMと織田の笑い声が入り、痛々しいほどでした。

「ぶらり富士遊覧」という、のんびりとしたタイトルから受ける内容とのギャップ、終始笑顔の表情とは裏腹の気持ちを心に秘めていた家康。
富士見物の際に明智光秀が放った「逆さ富士ですな」という言葉が、見事にこの回を表していると思いました。