第28回 本能寺の変
家康が天下取りへの強い思いを表した前回、有事の際は常に家臣を頼り、時に逃避行やふて寝をするほど弱気だった彼の姿はどこにも見当たりませんでした。
自らの策が信長に見破られても、家康の決意は変わりません。
そしてついに本能寺の変へ。
家康・信長・明智、それぞれどんな思いで行動を起こすのでしょうか。
Contents
今回のあらすじ
信長12歳の頃から話は始まる。父や祖父の厳しい監視のもと、信長は勉学に励んでいた。
だが、ついにストレスが絶頂に達し、祖父や家臣たちを木刀でなぎ倒してしまう。
駆け付けた父にも襲いかかるが素手でいなされ、父の元を飛び出したところで現在の信長が目を覚ます。
夢であった。
すぐさま起き上がり刀を抜き、体勢を整える信長。天井から物音がする。前回の最初のシーンと同じである。
「天正10年(1582)6月2日 本能寺」とテロップが流れ、本能寺の変の当日であることが明かされる。
つまり前回とは違う日である。(前回は家康を安土でもてなす前にこのシーンが描かれた。)
刀を構えたまま、信長はゆっくりと部屋の奥へ進む。
背後からの物音とともに振り返ると甲冑を来た武士が、今しがた彼が寝ていた場所へ立っており、切り合いとなる。
勝敗わからぬまま場面は本能寺の外へ。
燃え盛る本能寺を野次馬とともに茶屋四郎次郎が見ている。
辺りは大騒ぎとなっており、四郎次郎も驚愕の表情であった。
「織田様が討たれはった!」「徳川様がやりおったんや!」との声が飛び交う。
「家康の首を取ったもんに、褒美が出るいう噂や!」と嬉々として叫ぶ者もいる。
それを聞き、血相を変えてその場を離れる四郎次郎であった。
一方家康も、並々ならぬ様相でどことも知れぬ林の中を駆け回り、「信長ーーーー!」と叫んでいるのであった。
本能寺の変の3日前:5月29日
明智の元へ、信長が京へ発った報が入る。
信長・その嫡男の信忠・家康が少ない手勢で京に集まることを知り、「時は今。」と不敵に笑う明智であった。
一方、京にいる家康の元へも同様の報が入る。
告げたのは服部半蔵と女大鼠であった。先週と同じシーンである。
報を聞き、家康は安土城での信長とのやりとりを思い出す。
信長は、妙な穏やかさをもって「本当に俺を討つ覚悟があるなら、待っててやるさ。やってみろ。」と家康に言ったのである。
「信長を討つ。わしが天下を取る。」と改めて口にする家康。
家臣・石川数正と酒井忠次は、信長を討っても、その息子たちや天皇、公家たちを味方につけなければ天下は取れないと家康をたしなめる。
家康は、そのために堺へむかうこと、伊賀者は京に留まるように告げる。
6月1日
京入りする信長と入れ違うように、家康たち一行は堺へ向かう。
国一番の貿易都市へと発展していた堺にて、家康は多くの有力者と親交を深めていった。
こうして堺に集まるヒト・カネ・モノ・鉄砲を手に入れる手はずを、整える家康であった。
家臣たちは家康の本気にふれ、止めるべきか否かで意見が割れる。
一方、家康の堺滞在を聞き、信長の妹・お市が堺を訪れる。
お市は、家康が兄・信長のたった一人の友であると家康に伝える。
「まさか。」と戸惑う家康に、お市は信長の孤独と憧憬を語る。
さらに、「いずれ誰かに討たれるなら、あなたさまに討たれたい、兄はそう思っているのでは。」と自身の思いを打ち明ける。
その理由は、ずっと昔に信長が捨てなければならなかった弱さとやさしさ、人からの好感を、家康は持ち続けているからだという。
家康も、立ち聞きしていた家臣たちも、お市の言葉に胸を打たれ考え込むような表情を浮かべる。
本能寺にいる信長は昔を思い出していた。
家を飛び出し、家康たち大勢の手下の少年たちと相撲を取っていた時分のことである。
そんなある日父から呼び出され、家督を継げと伝えられた信長は、父に「己一人の道を行けと?」と問う。
父は、どうしても耐え難ければ心を許す友は一人だけにしておけと答える。
「こいつになら殺されても悔いはないという友を、一人だけ。」と念を押す父であった。
夜、堺の寝所にて家康は、彫り物のウサギと対峙していた。
自らの弱い心の象徴として瀬名に託し、死に際の瀬名からまた受け取ったウサギ。
「ウサギはオオカミよりもずっと強うございます。あなたならできます。」という瀬名と、「あなたさまは、兄のたった一人の友ですもの。」というお市の言葉を家康は思い出していた。
さらに、「待っててやるさ。やってみろ。」という信長の表情を思い、苦悶の叫びをあげる家康の声を、家臣たちが聴いていた。
6月2日
またもや信長は寝ていた状態からふと目覚め、すぐさま起き上がり刀を抜き、体勢を整える。
天井から物音がする。同じシーンの3回目である。
刀を構えたまま、信長はゆっくりと部屋の奥へ進む。背後からの物音とともに振り返ると甲冑を来た武士が、今しがた彼が寝ていた場所へ立っており、切り合いとなる。
この描写は2回目だが、今回はさらに数名の武士が現れ、信長は背後から刺される。
血を吐きながらも刺した武士の覆面を取ってみると、家康であった。
笑顔を浮かべ、「簡単には(天下の座を)代わらんぞ!家康!!」と叫び家康を打ちのめす信長であったが、気が付くと彼は家康ではなかった。
「敵襲!」と信長の寝室に踏み込む小姓・森乱(もりらん)は、血まみれの信長を見て驚愕する。
「家康は…?家康…」とつぶやきながら歩いていく信長を、ただ見ているしかなかった森乱であった。
いよいよ本能寺に軍勢が攻め込んでくる。その様子を外から見ていた半蔵と女大鼠は戸惑う。
血まみれの信長は庭に出て軍勢に立ち向かい、森乱が援護する。
なおも、うわごとのように家康の名を口にする信長であった。
その頃家康は、家臣団に「決断できぬ。」と打ち明けていた。
信長を討つことを見送る意向を示し、家康は己の未熟さを詫びる。
「いずれ必ず。」と異口同音に応じる家臣たちであった。
京へ戻ろうとする家康たちの元へ、血相を変えた茶屋四郎次郎が駆け付け、信長討ち死にを告げる。
討ったのは明智、信長は恐らく死亡、首を取られたかどうかは不明と矢継ぎ早に告げる。
そしてすぐに逃げるよう家康へ迫る。
その理由は、明智が家康の首を狙っていること、家康が信長を討ったと噂している者がいることだと説明。
家康は今や、明智の軍勢のみならず、名を上げたい浪人や民など周囲敵だらけの状態だという。
信長の件は秀吉の弟・秀長によって秀吉の元にも知らされる。
報を受けるやいなや不気味な泣き声をあげる秀吉だが、すぐに冷静になり「今すぐ毛利と和議を結べ。」と弟に命じる。
秀吉は、すぐに引き返して家康の首を取ると言う。
だが、やったのは明智と知らされると拍子抜けしたような表情を浮かべる。
明智のもとに、信長の嫡男・信忠討ち取りの一報が入る。
喜ぶ明智は、「残るは家康だけ。」と笑い、生け捕りにして腐った魚を詰めて殺すと息巻く。
人通りの少ない林の中を逃げまわることを余儀なくされる家康一行だが、四方八方から敵は現れる。
迎え撃ちながらも家康は、心の中で何度も信長の名を唱える。
一方、炎に包まれた本能寺の中の信長も、家康の名を口にし「どこにいる」と探していた。
庭に並んだ軍勢を目にした信長は、ほっとしたように「家康よ…」と言うが、大将は明智であった。
「なんだお前か。」とがっかりする信長。明智が「首を取れ!」とけしかける。
家康は少年期を思い出していた。
織田家の人質となり、信長と相撲を取っていたころ。「あなたがいたから、わしはここまで生きてこれた。」と思いを巡らしながら、襲ってきた民の一人を羽交い絞めにしていた。
信長は軍勢に背を向け、自ら炎の中に静かに入っていく。森乱が彼の盾となり絶命しかかっていた。
家康は家臣たちに「誰も死ぬな。生き延びるぞ」と言い、一行は走り去る。だが家康は一人立ち止まって振り返り、「さらば、オオカミ。ありがとう、わが友。」と心の中で唱えた。
最後に映し出されたのは、真っ赤に燃える本能寺の中を一人進む、信長の背であった。
今回の見どころ
信長が最期の時へと向かっていくさまが、今回の見どころでした。
明智光秀が本能寺にいる織田信長を攻め込み、自害に追い込んだのが「本能寺の変」として有名です。
筆者も中学の修学旅行で京都を訪れた際、「ここが本能寺の変があった場所です。」とバスガイドさんに教えてもらったことを今でも覚えています。[余談ですが年号の覚え方も教えてもらいました。「いちごパンツ(1582)の本能寺の変」]
この、あまりにも有名な歴史的事件。登場人物たちの心情はどう描かれ、家康はどう事件に絡んでいくのか。
そして、ドラマではない実際の家康はどのような行動を取ったのでしょうか。
通説との違い
先週の記事でも触れたように、明智光秀がなぜ謀反を起こしたのかは定かではありません。
確固たる資料がないゆえに、江戸時代からさまざまな解釈がなされエンタメとして楽しまれてきました。
さまざまな説
その一つが、ドラマでも描かれた「家康の饗応役から降ろされた光秀の、信長への怨恨説」です。
その他、「饗応解任とは別の理由による光秀怨恨説」。こちらも先週の記事を参照ください。
そして光秀と信長の確執を利用した「黒幕存在説」。黒幕として最も名を挙げられたのは羽柴秀吉です。
のちに天下を取っていることを考えると、その説が支持されるのも納得がいきます。
他に黒幕として名前を挙げられたことがあるのは、明智光秀の家臣である斎藤利三・室町幕府15代将軍足利義昭・正親町(おおぎまち)天皇・イエズス会・堺の商人・徳川家康などです。
もともとどの説も信憑性は低いのですが、家康黒幕説はなぜ浮上したのでしょうか。
それは、ドラマでも描かれた「妻子を信長に殺されたことによる怨恨」が主な理由です。
通説での家康の動きは?
では、家康は本能寺の変前後にどのような動きを見せていたのでしょうか。
この時代の一次資料としては、度々この記事でも紹介している『信長公記』の他にも信憑性の高い資料がいくつかあります。
家康に近い人物が著したとされる『当代記(とうだいき)』『駿府記(すんぷき)』などです。
それらから明らかになっている家康の足取りは、だいたい以下のものです。
家康たちは安土城で信長の接待を受けた後、京都や大阪、奈良、堺を見物することを勧められています。
このとき、案内者として信長の家臣・長谷川秀一(ひでかず)が同行しています。
一方家康側は、少数精鋭しか同行させていませんでした。
徳川四天王(酒井忠次・榊原康政・本多忠勝・井伊直政)に石川数正、服部半蔵などです。
家康は京を訪れた後、大坂から和泉の堺へ向かいました。
堺では今井宗久(そうきゅう)・津田宗及(そうぎゅう)らの茶会に招かれています。
本能寺の変当日の6月2日、家康は京に戻る予定でした。
家臣・本多忠勝が先遣隊として京に向かっていました。忠勝は河内の枚方(ひらかた)あたりで、家康に本能寺の変を伝えようとする茶屋四郎次郎と遭遇したそうです。
家康は四郎次郎の屋敷に宿泊することになっていました。
忠勝は、四郎次郎とともに来た道を引き返しました。
忠勝と四郎次郎が家康一行に再会したのは、河内の飯盛山の山麓あたりだったそうです。
家康の死後の編纂である『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』によると、信長の死を知っても家康は驚き騒がなかった、とあります。
そして飯盛山に籠り、大坂にいる丹羽長秀(にわながひで)と連絡をとって、明智光秀に一戦挑もうとしたそうです。
しかし『武功雑記(ぶこうざっき)』(※こちらも家康の死後の編纂)によると、このとき家康は「京の知恩院(ちおんいん)で切腹する」と言った、とあります。
本多忠勝ら家臣に諫められて逃げることにしたという顛末が記されています。
家康が自害を口にしたことは、現在では創作とみなされています。
しかし、動揺した家康が、光秀や浪人らに斬られる前に切腹しようとしたことは想像に難くありません。
信長の死の前後の家康の胸中は、今では知る由もありませんが、足取りはだいたい史実通りだったようですね。
その後、危険な「伊賀越え」を行ったことから、家康が本能寺の変の黒幕という説は無理があるように思います。
織田信長とはどのような武将だったのか
織田信長は天文3年(1534)、尾張で生まれました。
幼名を吉法師(きっぽうし)といい、父は織田家の家老織田信秀です。
天文15年(1546)、元服して織田三郎信長と名乗り、父の死によって18歳で家督をつぎます。
この頃の信長は、好んで異様な風体をして、粗暴な振る舞いが多かったので、「大うつけ者」(大ばか者)と評されていました。
桶狭間の戦いで「東海の雄」と言われた今川義元を討ち取り、勢力を拡大しました。
これにより、信長の武名は一気にとどろきます。
足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放することで、畿内を中心に独自の中央政権を確立して天下人となりました。
しかし、天正10年(1582)、家臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害しました。
なお、誰にも首をとらせないよう遺体を焼き払わせたと言われています。享年49歳でした。
今回の配役
織田信長を演じたのは岡田准一さんでした。
略歴
1980年大阪府生まれ。
1995年、V6のメンバーとしてジャニーズ事務所からCDデビュー。音楽活動のほかバラエティ番組に出演。
97年のTVドラマ「D×D」で俳優業に進出すると、数々のドラマや映画に立て続けに出演。
2013年に「永遠の0」で第38回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞、2014年に「蜩の記」で同最優秀助演男優賞を受賞した。最優秀賞をダブル受賞は史上初である。
時代劇への出演も多く、武術や格闘技にも長け、インストラクター資格も持つ。
2021年、V6は解散。妻は女優の宮﨑あおい。
今までの主な代表作(ドラマ)
- 木更津キャッツアイ(主演)
- 大化改新(NHK主演)
- タイガー&ドラゴン(W主演)
- 軍師官兵衛(大河ドラマ・主演)
- 白い巨塔(主演)
など
まとめ
ついに本能寺の変が起こり、信長が最期の時を迎えました。
家康が織田家の人質となっていた頃からの二人の関係は、放送序盤から描かれていました。
今回で信長が家康にどんな感情を抱いていたのかが、明らかになりましたね。
信長は最期まで、家康を思いながら死んでいきました。
そして家康は、彼の死に際して初めてその思いに気づかされました。
2人の様子が交互に描かれることで、怒涛の展開を見せた本能寺の変の渦中にあっても、2人の存在のみが際立つ演出となっていましたね。
一方通行の友情などありえるのでしょうか。
友情とは、互いの心が通じ合い、互いにそれを喜びと感じたときに生まれるもの。
これまで、家康に対する男色をにおわせるような信長の行動が描かれてきたので、急にそれを友情と言われてもちょっと強引な気もしました。
しかし、瀕死の信長が大槍をふるうシーンは見ものでした。
早朝の薄明りの中、黒い鎧の武士たちの中にただ一人、血で真っ赤な寝衣の姿に炎に包まれる本能寺。
赤の映える映像が、この歴史的事件を視覚的にも心に刻ませてくれました。