大河ドラマ『どうする家康』第30回について

大河ドラマ『どうする家康』第30回について

第30回「新たなる覇者」

決死の伊賀超えを果たし、見事浜松城へと帰還した家康一行。しかし、信長亡き後、天下統一を目指す武者たちは多数ひしめいています。家康たちはどんな策を講じるのでしょうか。

今回のあらすじ

浜松城にて、家康と家臣・酒井忠次が相談している。
明智を討ったのが秀吉であることについて、警戒心を強める二人。
家康は「秀吉から目を離すな。」と酒井へ忠告する。

天正10年(1582)6月、信長の後継者を決めるため織田家臣たちが清須城に集まっていた。
通称「清須会議」である。

秀吉は、信長の嫡孫・三法師(さんぽうし)を織田家の当主とし、家臣の自分(秀吉)と柴田勝家・丹羽秀長・池田恒興が話し合いをもって政(まつりごと)を行うことを提案。
柴田勝家は、信長の息子たちの立場を案ずる。
しかし、秀吉はどちらかを立てることに反対し、三法師が成長するまで自分たちが力を合わせて政務を執り行うことを主張する。
対立する柴田と秀吉であったが、丹羽と池田は秀吉に賛成する。
柴田は、信長の妹・お市と結婚することを秀吉に告げる。

会議

柴田とお市の結婚は家康の耳にも入る。
家康は「秀吉の好きにさせないためじゃろう。」と見る。
家康の家臣たちも柴田と秀吉がいずれ争うことになると予測していた。

家康は、秀吉のことはひとまずお市に任せ、自分たちは隣国制圧に力を注ぐことを家臣たちに提案する。
武田のものとなっていた隣国三国が信長のものとなったが、信長亡き後、信濃の真田などが勝手な動きを見せている状態であった。
家康は、織田家が内輪もめをしている間に自分たちは三国を北条より先に制すことで、ゆるぎない実力をつけることを家臣たちに言い渡す。
家臣たち、特に本多忠勝は気合十分ですぐに出陣の準備に向かう。
鷹の世話係として徳川方に戻ってきた本多正信も、家康にぜひと乞われ出陣した。

徳川軍は甲斐・新府城に布陣した。
北条軍より数で劣る徳川がどう対処するか、井伊直政が家康に案を出す。
そこへ正信が妙案を出し、家康は正信案を採用する。
憤る直政に、正信のずる賢さを見習うよう言い聞かす家康。
先の戦で召し抱えた武田の兵は直政に一任することも付け加えて伝えると、喜ぶ直政であった。

一方織田家では、信長の次男・信雄(のぶかつ)のもとにいた三法師の身柄が移されていた。
信長の三男・信孝(のぶたか)が、三法師を秀吉の手から守るため柴田・お市夫妻のもとへ移したのである。
憤る信雄に、秀吉は「奴らを成敗いたしましょう。必ずや信雄様を、天下人に。」と約束するのであった。

城の壁

お市は信孝に、織田家の天下を決して秀吉に渡してはならないと強く訴える。
秀吉・信雄と戦になっても、信長家臣たちの多くは自分たちの側につくだろうと予測し、きっと徳川もついてくれると言う。
徳川がついてくれれば心強いと、信孝も賛同する。

徳川と北条の戦は、北条が徳川に和睦を申し入れたことで終結しようとしていた。
ただし、家康の娘を北条当主の妻とする、という条件が北条側より出された。
家康の側室・お葉との間にできた子・おふうに話がいく。
おふうが快く受け入れたことで話がまとまる。

その年の12月、秀吉と柴田勝家が戦になった。
秀吉・信雄軍が先に出陣したが、対する柴田は越前におり、雪のため出陣できずにいた。
秀吉の策である。
柴田が足止めをくっている間に秀吉軍は着々と進軍していた。

そんな中、柴田・お市夫妻から家康へ年の瀬の贈り物が届く。美しい織物であった。
その品の良さから、送り主がお市であること、柴田軍の総大将が柴田でも信孝でもなくお市であることを確信する家康一同。
一方秀吉からも贈り物として金粉が届く。
家臣たちはその品のなさに笑いながらも、いつでもお市のために出陣する準備を整えておこうと決意をともにする。

甲冑を着た武将

天正11年(1583)4月、柴田と秀吉は近江・賤ケ岳(しずがたけ)にて激突。
しかし秀吉の調略により柴田を裏切る者が相次ぎ、柴田軍は総崩れとなった。
越前・北の庄城(きたのしょうじょう)に逃げ延びた柴田とお市、その娘たち。
秀吉軍に包囲され、絶体絶命の状態であった。
長女の茶々は、お市が待ちわびる人(家康)が現れてくれるだろうか、幼い日の約束など覚えているだろうかと案ずる気持ちを母に告げる。

徳川方では、すぐに柴田の援軍につくべきと家臣たちが口にしていた。
しかしそこへ本多正信が割って入る。
「秀吉の調略により前田利家など織田家臣の多くが秀吉側についた。秀吉は人の心をつかむのがうまく、民からの人気も厚い。それこそが秀吉の才覚だ。」と言う。
それを聞き、石川数正・酒井も、今は秀吉と戦をするときではない、こちらは甲斐・信濃を固めることが肝心、と正信に同意する。
お市を思いながらも、「様子を見る。」と苦渋の決断を下す家康であった。

その夜、お市からの手紙を読みながら、子供の頃のお市との約束を思い出す家康。
川に落ちたお市を助けた幼い日の家康は、「お市様のことは、この竹千代(たけちよ。家康の幼名)がお助けします。」と言ったのであった。
思いつめる家康のもとへ側室の於愛が茶を運んでくる。
「古い約束を、お相手はずっと覚えておった。なのにわしは、その約束を、一番果たさねばならんときに、果たせぬ。」と苦しい胸の内を打ち明ける家康であった。

秀吉は柴田たち家族のいる城を包囲していた。
柴田の首だけを持ってくるよう弟・秀長に命じる。
自身がお市と結婚すれば、自分たちを卑しい出だとさげすむ者もいなくなるだろうと目論んでいた。

かがり火

夜、北の庄城の中。茶々は、母であるお市に「徳川殿は嘘つきですね。茶々はあの方を恨みます。」と言った。
そこへ柴田が現れ、秀吉の使者が来たこと、奴のもとへ行くようお市に告げる。
お市は、娘たちに笑顔をむけ「お行きなさい。私はあとから参ります。」と言い、初と江を抱きしめる。
そして使者へを託し、三人の娘たちを見送るのであった。

残った夫・柴田に、「敗軍の将はその責めを負う。」と、自分も自害する意向を伝える。
お市のもとへひざまずく柴田。お市は、「織田家の血と誇りは娘たちが残していくであろう。」と力強く語る。
そこへ、茶々が戻ってきて母を抱きしめる。
「母上の無念は茶々が晴らします。茶々が天下を取ります。」と強い目で静かに語る茶々に、笑顔を見せるお市であった。

秀吉はお市からの「娘たちを頼む。」というを受け取り、「愚かなおなごだわ」と言うが、すぐに茶々に目をつけ頬をなでる。
笑顔で応じ、秀吉の手を取る茶々にうろたえ、思わず目をそらす秀吉。
茶々はすぐに秀吉の手を放しその場を去るのであった。

家康のもとへ、柴田とお市の自害が伝えられる。
「秀吉はわしが倒す。」と決意を新たにする家康であった。

今回の見どころ

秀吉が策士としての才能を発揮し、お市と柴田軍を追い詰めるところが見どころでした。
秀吉の、人によって玉虫色に態度を変えながら、時折むき出しの欲望を語るさまがさらに不気味さを増していました。
それとは対照的に、織田家の血を引く者としての誇りを行動を持って示すお市は、非常に清らかで凛々しかったです。
戦の総大将として勇ましい姿を見せながら、娘たちの前で見せる母としての優しい顔も印象的でした。

通説との違い

清須会議

織田家の家督相続を巡り、清須城にて開かれた会議。
出席者は羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽秀長・池田恒興の4人です。
近年の説では、もともと信長の嫡男・信忠が織田家を継ぎ、その後は信忠の嫡男・三法師を後継者にすることが信長の生前より明らかにされていたので、清須会議の焦点は当時3歳であった三法師の後見人を誰にするか、であったとされています。

清須城

近年以前の、秀吉と柴田が対抗したという説は創作の可能性が高いと見られています。
秀吉が三法師を擁立し、柴田勝家が信孝を擁立して対抗したという説は『川角太閤記』にしか書いていないためです。

賤ヶ岳の戦い

天正11年(1583)4月、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いです。
清須会議後、勢力を増した秀吉と、柴田など他の織田家重臣との権力抗争が激しくなっていきました。
双方ともに各地の大名に調略を働きかけますが、調略作戦は秀吉の方に軍配が上がったようです。
特に前田利家が激戦の最中に秀吉軍に寝返ったことで多くの兵の士気が下がったことが打撃となり、柴田勢は越前・北ノ庄城に向けて退却を余儀なくされました。

茶々・初・江

お市と亡くなった前夫・浅井長政との間には茶々・初・江の三人の娘がおり、お市の自害の際はそれぞれ14歳・13歳・10歳でした。
お市の侍女であった渓心院という人の手紙(渓心院文)には、お市が秀吉に直筆の書状を送り、織田家の血を引く者であるので大切にしてほしい、と3人の身柄の保障を求めた、とあります。
娘たちの行く末を心配したのでしょうね。

ドラマでは、清須会議のときから織田家の相続を巡って柴田と秀吉の対立が描かれていましたが、史実はもう少し込み入っていたようです。
ただし、秀吉の人心掌握の見事さや、浅井三姉妹の処遇などはほぼ史実通りであったといえます。

お市とはどのような女性だったのか

先の「渓心院文」には、北の庄城で三人の娘を秀吉に引き渡すにあたって、お市の方が「三の間」まで出てきた際のことが記されています。それによると、「ことのほかお美しく、22~23歳のようだ」とあります。実際にはこのとき37歳くらいであったと言われています。

お市の方像

そんなお市の方ですが、浅井長政との結婚までの前半生はほとんどわかっていません。
生年は死から逆算して天文16年(1547)、織田信長の13歳下の同母妹とされています。

永禄10年(1567)か11年頃に、お市と浅井長政と結婚したことで織田家と浅井家は同盟を結びました。
茶々・初・江の3人の娘ができますが、江が生まれる直前に長政が信長を裏切ったことがもとで長政は自害します。
長政の死後は織田家の庇護を受けながら親子4人で暮らしますが、清須会議を経て信長の家臣であった柴田勝家と結婚します。この婚姻に関しては、秀吉・柴田・その他の誰が言い出したことかは所説あり、はっきりしたことはわかっていません。

しかしその最期ははっきりしています。
柴田勝家が同盟を求めた毛利家の『毛利家文書』と、それに所収された秀吉書状には、非業の死の様子が生々しく記されています。それによると、

「4月24日寅の刻(午前4時)に秀吉軍が城に攻め入り、死を覚悟した柴田は皆が静まりかえる中、妻などを一刺しで殺し、80人とともに切腹した。寅の下刻(午後5時)だった。」

とあります。

娘たちを自ら秀吉に託したあと、夫とともに自害したお市の行動は多くの人の涙を誘ったことでしょう。

今回の配役

お市を演じたのは北川景子さんでした。

略歴

1986年兵庫県生まれ。
モデルとしてスカウトされ、2003年に舞台「美少女戦士セーラームーン」の火野レイ役で女優デビュー。
2006年、『間宮兄弟』で映画初出演。
2016年、ロックバンド・BREAKERZのボーカルで歌手、タレントのDAIGOと結婚。
2020年、第一子となる女児出産。
趣味は読書、特技は水泳。

今までの主な代表作(ドラマ)

  • モップガール(主演)
  • この世界の片隅に(主演)
  • 謎解きはディナーのあとで
  • HERO第二シリーズ
  • 西郷どん(大河ドラマ)

など

まとめ

落城

織田信長亡き後、どのようにして秀吉が天下人となったのかが詳細に描かれていました。
お市・柴田夫妻にも勝算があったからこそ秀吉に戦を挑んだはずなのですが、数々の家臣や遠方の大名を抱き込んで勝利をつかんだのは見事でした。

家康がお市のことを思いながらも、冷静に家臣の策を採用して秀吉に戦を挑むべきでないと判断したことは、切ないながら厳しい現実を見せつけられたようでした。お市夫妻の死は悲しかったですが、最期まで凛々しく「一辺の悔いもない!」「織田家は死なん。」と言い放つお市がとてもかっこよく印象に残りました。