映画『君たちはどう生きるか』感想 ※ネタバレちょいアリ

映画『君たちはどう生きるか』感想 ※ネタバレちょいアリ

スタジオジブリの新作『君たちはどう生きるか』が7月14日に公開されました。
宮﨑駿監督・脚本による作品は2013年の『風立ちぬ』以来10年ぶりになります。

今回は映画の内容を始め、声優や主題歌担当などの発表を事前に一切しないという異例の体制での公開となりました。
その理由については、ジブリ公式HP内の『野中くん発 ジブリだより』につづられています。
「まっさらな状態で映画を観て欲しい」というのが製作側の思いだそうです。

そこで今回は、製作陣の意図を尊重して、あらすじになるべく触れないようにしながら映画を観た感想を書いていきたいと思います。
ただし、あらすじを全く語らずに感想を述べることはできません。
基本的には、映画を観た人のみがこの記事を読んでくださっていることを前提として話を展開していきます。ご了承ください。

また、宮﨑監督や鈴木敏夫プロデューサーが製作について語ったことなどもご紹介していきます。

感想

物語は大きく前半後半に分かれます。
ですが中盤に短くも重要なシーンがあるので、ここでは前半・中盤・後半に分けて書いていきたいと思います。

前半

従来のジブリ作品同様、人間の一つ一つの動作が丁寧に描かれています。
例えば服を着る、靴を履く、医者にお辞儀をするなど。
スピード感重視の作品ならカットしてしまうようなシーンも、しっかりと描かれています。
描きこまれた美しい背景なども堪能でき、さすがジブリ!とうなる場面が何度も出てきました。

そうして話はゆっくりと進んでいくのですが、アオサギが登場すると明確にリズムが変わります。
緊張感とスピード感を持って現れ、あっという間に去るアオサギ。

ゆっくりとした日常シーンの中に、得体のしれないアオサギが何度も何度も主人公・眞人(まひと)の生活に介入してきます。しかもだんだんと行動をエスカレートさせながら。
こうしたメリハリのある展開の効果で、物語にどんどん引き込まれていく感覚がありました。

中盤

いよいよナツコの姿が消え、舞台が塔の中となり後半へとうつる前に、眞人が今作と同名タイトルの小説を読むシーンが入ります。
これを読む前とあとでは眞人の人格が変わります。

眞人は以外の人間に心を開こうとしません。
眞人の境遇ではそれも当然、と納得できる面もありますが、人間以外のもの(アオサギ)にさえ最初から敵意をむき出しにします。
アオサギは確かに怪しい雰囲気をまとっていますが、最初から眞人に対し煽るような態度を見せていたわけではありません。
私なら「友達になれるかな」と好奇心を持ちそうなところだと思いました。
ところが眞人は部屋に入ってこようとしたアオサギを「しっしっ」と追い返し、窓をふさぎます。
それだけ眞人が警戒心が強く、周囲に対し心を閉ざしているものの弱虫ではなく、好戦的な少年であることがうかがえます。

ところが、本を読んで大いに心打たれたあとの眞人は、急に周囲に協力的になります。
ナツコのことを初めて「ナツコさん」「ナツコおばさん」と言い、恐れも迷いもなく塔の中へ入っていきます。

後半

日常とはかけ離れた、現実とは到底思えない世界です。
しかしまず最初に、それまで妖しく不気味だったアオサギがしょぼいおじさんの姿になったことで、筆者の心は少しゆるみました。

ナツコを探すためアオサギが案内人になってくれることになりましたが、いきなり眞人一人で石の墓の見える砂浜に下り立ちます。
そこからはもうわけのわからないことの連続です。
途中でキリコが現れますが、彼女はこの世界の事象・現象について丁寧に説明してくれはしません。
「石の墓は誰の墓?」「『この世界には生きてる奴の方が少ない』とは?」「船をこいでいた黒くて透明っぽい人たちは何?」などなど。
次から次へと疑問が湧いては解決されないまま話はどんどん進みます。

見ていて思ったのは、「ある日突然この世に産み落とされて生きる、私たちのようだな。」ということです。
私たちは成長とともに自分たちの生きる世界のルールや成り立ちを理解していきます。
しかし、産まれる場所も時代も、産まれるということ自体も自分の意志で選んだわけではありません。
ある日産まれて、何もわからないところから出発し、だんだん世界を理解していきます。
それを追体験させられているような気分になりました。

ただし、映画を観ている私たちはもう何も知らない赤ん坊ではありません。
次々と理解できない出来事が起き、魚の小骨がのどに刺さったような違和感を覚えながらの鑑賞。
筆者は途中ややついていけない感じがして、退屈を覚えました。

それでも、魅力的なキャラクターたちが時々笑いを誘ってくれます。
中でも私はインコ大王が大いに気に入りました。丸っこくかわいい外見と、やけに仰々しい言葉遣いや衣装とのギャップ。
なんとも愛らしい!しかも名前が「インコ大王」って!

そして最大の感動どころは眞人の心の変化です。
話が進むにしたがって、眞人は人に対して心を開き、言葉や態度ではっきりと感情表現をしていきます。
キリコに抱きついたりアオサギを心配したり。
終盤では「この世界」の創造主(大叔父)に、自分の意志を迷いなく伝えます。
大切な人のために自分はどうするか、自分はどんな人間で、これからはどんな人間になりたいのか。
そして笑顔で塔から出ていきます。
明らかに人間的な成長を見せてくれた眞人に、さわやかな感動を覚えました。

また、別の角度からもこの作品を楽しむことができます。
作品は既視感にあふれています。ジブリ作品の中の「あのシーンと似てる!」「この景色見たことある!」「このキャラ、あのキャラの親戚かな」などと気づくことが多いのです。
普通、映画監督は前作と同じことの繰り返しを嫌います。
しかし、毎年何作品も金曜ロードショーで放映され、多くの人の目に触れるジブリ作品。
既視感を逆手に取ったのかもしれません。
自分のお気に入りの作品やお気に入りのシーンを彷彿とさせる場面に出会うと嬉しい気持ちになります。
なかなかこんな手法が取れる監督はいないのではないでしょうか。

考察というほどでもない、ちょっと考えたこと

筆者はこの作品を二回観ました。初見では思い至らなかったことをいくつか挙げていきます。

まず、塔の中の女性たち(キリコ・ヒミ・ナツコ)は、なぜ塔の中に留まっているのかということです。
これには眞人のセリフがヒントになっているような気がします。
行方不明となったナツコを追って眞人とおばあちゃんキリコが森の中へ入っていった場面です。
「自分の意志で(塔の中に)行ったんじゃないと思う」と眞人は言いました。

もしかしたら彼女たちは、大叔父によって自分の意志とは関係なく塔の中に連れてこられたのでしょうか。
ナツコは「帰りたくない」と言い、キリコに至っては「私はずっとここにいる」と発言しています。
ヒミも、外の世界で家族と日常生活を送っていたはずなのに、塔に一年も留まっていた理由ははっきりしません。
外の世界に夫がいるのに帰りたくないというナツコは、心を操られていたのでしょうか。
キリコはラストでヒミと同じドアから外に出ているので、外から来たのは間違いないはずなのですが、記憶をなくしてしまったのでしょうか。

ヒミとキリコは「この世界」の平和を保つために連れてこられ、記憶を消されてしまったのかもしれません。
ナツコのお腹の子がもし男児だったら「この世界」の後継者にさせるため、ナツコの心を操って「産屋」に誘い込んだのかもしれません。

この3人の女性たちは、善良な心を持ちながらも知らず知らずのうちに権力者の言いなりになってしまっているようだと思いました。
現在の日本では、自分の仕事や生活のことに追われ、大小様々な権力者の駒のようになっている人々が少なからず存在します。
筆者もそんな人の一人、と自覚しています。
日常の小さなことしか考える余裕がなく、大きな視点で物事を見るという機会を失っているように思います。
人類全体の進歩だとか貢献だとかいうことには無関心、というか自分が何かできるわけではないと考えているフシもあります。
現在の日本では、それでも十分な生活が送れます。

映画では、そんな女性たちに批判的な描写はないように思いました。
ただ、一部の権力者だけが社会を大きく動かし、一部の行動力のある人だけが異議を唱える。
それ以外の人は、自分が生きていくうえで見出した役割を果たす、という構図が描かれているだけでした。
そこには何も説教くささを感じませんでしたが、政治や社会的課題に対して行動を起こさない人々を表しているのかもしれない、と思いました。
このあたりは原作本の主要なテーマであるので、未読の方にはぜひ読んでほしいと思います。
自分の日常を振り返り、考え直すきっかけになることと思います。

ペリカンやインコは、「連れてこられた」と劇中ではっきりと言及しています。
意志と関係なく塔の中に閉じ込められているのです。
それは、現在の地球全体から見て圧倒的多数を占める、貧困層の人々の象徴のようです。
日々を暮らしていくのに必死で、人間らしい生活をする余裕のない人々。
そうした人々に焦点を当てることは、やはり原作本にも通じる精神だと思いました。

そして、「この世界」の創造主・ヒミとナツコの大叔父。
この人の人物像が筆者にはわかりにくかったです。
女性たちや鳥たちをさらって閉じ込めてまで「この世界」を維持してきたのに、眞人を前にあっさりと「帰るのもいい」と言います。
強硬な手段をとるわりには穏やかすぎる人柄でもあるように思います。

塔に魅せられて世界の創造主となったけど、年をとったので後継者を指名したいというのはわかります。
映画の中の時代であれば、後継者は同じ血を引く一族の男児、というのもわかります。
大叔父の意志でそうなっているのか否かはわかりませんが、そういった縛りが「この世界」を崩壊させたのかもしれません。
これは現実世界の隠喩のような気もします。

宮﨑駿監督の描きたかったもの

2023年現在、宮﨑監督は82歳です。
10年前の『風立ちぬ』公開から間もなく、監督は会見を開き長編アニメの製作から引退することを発表しています。
自身の高齢が主な理由だそうです。
ところがそれから3年後の2016年夏、監督自ら本作の企画書を鈴木プロデューサーに持って行ったといいます。
創作意欲が身体や脳の衰えを上回ったのでしょうか。

それを解くが、2015年の三鷹の森ジブリ美術館での企画展示にあります。
展示名は「幽霊塔へようこそ展」。そのパンフレットに、監督自身がこの展示にむけた思いを漫画で描いているのです。
その中に、今作に通じる思いが読み取れる箇所があるのでご紹介します。
「演出の方針 上へ上へ下へ下へ<たて方向の連続性>」と題された1ページの漫画からの抜粋です。

「ポール・グリモー(※フランスのアニメーター。宮﨑駿・高畑勲などに影響を与えた)の『やぶにらみの暴君』を観て驚愕しました。舞台の王宮はいわばイメージです。その舞台をふたりの主人公・羊飼いと煙突掃除の少年がてっぺんからかけ下り、かけおりついに地下の太陽の光もさしこまない町に逃げ込みます。その結果、王宮全体がつよい存在感を持ったのでした。感動しました。すごい!

つまり、今作で登場した塔も「たて方向」を意識したといえるのではないでしょうか。
監督がなぜたて方向にこだわるのかというと、「横への広がりはわかりにくい」と言います。

ここからは監督自身の言葉を要約してご紹介すると、どんなに細かく舞台を設定しても、観客の理解は得づらいのだそうです。
限定された空間で展開される物語を「密室もの」と言います。
宮﨑氏が監督した1979年の映画『カリオストロの城』は、長年描きたかった「密室での上下運動」
しかしこの映画は、あまりにスケジュールが短かったため終盤を簡略化せざるを得なかったそうです。
映画は今では人気作ですが、監督自身にとっては納得できるものではなく「その後、たて方向の密室は二度とやってません」とつづっています。

今作に登場する塔の中の世界は、密室というには広すぎるし、上っているというには微妙な描写も出てきます。
塔の中から塔を眺めるという、頭がこんがらがりそうなシーンもあります。
それでも、狭い中を上ったり落っこちたり、途中で塔の外からはみ出したりすることで舞台が密室であることを意識する場面はいくつも出てきます。
そのことで「この世界」が小さくて脆い、不完全なものであるということがわかります。
今作では、監督の長年の夢だった「たて方向の密室」が十分描けたのではないでしょうか。

公開までのジブリの思い

作品公開までに公式に発表された情報はタイトル・ポスター・公開日のみ。
大々的な宣伝は全くされなかったため、筆者はジブリ作品が公開を迎えていることを知りませんでした。
知ってから居ても立っても居られなくなり劇場へ足を運びました。
宣伝をしなかった理由について、鈴木プロデューサーがNHKのインタビューに答えているのでかいつまんでご紹介します。

鈴木プロデューサーは、テレビ局や出版社に出資してもらって映画を作り、大々的に宣伝する「製作委員会方式」を始めた第一人者です。
ですが、この方法は一度ストップさせたかったと言います。
それはひとつには、宣伝しすぎ・観客があらかじめ内容を知りすぎという状況を見直したかったことがあります。
もうひとつは、興行収入を見込んで手堅く作品を世に送り出すだけで終わってしまうのが寂しかったと言います。
それは「生まれて初めての博打」だったそうです。

とはいえ、製作費を回収し利益を出さなければ赤字になってしまいます。
それを回避するには宣伝を一切しないという方法をとるしかなかったそうです。
最初は宮崎監督も「大丈夫?」と心配していたそうですが、だんだんとこの大博打に乗り気になったと語っています。

スタジオジブリと宮﨑監督のネームバリューだけでも、観客を動員できるのでは、と筆者は考えます。
ストーリーの独自性だけでなく芸術的要素も強い作品なので、評判は口コミで広がっていくでしょう。
異例の方針で封切られた作品がどれだけの人を動員するのか、楽しみです。

原作について

原作は1937年、吉野源三郎が著した同名の児童向け小説です。
軍国主義が強まる中で、子どもたちに倫理観や道徳を提示し、生き方を考えさせる内容となっています。
戦後に現代仮名遣いに直したものがいくつかの出版社から発売されました。
さらに、2017年に羽賀翔一により漫画化された作品は200万部を超える大ヒットとなりました。
まさに時代を超えた名著と言えますね。

ですが、映画の内容はこの小説とは全く違ったものになっています。
前述の『野中くん発 ジブリだより』には「宮﨑駿監督は子供の頃にこの本を読んで大変感銘を受け、それで今回、自作のタイトルに借用させてもらいました。」とあります。
個人的には、宮﨑監督の完全オリジナルの原案でありながら原作の精神は引き継いでいると思います。

キャスト

山時聡真、木村拓哉、菅田将暉、柴咲コウ、あいみょん、木村佳乃、大竹しのぶ、滝沢カレン(敬称略)ら豪華な面々が声優を務めました。
筆者は、聞きなじみのある木村拓哉さんの声はすぐにわかったのですが、それ以外は誰がどの役をやっているのか二回見てもわかりませんでした。
それほどしっくりきていたと言えると思います。
特に菅田将暉さんには驚かされました。あんな声が出せるなんて!

音楽

今回も音楽は久石譲が担当していますが、劇中において音楽の存在感は強く感じませんでした。
「アシタカせっ記」のようなメインテーマ的な曲がなかったのが残念でしたが、要所要所で美しい音色や緊迫感のある音を聞き取ることができます。

主題歌は米津玄師の『地球儀』です。
エンドロールとともに流れる澄んだ歌声が胸に染み入ります。
切なくも力強い歌声は、思春期の頃のまっすぐな気持ちを思い出させてくれます。
自分をごまかさないで生きていこうと背中を押してくれるようです。
本作のラストを飾るのにふさわしい素敵な曲だと思いました。

まとめ

この作品を一言で言ってしまえば「少年の成長物語」でしょうか。

映画の中の時代でもすでに失われていた、元服という儀式。
大人になる際の通過儀礼として明治以前は庶民の間にも広がっていました。
現代では成人式がこれに当たりますが、心身ともに子どもから大人へと近づいていくのは18~20歳より前に訪れます。
はっきりと「これからは大人」という儀式のない地続きの日常の中で、少年少女は、複雑になった自分の心と対峙していかなければなりません。

本作では主人公が、「どうなるかわからない世界で人のためにタブーを犯す」「周囲からのあたたかい気遣いに気づき、自分も周囲の人を大切にしていく」「現実を受け止め、前に進んでいく」という成長を遂げました。

私たちの世界には塔の中の冒険はありません。
現実の日常の中で、体験や勉強を通して自分でものを考え、自分を知り、世界を知っていくしかありません。
つい周りに流され、自分を見失いそうになったときに見直したい作品だと思いました。