日本の戦国時代を知らない人であっても、川中島の戦いはもしかすると聞いたことがあるかもしれません。
戦国ファンにとっては語りつくせないほどのロマンがある、大人気の戦いのひとつです。
しかし、戦いのきっかけや、12年の間に5回勃発したことは意外と知らない人が多いのではないでしょうか。
意外と奥深い川中島の戦いの歴史を紐解いていくとしましょう。
Contents
戦のきっかけと概要
川中島の戦いは、甲斐(現:山梨県)の武田信玄と越後(現:新潟県)の上杉謙信が、信濃(現:長野県)北部の支配をめぐって争った戦いです。
また、謙信が上杉謙信を名乗ったのは川中島の戦いの6年後です。
ここでは便宜上、武田信玄・上杉謙信で表記を統一しています。
戦のきっかけ
きっかけは、甲斐の武田信玄が信濃侵攻に繰り出したことです。
信濃南部を攻め落とした信玄は北部へと侵攻、村上義清と激しい合戦を繰り広げて2度敗戦しながらも勝利し、信濃の大部分を獲得しました。
村上氏は北へと逃れ、対武田で協力関係だった上杉謙信に助けを求めます。
謙信としても武田に隣国で好き勝手されるのは脅威でした。
上杉軍は川中島に出陣し、長きにわたる戦いが始まるのです。
川中島の戦い概要
きっかけからわかるように武田は北信濃の攻略、上杉は北信濃の村上氏などの領地奪回が目的でした。
川中島での戦いは5回起こり、第一次から第五次の終わりまで12年にわたって続きました。
1553年(天文22) | 第一次合戦(布施の戦い) |
1555年(天文24) | 第二次合戦(犀川の戦い) |
1557年(弘治3) | 第三次合戦(上野原の戦い) |
1561年(永禄4) | 第四次合戦(八幡原の戦い) |
1564年(永禄7) | 第五次合戦(塩崎の対陣) |
なお、この中で実際に激しく衝突したのは第二次・第四次のみです。
特に第四次は最大の決戦となり、一般的に「川中島の戦い」というと第四次を指すことがほとんどです。
ここではその第四次合戦を中心に据えて見ていきたいと思います。
第一次から第三次
決戦となる第四次を見る前に、それに至るまでの3戦を軽くさらっておきましょう。
第一次合戦
村上氏が武田氏から敗走して越後に逃れたすぐ後の1553年9月、上杉軍は北信濃へ出陣します。
そのまま武田軍の先鋒を退け、さらに北進して荒砥城・青柳城を制圧しました。
しかし、武田軍も援軍によって守りを固め、荒砥城に夜襲をかけるなどして上杉軍を八幡原まで押し戻します。
最終的に武田軍が塩田城で籠城戦に持ち込んだため、上杉軍は20日ほどで越後に撤退しました。
第一次合戦は、武田が村上氏の領土を完全掌握する一方、上杉も村上方の北信濃国衆が武田方につくのを阻止することができたとし、両者とも一定の成果を挙げる結果となりました。
第二次合戦
1555年、信濃善光寺の国衆・栗田氏が武田に寝返り、武田の勢力はさらに北へと伸びました。
上杉軍はその春に善光寺奪回のために出陣して攻略、そのまま陣を敷きます。
さらに裾花川の向かいに葛山城を築城し、犀川北岸の構えを固めます。
対して武田軍は善光寺の裏手・旭山城に籠城し、両軍は犀川のほとりで200日余り対峙しました。
7月には上杉軍が攻撃をしかけますが、決着はつかずににらみ合いに戻ります。
最終的に駿河(現:静岡県中部)の今川義元が仲介に入って和睦が成立し、両軍は撤収しました。
和睦条件にあった北信濃国衆の旧領復帰が認められ、上杉側は善光寺より北部を取り戻した形での決着でした。
一方、武田側も南信濃を完全に平定し、侵攻の準備をより盤石なものとします。
第三次合戦
1557年2月、武田軍は上杉の拠点・葛山城を制圧して北進、飯山城に迫ります。
さらに北信濃の国衆への褒賞などを行って調略も進めます。
雪解けまで動けなかった上杉軍も、その4月から武田軍の城を攻めて善光寺を奪回、廃棄されていた旭山城を建て直して本陣としました。
しかし、相模(現:神奈川県西部)・北条氏の援軍によって飯山城まで後退させられます。
各地で小競り合いが続いていたなか、両軍は8月に川中島・上野原にて衝突します。
この戦いでも勝敗はつかず、翌年に13代将軍・足利義輝が仲介に入って和睦が成立しました。
この3度の戦いによって武田氏の北信濃侵攻はほぼ完成状態でした。
その反面、上杉氏は大きな戦果も挙げられずに防戦一方です。
武田氏有利で進んできた川中島抗争は、ついに激戦の第四次合戦を迎えます。
いくさ前の勢力関係・兵力など
第四次合戦前の勢力状況
第四次合戦の頃には、武田氏は北信濃のほとんどを掌握しています。
上杉氏は侵略を食い止められず、にらみ合いや小競り合いに終始してしまっていました。
上杉は多忙で、関東を治める北条氏も相手にしなくてはなりませんでした。
しかし、北条と武田は同盟関係にあり、北条氏の援助要請で1561年4月から武田軍は北信濃攻めを再開します。
武田に背後を突かれてはたまったものではありません。
後顧の憂いを絶つべく1561年8月、上杉氏は4度目の出陣に踏み切りました。
それぞれの兵力
第四次川中島合戦に、武田軍は20,000人、上杉軍は13,000人ほどの兵力で臨みました。
兵力差では武田軍が有利でしたが、互いの手の内の読み合いの末に壮絶な戦いへと進んでいきます。
武田軍の動き
北条氏の要請を受けて北信濃侵攻を再開した武田軍は、上杉軍よりも少し遅れて川中島に到着します。
8月29日に海津城に陣取り、山に布陣した上杉への対抗策を練ります。
上杉軍の動き
6月に対北条氏の関東遠征から戻り、たった2ヶ月後に川中島へ出陣します。
武田軍より先に善光寺経由で妻女山に陣を構え、高所からの戦いを模索します。
決戦の序盤・中盤・終盤の様子は?
海津城の武田軍と妻女山の上杉軍、両軍にらみ合ったまま10余日が過ぎます。
戦況が動いたのは9月9日の夜でした。
序盤の戦況・勘助の策
先に動いたのは武田軍でした。
上杉は山の高所に布陣しており真っ向から攻めるのは圧倒的に不利です。
高所の利点を知り尽くしている謙信に、軍団を全滅されられかねません。
- 視界が広く敵の様子が一目瞭然
- 打ち下ろす弓矢や投石などの威力が増す
- 相手の飛び道具攻撃が当たりにくい など
そこで、武田軍の知将・山本勘助らが、このような策を提案します。
- 別動隊12,000人が迂回して妻女山の裏に登る
- 早朝に奇襲をかけて山から追い落とし、八幡原に誘い出す
- 八幡原で本隊8,000人と挟み撃ちにして殲滅する
キツツキが虫を捕る様子に似ていたことから「啄木鳥戦法」と名付けられます。
上手くいけば上杉軍は総崩れとなり、武田は信濃を手中に収めることになるはずでした。
中盤の戦況・上杉の機転
9月10日早朝、手はずどおりに武田別動隊が妻女山を攻撃します。
しかし、上杉軍はすでに陣払いを終えており、もぬけの殻でした。
謙信は前夜の武田軍陣地から昇る炊飯の煙の多さを見て、何か仕掛けてくることを察したのです。
音も立てずに下山した上杉軍は、八幡原にいる武田本隊の前に立ちはだかります。
その朝はあたりに霧が立ちこめていました。
いるはずのない上杉軍が霧の中から現れるのですから、武田軍は動揺を避けられません。
武田軍の策の裏をかいた上杉軍は午前8時頃、武田本隊を一気に押し潰すべく攻めかかりました。
終盤の戦況・歴史に残る激戦に
波状攻撃で襲いかかってくる上杉軍を、武田軍は鶴翼の陣で迎撃します。
鶴が羽を広げたように三日月形で敵を包む配置で、防御に適している陣形です。
それでも士気が最高潮の上杉軍の勢いはすさまじく、武田軍は多くの兵士や重要な将たちを失っていきます。
その中には信玄の弟(信繁)や山本勘助など、信玄の支えとなってきた将もいました。
本隊はあわや壊滅というところまで追い詰められますが、午前10時頃に別働隊が追いついたことで形勢が逆転します。
上杉軍は短期決着をつけられず挟み撃ちにあい、旗色が悪くなっていきました。
ここから8時間に及ぶ激闘が繰り広げられますが、上杉軍は形勢不利と見て善光寺に撤退します。
信玄も午後4時頃には追撃をやめ、八幡原の激戦は終わりを迎えました。
活躍した武将列伝
川中島の戦いで活躍した将といえば、武田信玄と上杉謙信、武田の軍師・山本勘助が挙げられます。
彼らの歴史を少し紐解いていきましょう。
武田信玄
武田信玄は1521年(大永元)11月3日に生まれ、幼名は太郎、元の名前は晴信でした。
第三次合戦のあとの1559年(永禄2)2月に出家し、信玄という名を号します。
甲斐・武田氏は源氏の名門で、正式な姓名は源晴信といわれています。
父・信虎を1541年(天文10)に甲斐から追放して、武田家第19代当主となりました。
この追放は親子の不仲や、信虎と家臣との関係悪化が原因だったとされます。
その後2度の大敗を喫しながらも信濃を平定、川中島の戦いを経てさらに他の地域にも侵攻を進めました。
その中には遠江(現:静岡県西部)の徳川家康を退けた三方ヶ原の戦いもありました。
15代将軍・足利義昭の号令に応じて織田信長討伐をめざし、破竹の勢いで進撃するなかで持病が悪化します。
1573年(元亀4)4月12日、甲斐に戻る道中に53歳で死去しました。
病死しなければ武田が天下を獲っていたとまで言われている最強の将の1人です。
上杉謙信
上杉謙信は1530年(享禄3)1月21日に生まれ、幼名は虎千代、元は長尾景虎という名でした。
一連の川中島の戦いが終わった6年後、1570年(元亀元)12月に上杉謙信を称します。
1548年(天文17)に19歳で家督を相続し、内乱の絶えなかった越後を3年で統一します。
その翌年から川中島での争いが始まり、第三次合戦のあとには関東攻略にも奔走しました。
関東攻略はなりませんでしたが、越中(現:富山県)と能登(現:石川県北部)を平定し、加賀(現:石川県南部)での唯一の織田軍との対決(手取川の戦い)にも勝利します。
しかし、次の遠征準備中の1577年(天正5)3月9日に春日山城で倒れ、13日に48歳で死去しました。
生涯で合戦に2度しか敗北しなかったという説があり、戦国屈指の戦上手・軍神とも称されています。
山本勘助
山本勘助は菅助ともされ、また、生誕年は定かではありません。
生誕地も定かではなく、駿河や三河(現:愛知県東部)の生まれという説があります。
20代の頃から10年ほどの間、関東・中国・四国・九州の国を巡る武者修行に出ていました。
その中で戦術や築城術を極め、さらに7~9年の牢人時代を過ごします。
1543年(天文12)、武田家の重臣に推挙されて信玄に仕え、南信濃攻略の立役者となります。
しかし、1561年の第四次合戦にて、謙信に策を破られた勘助は責任を感じて敵中に突入、ついに討ち死にしました。
凄まじい活躍はのちに評価され、江戸時代には軍師と呼ばれるようになります。
近年でも大河ドラマの主人公として描かれたのは有名ですね。
それぞれの同盟・支援関係
武田軍
武田は相模の北条氏と同盟を結んでいました。
第四次合戦も北条氏が上杉軍に攻められ、信濃への出陣要請を受けて出兵したことがきっかけで起こったものです。
また、脅威となるであろう南の駿河の勢力・今川氏とも同盟を結んでいました。
武田は信濃攻めに集中できる環境を整え、万端で挑んだ戦いでした。
上杉軍
上杉謙信の直接的な協力関係にあったのは、信濃を追われた村上義清です。
さらに、高梨政頼などの北信濃国衆も味方につけ、地の利を得ていたとも考えられます。
また、謙信は第一次合戦のあとに上洛し、御奈良天皇から武田との戦いの大義名分を得ました。
古くからの縁もあって足利将軍とも仲が良かったといいます。
幕府から関東管領(鎌倉にいる将軍の親戚の監視・パイプ役)の役職を授かっていたのもあって、相模を含む関東の平定に責任感を持っていたとも思われます。
戦場はどのあたり?地形は?
川中島は現在の長野県長野市の犀川・千曲川に囲まれた、三角地帯の地名です。
一連の戦いはこの川中島と周辺地域が舞台になりました。
この一帯は古くから善光寺平と呼ばれる長野盆地で、肥沃な土地は田畑に適していました。
川では魚が多く獲れ、交通の要衝でもありました。
戦国時代において川中島周辺を確保することは、大きな富につながったのです。
多くの中州や島が点在しており、12年の間に何度も洪水で形を変えたとも言われています。
そして、第四次合戦の舞台である八幡原は盆地で、大軍同士が激突しやすい土地だったともとれます。
勝敗の行方は?
第四次合戦の結果
先に仕掛けた上杉軍が武田本隊を圧倒していましたが、武田別動隊が上杉軍を挟撃して大打撃を与えました。
この戦いで武田軍は4000人、上杉軍は3000人余りの戦死者を出し、互いに痛手を負うことになりました。
それでも武田信玄は八幡原にて勝鬨を上げさせて引きあげ、上杉謙信も首実検(討ち取った敵の身元や功績の確認など)を行いました。
両者とも勝利を主張しましたが、今回も明確な勝敗がついた戦いではありませんでした。
のちの『甲陽軍鑑』にて「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」と記されました。
第五次合戦
激しい第四次合戦の3年後、飛騨(現:岐阜県北部)の内紛に介入する形で、またしても武田と上杉は対立します。
しかし、第五次合戦が塩崎の対陣といわれているとおり、武田軍が塩崎城に、上杉軍は川中島に2ヶ月ほど布陣しただけに終わりました。
以後、武田と上杉の直接衝突はなくなり、両勢力とも別の戦いに明け暮れることになります。
5度の戦いを経て
この一連の戦いは北信濃の支配をかけたものでした。
武田は順調に信濃の平定を進めた一方、上杉の北信濃奪回は叶わず最後は越後の防衛線を固めるのが精一杯でした。
いずれの合戦も引き分けに終わった川中島の戦いですが、一連の戦いを制したのは武田氏と言っても間違いではないでしょう。
武田・上杉のその後
川中島の戦いののち、武田は南や西へ侵攻し、上杉は内乱の鎮圧に忙殺されることになります。
武田のその後
武田は川中島の戦いのあと、上野(現:群馬県)西部・駿河・遠江に侵攻して落とします。
また、越中の武将や越中一向一揆を支援し、上杉への牽制も続けました。
西へと進撃する武田軍でしたが、信玄の死により状況は一変します。
織田・徳川が猛反撃を開始、長篠の戦いなどで敗戦を繰り返し、さらに跡を継いだ勝頼への不信が募って武田家臣団は次第にバラバラになっていきます。
最後は家臣の裏切りによって勝頼が自害に追い込まれ、甲斐の武田家は滅亡しました。
上杉のその後
上杉も川中島の戦いのあと、越中・能登を平定します。
越中での一向一揆などは武田が扇動したものであり、川中島以降も武田・上杉は間接的に戦っていたことになります。
謙信の死後は再び家督争い(御館の乱)などで内乱が続き、国内の軍事力は低下していきます。
それでも上杉家は江戸・明治から現代まで残り続け、なんと第32代当主・上杉邦憲博士はJAXA惑星探査機「はやぶさ」プロジェクトにも携わりました。
周辺国の動きと戦の影響
川中島の戦いは武田・北条の同盟の影響が大きいともされています。
武田と北条の同盟が結ばれたあとも、両氏の緊張は続いていました。
その同盟関係の証明のために、武田は北条の共通の敵である上杉を攻めたという説もあります。
結果的に、上杉は関東の北条攻めに集中できず、完遂できないまま終わりました。
一方で武田・北条は互いに広い地域を占有し、国力を増大させていきます。
これは武田と北条の同盟がうまく働いたものといえるでしょう。
まとめ
5回のうち最も苛烈な第四次・八幡原の戦いを中心に川中島の戦いを見ていきました。
川中島での一連の戦いを「甲越対決」と区別することもあります。
当時の合戦では弓・槍・刀といった殺傷力が低めな武器が主流でした。
そんな中で両軍合わせて7000人余りの戦死者を出した八幡原の戦いは、異例といえる壮絶なものだったといえるでしょう。
また、武田氏は同盟関係が複雑で、上杉氏もお家騒動が絶えませんでした。
川中島の戦いもその中で起こったものであり、両氏とも部下たちの求心力を高めるパフォーマンスだった、とする見かたもあります。
戦国時代の合戦の中でも高い人気を誇る川中島の戦いには、さまざまな思いが渦巻く人間ドラマがあったのです。