大河ドラマ『どうする家康』第27回について

大河ドラマ『どうする家康』第27回について

第27回「安土城の決闘」
今回は特に後半、家康と信長の対峙が印象的だった。
織田信長の目力に魅了された。

今回のあらすじ

冒頭は信長が見た悪夢から始まった。
夢の中で信長が覆面をした誰かに襲われ、刺されてしまう。
刺されて苦しみながらの信長は、必死で相手の覆面を剝がそうとする…そして、現実に戻り、目が覚めた。
1582年の出来事である。

一方、家康側では、家臣8人に「信長を殺す。天下はわしが取る」と心の内を明らかにした。
前回のあらすじで、武田に勝利したお祝いに、家康が信長一行を三河に招いてもてなした。
信長は大層喜び、今度は信長から安土城で家康をもてなす約束を交わしていた。

そのお招きを受けている家康は、安土城ではなく、京で信長を討つという。
信長はいずれ京に移って、その宿が本能寺ということも分かっているので「本能寺で信長を討つ」らしい。

この家康の野望に、家臣たちの気持ちは分かれていた。
「信長を倒せば世を治めることこそが大変」と予想する小平太(榊原康政)、「安土に行ったら殿が殺されてしまうんではないか」と案ずる彦右衛門(鳥居元忠)。
しかし、左衛門尉(酒井忠次)の意見に皆が納得した。
左衛門尉は「殿は瀬名と信康を亡くされて心が壊れた。この3年間信長を討つという目標だけでなんとか人間らしさを保たれている。信長を討つという殿の生きる意味を奪ってどうする」と説明した。

やがて、家康と家臣たちは予定通りに安土城へ向かった。
安土城の華やかさに思わず見入りながら、一行はもてなしを受けていた。

膳に入ってある宴会用のお料理ところが、ここで事件が起きた。
家康が供された「淀の鯉」が臭うと言い出した。
「臭いの処理は致した」と弁明する明智光秀に、信長が激高した!
家康たちのいる前で、信長は光秀を打ちのめし、追放した。

この臭い作戦は家康の策かもしれないが、光秀は家康のところに詫びに来た。
そして、上様(信長)が家康と2人だけで話したいと伝えた。

心配する家臣たちに見送られ、夜に家康は信長と酒を酌み交わし始めた。

夜の暗さに溶け込んでいる黒いとっくりとおちょこ
家康は光秀の処分をほどほどにするよう進言したが、信長は甘いと言った。
そこで、家康はかつての家臣・鳥居忠吉の言葉を持ち出して、家臣を信じることの大切さを説いた。
そして、先に京へ入ってお待ちしていると伝えた。

しかし、信長はその真意を見破った。「俺を殺そうとしておるな」と。
「俺はお前の妻子を自害させたことを謝らんぞ。くだらない」その言葉に家康は激高した。

けれども、信長は「お前に俺の代わりは務まらない」と放った。
さらに「10人殺せば10の痛み、100人殺せば100の痛みが、10,000(まん)殺せば10,000(まん)の痛みが集まる。だが俺はそれを受け止めている。この報いは必ず受けるであろう。俺は誰かに殺される。だが、俺は覚悟はできている」と信長が決意していることも知った。

「大変なのはこれからじゃ。戦なき世の政(まつりごと)は乱世を鎮めるより遥かに困難」と憂いる信長に、家康は「私にはあなたの真似はできん。したいとも思わん。わしは、わしのやり方で世を治める。確かに、わしは弱い。だが、弱ければこそできることがあると、わしは信じる。」と返した。

この言葉に信長は「ならやればいい。俺はわずかな手勢を率いて京に向かう。本当にお前が俺の代わりをやる覚悟があるなら俺を討て。やってみろ」と静かに挑発した。
家康は信長をにらみ、足早に立ち去った。

――信長がこのような孤独な考えしかできないのは、幼いころの父の教えからであった。
信長の父親・信秀が、日頃信長に対して「誰よりも強く、賢くなれ。お主の周りはすべて敵ぞ。誰もがこの首を狙っておる。身内も家臣も誰も信じるな。信じられるのは己一人。それがお主の道じゃ」と言っていたからだった。

信長からの挑発に対して、京では家康側が着々と動いていた。
「わしは信長を討つ・・・」
その日は雨が降っていた。

池に雨の波紋が多く見えるほどのしっかり雨最後は本能寺での大火事のシーンになっている。
野次馬が「家康が織田様を討った。家康の首を狙えば褒美がもらえるぞ」と叫んでいた。

本能寺に火を放ったのは家康なのか。
次回、真相が明らかになる――

今回の見どころ

今回は明智光秀が信長の剣幕を受けて、彼が宴席から追放していく様子が印象的でした。
信長の怒りを光秀が被るのは、皆さんもご存知だと思いますが、通説では2人の間に何があったのでしょうか。

通説との違い

1582年、信長は武田氏を滅ぼした労をねぎらうために、徳川家康を安土城に招いて饗応する(食べ物やアルコール類を提供して、他人をもてなすこと)ことにしました。
その前に家康から「やりすぎ」とも思われるほどの接待を、受けていたからです。
手厚い接待を受けたばかりに「きちんとお返ししなければ、メンツが丸つぶれ」と思った信長は、家康が安土に到着したら盛大に接待しようと考えていました。

このとき、饗応役を任されたのが明智光秀でした。
光秀は文化や伝統に通じていて、教養も高かったといわれているため、責任者として任命したようです。
光秀は京や大阪で珍味をそろえるなど、実に10日間もかけて準備したといわれています。

しかし、光秀が最後まで饗応役を務めきることはありませんでした。
『川角太閤記』によると、「光秀は接待のために食事を用意していたが、夏だったので用意していた生魚が傷んでしまっていた」のだそうです。

カゴに並べられた数匹の鮎

準備中に来た信長がこの悪臭に気分を害したため、すぐさま光秀を接待役から降ろしたとされています。
これによって光秀は面目を失い、用意していた食事や調度品を城の堀に捨ててしまったという態度も書かれています。

接待役を外された光秀に、信長は中国地方への出陣を命じました。
これは毛利氏と戦っていた秀吉の援軍に付けという指示です。
光秀はこれにも我慢なりませんでした。
なぜ同じ信長の家臣である秀吉の指揮下に入らなければならないのかと、自尊心を深く傷つけられたといったところでしょう。

しかし、この説は『川角太閤記』から引用したものです。

川角太閤記とは
江戸時代初期に書かれたといわれる、豊臣秀吉に関する逸話をまとめた書籍です。
しかし、俗書であり、その内容にそれほど信用があるものではない二次史料ともいわれています。

他の史料にはこう書かれてあります。

フロイスの『日本史』
戦国時代末期の日本で、キリスト教の布教活動を行なったイエズス会の宣教師ルイス・フロイスによる編年体歴史書です。

これによると、『家康の饗応の準備について、信長はある密室において光秀と語っていたが、信長は元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質であった。信長の好みに合わぬ要件で光秀が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、光秀を足蹴にした』と書かれてありました。

しかし、この話はフロイスが直接見たものではなく、伝聞だったということで注意しなければなりません。
そして、信長に対して信憑性の高い史料が『信長公記』です。

信長公記では
こちらでは、能を舞った梅若大夫が不出来で信長が大変立腹したという話しか、記録されていませんでした。
事件について、あえて書かなかった可能性もありますが、光秀の準備に関する記述は簡潔にまとめられてありました。

もしかしたら、何か問題があったわけではないかもしれませんね。

明智光秀とはどんな武将だったのか

明智光秀は戦上手な武将であり、優れた政治家であったといわれています。

光秀は1528年に出生しました。
父は斎藤道三に仕えていた「美濃土岐・明智光綱」、母は若狭国守護・武田義統(たけだよしむね)の妹「お牧の方」であるといわれています。

ちなみに、斎藤道三は光秀の叔母で「小見の方」と結婚しており、その2人の間に生まれたのが濃姫(のちの織田信長の正室)です。
光秀と濃姫は従兄妹同士です。

光秀の父は彼が幼いころに没したため、代わりに伯父の明智光安が明智家の家督を継ぎました。
しかし、斎藤道三と長男である斎藤義龍の内紛によって、光安は命を落とし、明智家の城も陥落してしまいました。
当の光秀は国を追われ、三十路手前で流浪の身となってしまうのでした。

その後の光秀は、朝倉義景や足利義輝に仕官していたといわれています。
しかし、1565年に足利義輝(室町幕府第13代将軍)が暗殺されたため、弟である義昭が越前の朝倉氏のもとへ逃げてきました。

当時、光秀は朝倉氏に仕えていました。
義昭は下剋上によって京から追われていたため、帰るチャンスを狙っていました。
一方、織田信長は出身国の尾張国を統一し、美濃国を手に入れて、いよいよ京に上ろうと力を蓄えていました。
この2人を引き合わせたのが光秀でした。

両者が手を取り合っている固い握手このことがきっかけで光秀と信長が接近し、徐々に織田家の直臣となっていきました。
信長と共に、光秀も戦国時代の激しい戦いに身を投じていくようになります。
このような時代の中、光秀はめきめきと頭角を現していくようになりました。
政治的な判断に長けており、教養人としても和歌や茶道に通じているために、信長の腹心として地位を確立するようになったのです。

その功績が認められ、丹波国(今の京都府亀岡市あたり)を与えられて、一国一城の主となったほどです。
光秀が信長と出会ったのは40歳を過ぎたころと言われていますので、光秀は「大器晩成の武将」といって良いでしょう。
(当時の寿命は50歳くらい)

今回の配役

明智光秀を演じていたのは酒向芳(さこうよし)さんでした。

略歴

1958年岐阜県生まれ
アニマ・エージェンシー所属

多摩芸術学園演劇科を卒業し、文学座や青年座、無名塾を受験するも不合格となる。
しかし、『上海バンスキング』を観て感動したことをきっかけに、「オンシアター自由劇場」に入団した。
退団後は自ら劇団を立ち上げるなどをして、下積み時代が続いた。
役者のみで食えるようになったのは、50歳になってからだと語っている。

今までの主な代表作(ドラマ)

  • 龍馬伝(大河ドラマ)
  • 軍師官兵衛(大河ドラマ)
  • 青天を衝け(大河ドラマ)
  • 梅ちゃん先生(連続テレビ小説)
  • 花子とアン(連続テレビ小説)
  • まれ(連続テレビ小説)
  • ひよっこ(連続テレビ小説)
  • 半分、青い(連続テレビ小説)
  • 新・信長公記~クラスメイトは戦国武将~
  • 夕暮れに、手をつなぐ
  • unknown

など

まとめ

刀の刃先にろうそくの火をあぶっている画像今回は「本能寺の変」が起きる火種や前兆が描かれている話でした。

前回のあらすじでは、信長に自分の腹の内を決して見せまいと努めていた家康でしたが、安土城で信長にすべて見抜かれてしまいましたね。
それほど織田信長という男は、頭の切れる人です。
信長の考えていることや人柄は、父親の信秀から言いつけられてきたのが理由ということも分かりました。
それゆえに、信長はどんどん孤立していきます。

ドラマでは、家康は信長に並々ならぬ殺意を持っています。
次回の本能寺で、家康はどんなふうに動くのでしょうね。