大河ドラマ『どうする家康』第31回について

大河ドラマ『どうする家康』第31回について

第31回「史上最大の決戦」

サブタイトルを見て意外に思いました。
徳川家康といえば「関ケ原の戦い」が一番大きい戦いと思っていました。
今回から「小牧・長久手の戦い」が始まります。
歴史上ご存知の通り、この後も徳川家康と羽柴秀吉は生き延びます。
個人的にはこの戦いがどのような終わり方をするのかが気になります。
「小牧・長久手の戦い」はどんな戦いだったのでしょうか。

今回のあらすじ

冒頭は前回の話のクライマックス部分から始まる。
お市(織田信長の妹)と柴田勝家(信長家臣)が羽柴秀吉と戦ったが、お市側が敗れ、2人は北ノ庄城にて自害した。(賤ケ岳の戦い)
その報告を井伊直政から受けた徳川家康は「秀吉はわしが倒す…!」と決意していた。

とはいえ、羽柴秀吉は着々と天下人になるための準備を進めていた。
周りの諸大名たちは、羽柴秀吉に献上しようと祝いの品を渡すため長い列を作っていた。
その列に徳川家臣・石川数正も並ぼうとしたが、「徳川方はどうぞこちらへ」と秀吉の弟・羽柴秀長によって、優先的に通された。

秀吉と対面した数正は、徳川側からの祝いの品に「初花肩衝(はつはなかたつき)」を献上した。
これには秀吉がとても驚いていた。

初花肩衝とは
この「初花肩衝」とは、天下三肩衝の1つと呼ばれた茶器である。
説によると、1569年に織田信長に献上され、信長の茶会でも使用された茶器だ。
その後、信長の嫡男・信忠に譲られたが、1582年の本能寺の変の後、徳川家康の家臣である松平親宅(ちかいえ)が手に入れたといわれている。

秀吉は「もったいねぇ、そんな…」ともらしつつ「徳川殿はこの卑しい身の上の猿に、下さるっちゅ〜んか?」と目を潤ませながらへりくだっていた。
そして、数正の手を取りながら、「徳川殿に伝えてくりゃあせ!徳川殿が頼りじゃと!支え合って、仲良くやろまいな!」とすがった。

年配者の手を取る手なぜ祝いの品を献上したのが家康当人ではなく数正かというと、秀吉を油断させて腹の中を探るためであった。
数正も「猿芝居のようにも見えるし、赤子のように心のままに表現しているようにも見える」と家康に報告していた。
猿芝居というのは合点がいく、秀吉一人が初花肩衝を眺めているシーンでは「当人が来ねえとはな」と家康自らが来なかったことに怒りをにじませていた。

さらに、勢いに乗る秀吉は織田信長の次男である信雄を安土城から追い出してしまう。
当初は信長の孫である三法師と織田信雄が「信長の後継者」だと宣言していた秀吉が、天下人としての地位を横取りしたのだ。
これに信雄は怒り、徳川家康に助けを求めた。
しかし、家康はすぐに返事をせず「猶予をくれ」と言った。

海に置かれている紫の砂時計羽柴秀吉と戦になれば規模が大きくなる・・・
そう考えた家康は、家臣である井伊直政、榊原康政(小平太)、本多忠勝(平八郎)へ意見を聞きに行った。
だが、家康の考えは杞憂にすぎなかった。
直政は家康から賜れた武田軍をいつでも動かせるように準備していたし、小平太は「ここまで出世できたことを感謝」していた。
平八郎にいたっては「聞くまでもなし」と戦う気満々であった。
すべては欲まみれの秀吉から太平の世を築くためである。

秀吉と戦う術として、本多正信は織田家の重臣である池田恒興(つねおき)に注目していた。
「こやつをこちらの味方にさせれば、他の大名たちもこちらに付く」と正信は予想した。
戦力の地図を見ると、日本全国にまたがる大戦となる。
それでも、家康の決意に数正も酒井忠次(左衛門尉)も納得した。
「サル(秀吉)を檻に入れようぞ」と戦闘の準備を整えていった。

そして、返事を保留にしていた信雄にも「池田恒興を味方につけること」を指示して、秀吉と戦う旨を伝えた。

剣を振るう紫の甲冑姿の武将しかし、秀吉側は手ごわかった。
10万もの兵を用意しているし、なにより注目していた池田恒興が家康側に付かなかった。
池田いわく「秀吉は好きではないが、家康・信雄よりは気前が良い」のが理由だそうだ。

これには信雄が激怒した。
落ち着かない信雄を家康が諫めた。「秀吉の戦いが思い通りにならないことくらいわかっておった。総大将がうろたえてどうする。信長の息子だろ、しっかりしろ」

羽柴勢は織田信雄方の犬山城を奪うほど勢いがあった。城は池田恒興・森長可(ながよし)らにより攻められてしまった。
そこへ、左衛門尉が夜陰にまぎれて森長可の兵を迎え撃つ提案をしてきた。
「私にはここらへんがちょうど良い死に場所と心得ております」と覚悟を決めている左衛門尉に、家康は「生きて帰ってこい」と送り出した。

森長可の軍は強敵だったが、長年の戦の経験のおかげで左衛門尉側が打ち破った。
もちろん本人も死んでいない。

家康の陣では、今度は小平太が小牧山城にて秀吉軍を迎え撃つことを提案してきた。
周りに堀で塀を築く作戦らしい。
その塀を築くのを家康は「5日で作れ」と命じた。

秀吉軍は犬山城だけでなく、近くの楽田城(がくでんじょう)までをも攻め落としていた。
一方、家康方は予定通り、小牧山城に擁壁を築いて軍を構えた。

小牧山城の丘と旗楽田城と小牧山城は目と鼻の先の距離で、家康軍と秀吉軍が対峙したところで今回の話はここで終わる。
「家康と勝負つけたるわ」と不穏な笑みを浮かべる秀吉に対して、家康はただ静かに相手を見据えていた。
いたって冷静に戦術を考えているようであったーーー

今回の見どころ

今回は徳川家康と羽柴秀吉が真っ向から対立した「小牧・長久手の戦い」が勃発したいきさつが、みどころでした。
歴史上において、あまり目立たない戦いにも見えますが、家康にとって大きなターニングポイントだったということが後世に語られています。

通説との違い

そもそも「小牧・長久手の戦い」の原因は、織田信長が「本能寺の変」にて自害したことから始まります。
このとき、信長以外にも彼の長男である織田信忠も自害に追い込まれました。
2人の一大事に「本能寺の変」を仕掛けた明智光秀を討ったのは、毛利攻めから畿内に引き返した羽柴秀吉でした。

秀吉が敵を取った形で光秀は死にましたが、織田家の家督争いが課題でした。

課題について話し合う3人の人間代わりの人形この会議(清須会議)には、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人の宿老が出席していました。
清須会議で出た結論は「織田信長の次男である織田信雄と、三男である織田信孝が三法師を後見人とすることとし、堀秀政を傅役、執権として羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興が補佐すること」でした。

しかし、秀吉は清洲会議終了直後から、この決定を無視し始めます。
明智光秀を討伐した功績とそれに伴う論功行賞によって、だんだんと重臣筆頭の地位を占めるようになりました。
三法師の傅役となった堀秀政と組み、執権の丹羽長秀と池田恒興を手なずけるようになったのです。
この動きに危機感を感じた織田信孝が柴田勝家と組むようになりました。

さらに秀吉は三法師を取り込むため、織田信孝と柴田勝家に謀反の疑いをかけました。
この動きに、柴田勝家側も秀吉の横暴に耐えきれなくなったため、兵を挙げました。
これが「賤ケ岳の戦い」です。
秀吉は織田信雄を自分の軍に迎えて、柴田勝家と織田信孝に勝利し、2人を自害に追い込むことに成功しました。

しかし、秀吉と信雄の関係は次第に悪化していきました。
そもそも秀吉は「賤ケ岳の戦い」の際に、信雄を織田家当主として祭り上げていただけだったからです。
織田信雄は三法師の後見として安土城の二の丸に入ったときに、羽柴秀吉から安土城の退去を命じられてしまいました。
納得のいかない信雄は、1584年正月に近江国の三井寺で羽柴秀吉と会見したにもかかわらず、話し合いは決裂します。

ヒビだらけになっている「関係」と書かれたボードこうして信雄が代わりに接近したのが徳川家康でした。
それは父・信長と家康は同盟を結んでいたからです。
信雄も家康と同盟を結び、秀吉派の三家老(津川義冬・岡田重孝・浅井長時)を処刑しました。
事実上秀吉に対する宣戦布告を信雄がしてきたため、秀吉側も出兵を決めました。

こうして、織田信雄(とこれに味方する徳川家康)対羽柴秀吉という構図で戦いが始まりました。

織田信雄とはどのような武将だったのか

織田信雄とは織田信長の次男にあたり、1558年に生まれました。
母は側室の「生駒吉乃(いこまきつの)」という人です。濃姫ではないんですね。

信雄は1569年に北畠家の養嗣子(ようしし:家督相続人となる養子)として織田家を出ました。
当時、織田信長が伊勢国に侵攻し、伊勢国司の北畠氏と交戦していました。
その和睦条件に使われたといっても良いでしょう。

それでも、信雄は1575年に北畠の家督を継承して第10代の当主になりました。
ところが、信雄は何を思ったのか、1579年に織田信長に無断で伊賀国に攻め入ってしまいました。
勝手なことをしたうえに、大敗に終わったため、せっかく得た重臣の役を降ろされてしまいました。
父である信長からも「親子の縁を切る」という書状を送ってきたくらいです。

階段から失脚する人形それ以降も信雄は武将として、何の戦功を挙げられないままでした。
織田信長が「本能寺の変」で死んだ後、ようやく織田家に復帰できました。
しかし、通説にも述べたように信雄は信長の後継者になれませんでした。
その後、「賤ケ岳の戦い」そして「小牧・長久手の戦い」が起こります。(「小牧・長久手の戦い」の部分は省略します。)

1590年には、秀吉の養女となっていた織田信雄の長女・小姫(6歳)が徳川家康の嫡男・秀忠と結婚します。
秀忠はこのとき12歳でした。

「小牧・長久手の戦い」以降の信雄も、問題行動の多い武将でした。
秀吉と家康の間を行ったり来たりしていたし、秀吉から改易(大名の領地・身分・家屋敷を幕府が没収し、大名としての家を断絶させてしまうこと)と流罪を言い渡されたこともありました。

ですが、信雄は73歳まで生きました。

ちなみに、信長には数多くの息子がいましたが、江戸時代に大名として存続したのは信雄の系統だけといわれています。
信雄には13人の子供がいました。
武将としては愚かだったかもしれませんが、織田家の血筋を絶やすことなく、後世へつなげたことは天晴れだと思います。

今回の配役

織田信雄を演じていたのは浜野謙太(はまのけんた)さんでした。

略歴

テーブルに置かれたトロンボーン1981年生まれ、神奈川県出身。カクバリズム所属
俳優の他にミュージシャンとしての顔もあり、ファンクバンド「在日ファンク」のボーカルや「SAKEROCK」でトロンボーンを担当をしていた。(SAKEROCKは2015年に解散)

2006年公開の映画『ハチミツとクローバー』で役者デビューを果たした。
その後、俳優としてさまざまなドラマや映画、CMなどに出演。
2011年に公開された映画『婚前特急』で、第33回ヨコハマ映画祭・最優秀新人賞を受賞した。

今までの主な代表作(ドラマ)

  • 西郷どん(NHK・大河ドラマ)
  • いだてん~東京オリムピック噺~(NHK・大河ドラマ)
  • とと姉ちゃん(NHK・連続テレビ小説)
  • まんぷく(NHK・連続テレビ小説)
  • おかえりモネ(NHK・連続テレビ小説)
  • ハングリー
  • BORDER
  • 好きな人がいること
  • 花のち晴れ~花男 Next Season~
  • DIVER-特殊潜入班-

など

まとめ

今回はついに徳川家康と戦にまで発展するほど、羽柴秀吉の傲慢さがたくさん出てきた回でした。
傲慢だけども、秀吉は10万もの兵を準備できるほど、すごく力をつけています。
それに対して、家康軍がどのように戦うのかが気になります。
次回の話では、家康が練った策は成功するのでしょうか…!?