大河ドラマ『どうする家康』第32回について

大河ドラマ『どうする家康』第32回について

第32回「小牧・長久手の激突」

信雄を安土城から追い出し、三法師を自分の手元に置き、秀吉は天下人たる振る舞いを隠さなくなった。秀吉を脅威に感じた信雄は家康に泣きつき、ついに天下分け目の大決戦が開始された。10万の兵を操り、着々と侵攻してくる秀吉を、家康はどう迎え撃つのか。

今回のあらすじ

信雄・徳川軍は小牧山城に陣を構え、城自体を堅ろうな要塞へと作り変えていた。
その目と鼻の先、距離にしてわずか一里半しか離れていない楽田城に、10万もの兵を率いて羽柴軍が陣取っている。
両雄にらみ合うこと数日、小牧山城では、信雄と家康、家康家臣たちが作戦を練っていた。

妙案を出したのはまたも本多正信である。
それは、秀吉の悪口を書き連ねてそこらじゅうに立札を立てるというもの。
これに乗ったのは小平太である。秀吉が怒りに我を忘れ、軍勢に乱れが出るかもしれないと予想したのである。
こうして、皆で秀吉の悪口を言い合い、字のうまい小平太が板や紙に書き記していった。

集中線

ばらまかれた立札を見つけたのは池田勝入(しょうにゅう。改名した池田恒興。)である。
何が書かれているのかを秀吉の前で読み上げるのをためらう秀長(秀吉の弟)に対し、ためらうことなく読み上げる池田。

「羽柴筑前守(ちくぜんのかみ)秀吉は野人の子なり。」
それを聞いて大げさに泣く秀吉であったが、すぐに「このようなものでわしを怒らせられるとでも。」と大笑いをする。
そして今度は板を地面に叩きつけながら「わしはもっとひでえことばっか言われ続けてきたんだわ。」と怒りをあらわにする。
最後に「その野人の子に家康はひざまずく。」と笑うのであった。

そんな秀吉に池田は「それでよい。おぬしにはわしがついておる。」と言い、2人は高らかに笑うが、池田が去ったあとで秀吉は冷めた顔をしていた。
信長の乳兄弟で織田家の古参家老である池田は、なおも秀吉より立場が上であるかのような態度を取っていたからである。

小牧山城では、羽柴軍の動きを予測する話し合いが行われていた。
家康は正信に、自分が秀吉方だったらどうする、と問う。
正信は、自分だったらここを攻める、と地図から大きく離れた場所に石を落とす。
それに一同はハッとする

泥だらけになり小牧山城の堀を掘っていた兵たちのもとへ、小平太が現れる。
「この図面の通りに掘れ!」と新たに命じたのだ。

小牧山城 土塁

正面から徳川軍の動きが丸見えの羽柴軍は、この様子に「なおも守りを固めるとは。」とあきれていた。
そこへ池田と森長可(ながよし)が現れ、自分たちが三河・岡崎城を攻めると提案する。
本領を落とされまいと出てきた家康を秀吉軍が追い、池田・森軍と挟み撃ちにするという『中入り(なかいり)』という戦略である。
渋る秀吉に、池田は「ここはわしに従っておけ。」と迫る。
秀吉は壇上から下り、池田の頭上から「そういう言い方はせん方がよいぞ。」と低く早口で言ったあと、一晩考えるといつものゆったりした調子で言うのであった。
池田・森がその場を離れる。秀吉は、中入りは「ひそかに」やるつもりでいたが、池田はすでに兵たちに言いふらしているだろうと弟に胸の内を明かした。

堀を掘る作業には平八郎と直政も加わり、小平太も泥だらけになって指示を出していた。
だが正信はサボっている。
見つけた直政が近づき、「殿のお命を狙ったというのは誠か。」と聞く。
自身も昔同じことをしたにも関わらず、今は許されているという点で正信と同じだからである。
「殿はなぜ、我々のような者を許し、信じてくださるのだろうか。」と直政。
「憎んだり恨んだりするのが苦手なんじゃろ。」と正信は答える。
「ご恩に報いてみせる。」と決意を新たにする直政であった。

甲冑 武士

シーンは少し前に戻る。
正信が自分だったらここを攻める、と石で示した場所は、岡崎城であることを皆が悟ったあと、家康は「秀吉に気づかれずに中入り勢を叩けばよい。」と言った。
そして小平太に、敵に気づかれずに堀を作り直すことを命じる。

兵たちが堀を掘っている中、図面を見返す小平太に平八郎が近づく。
「こんな見事な図面を書けるようになっていたとはな。」と言う平八郎に、小平太は、戦場では平八郎にかなわないので頭脳を鍛えるしかないと答える。
ともに「殿を天下人にするまでは、死ぬわけにはいかん。」と決意を共有する二人であった。

羽柴軍では、三河中入りの作戦が正式に兵たちに命じられていた。
こうして夜には、池田・森を含む三万の兵が出陣した。
秀長は、家康が小牧山を出たらただちに追い打ちをかけるため、物見を怠るな、と加藤清正に命じる。

敵が動き出したことを確認した徳川方だが、それが中入りであることは想定済みのため、余裕の表情を見せる一同であった。

次の夜、泥だらけになった小平太・平八郎・直政を含む兵たちが家康のもとへ来て、「十分かと。」と報告をする。
数正・左衛門尉が、これより中入り勢を叩くこと、勝利は間違いないことを兵たちに告げる。
家康は、自分がここまでやってこれたのは良き家臣たちに恵まれたからだと礼を言い、「今こそ、われらの手で天下をつかむ時じゃ!」と檄を飛ばす。
兵たちが沸き立つ中、信雄はただうろたえていた。

合戦 夜

小平太率いる小隊は、掘ったところを進み、気づかれずに敵の最後尾を襲うことに成功した。
そしてついに家康を含む徳川本軍が出陣。
その報を聞いた中入り勢の池田・森は、家康を討つべく意気込む。

徳川本軍で活躍したのは、旧武田軍(通称『赤備え』)を率いてのちに『井伊の赤鬼』と呼ばれた直政であった。
また、平八郎も愛用の槍『蜻蛉切(とんぼきり)』を使い敵を蹴散らした。

秀吉のもとには、中入り勢が長久手にて徳川軍に襲われたと報が入る。
その報に、徳川軍が掘っていたのは守りを固めるための堀ではなく、抜け道であることを悟る秀吉。
ただちに秀吉も出陣する。

だが、すぐに池田・森がともに討ち死にし、中入り勢が総崩れとなったことが秀吉の耳に入る。
秀吉はすぐに引き上げを決意した。

勝利に沸き立つ徳川軍は「エイ・エイ・オー!」と勝どきをあげていた。

破れた秀吉は、「かえってよかったわ。言うこと聞かん奴がおらんくなって。」と言い、「中入りはわしの策ではない。」と兵たちに触れ回ることを加藤清正らに命じる。
そして、敵の総大将は家康ではないので、家康を倒さなくてもこの戦には勝てると言って不気味に笑う。

秀吉

小牧山城では、信雄が家康の手を取って「われらの天下じゃ」と笑っていた。
一同が勝利に沸き立つ中、数正一人が神妙な面持ちで皆と離れたところで座っていた。
家康が「こんな時は素直に喜べ。」と言うと、喜んでいると答えたうえで、「秀吉には勝てぬと存じます。」と答える。
秀吉はわれらの弱みにつけこんでくると言い、数正は信雄を振り返る。
家康も信雄を見て、不安な表情を浮かべる。
そんなことにも気づかず、信雄は「わが天下じゃ。」と笑いながら一同と騒いでいた。
数正の複雑な表情が映し出され、今回は終了となる。

今回の見どころ

今回は家康の登場シーンは少なく、家臣たちの奮闘に時間が割かれていました。
ナレーションで「徳川四天王」の紹介もありましたね。
四天王の中でも、この「小牧・長久手の戦い」では小平太の活躍が目立ちました。
小牧山城を5日で作り変え、敵兵に奇襲をかけたというのは史実なのでしょうか。

通説との違い

小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584)3月~11月にかけて、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍の間で行われました。
歴史上、秀吉と家康が直接対決した唯一の戦いです。

信雄・家康軍は、秀吉の楽田到着までの間、わずか5日間で小牧山を作り変えたと言われています。
土塁を高め、堀を深くし、要所に砦を築きました。

一方、羽柴軍も最前線に二重堀砦を築いていました。
両軍が砦の修築や土塁の構築を行ったため、双方共に手が出せなくなり、膠着状態に陥ったそうです。

家康軍は3月18日に小牧山城を占拠しましたが、両軍のにらみあいが続き、動きがあったのは4月6日の夜中だったと言います。

ドラマにあったように、秀吉軍が三河中入りのために出陣したのです。
しかしこの動きは、家康側に通ずる住民により小牧山の家康の本陣に通報されました。
それを聞いた家康は、ただちに兵たちに出陣させ、自らも出陣しました。
こうしてついに一大決戦が始まったのです。

4月9日早朝、家康軍の先遣隊が羽柴秀次(秀吉の甥)隊を打ち破りました。
秀次隊は援軍を願い、家康軍先遣隊をいったん打破しました。
しかし力を使い果たして、ついに北方へ退却となりました。
家康軍本隊は長久手に進み、池田・森両軍を迎えました。

長久手古戦場

両軍は激戦を重ねましたが、やがて家康軍の優勢が目立っていきました。
池田・森の両大将の戦死の報を聞き、秀吉は兵を率いて長久手へ向かいました。
しかし時すでに遅く、家康はいち早く兵をまとめ、遠回りして小牧山へ帰っていました。
夜が明けてこのことを知った秀吉は、なすすべもなく、兵を率いて楽田に帰るしかなかったのです。

以上が「小牧・長久手の戦い」の通説です。
5日間で小牧山を作り変えたというのは通説通りのようですが、榊原康政が指揮をとったという説はないようです。

榊原康政とはどのような武将だったのか

天文17年(1548)、榊原長政の次男として三河(現在の愛知県東部)に誕生しました。
榊原家は松平家(のちの徳川家)に仕えていた譜代大名の酒井忠尚(ただなお)に仕えていた家柄です。
つまり、陪臣(ばいしん)という、家臣の家臣という身分で、戦国時代において有力な存在とは言えませんでした。

しかし、幼い頃から勉学を好み、字も大変上手かったそうです。
経緯は不明ですが、13歳の時に松平元康(後の徳川家康)の小姓となります。
家康は榊原康政より5歳年上で、当時今川家の人質でした。

書き物をする武士

初陣は三河一向一揆で、このときわずか15歳でした。
しかし見事に活躍し、家康から武功を賞されて「」の字を与えられました。

徳川家康が改名したときと同年、永禄9年(1566)に元服して、名を榊原康政に改めます。
このときまだ19歳の若さでしたが、同年齢の本多忠勝と共に、旗本先手役(はたもとせんてやく)という役目にも抜擢されました。

この任務は、家康の側近として護衛もしますが、戦とあらば率先して戦場へと出向く役目でもありました。
この重要な任務に選ばれたのです。
頭脳も武功にも優れていなければ、ここまでの出世はできなかったことでしょう。
実際、徳川軍が出陣した主要な戦に康政はほぼ参加しています。

江戸時代に成立した『藩翰譜』(はんかんふ)や『武野燭談』(ぶやしょくだん)には、小牧長久手の戦いで康政が秀吉を挑発しようと檄文(げきぶん)を出したことが書かれています。
檄文は、秀吉による織田家の乗っ取りを非難する内容でした。

反対

これに激怒した秀吉は、康政の首を獲った者には十万石を与えるという触れまで出したといいます(後に秀吉とは和解)。

3歳年下の井伊直政とは親友だったと言われています。
「大御所(家康)の心が分かるのは、自分と井伊直政だけ」という言葉を残すほど、信頼し合う仲だったようです。

家柄もよくなく、次男であった榊原康政が家康の重臣となれたのは、武力にも頭脳にも優れた名将だったからではないでしょうか。
本人の相当の努力もあったと思われます。

ドラマでは今後もまだまだ活躍する予定です。楽しみですね。

今回の配役

榊原康政を演じたのは杉野遥亮(すぎの ようすけ)さんでした。

略歴

1995年千葉県生まれ。
2015年、男性向けファッション誌「FINEBOYS」の専属モデルオーディションでグランプリを獲得し、芸能界入り。
モデルを経て、2017年に映画『キセキ あの日のソビト』で俳優デビュー。
同年、ドラマ『地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子』や、人気コミックの実写ドラマ・映画『兄に愛されすぎて困ってます』に出演。

以降、8年連続でゴールデン・プライム帯の連続ドラマにレギュラー出演し続けている。
2023年7月スタートのドラマ『ばらかもん』では、GP帯の連ドラ初主演を果たす。
同ドラマでは、書道未経験ながら書道家の役を演じ、その腕前に注目が集まっている。

今までの主な代表作(ドラマ)

  • グッドモーニング・コール
  • 花にけだもの
  • スキャンダル専門弁護士 QUEEN
  • ミストレス~女たちの秘密~
  • 教場2
  • 恋です!〜ヤンキー君と白杖ガール〜
  • 妻、小学生になる
  • ばらかもん(主演)

など

まとめ

ガッツポーズ

今回は、家臣たちの「家康を天下人にしたい!恩に報いたい」という思いがひしひしと伝わる回でした。
家康の「われらの手で天下をつかむ時じゃ!」というセリフにも、「みんなで」という思いが込められているようでグッときました。
弱かった家康が、家臣との信頼関係によって成長していき、主君として堂々たる振る舞いを見せていましたね。

本多正信は、「民や兵や家臣たちのことを考えていない」として一度家康を見限っています。
いつも飄々としている彼が、家康の言葉を聞いたときに時折考え込む表情を見せていたのが印象的でした。
彼は口にはしないものの、家康の変化に心を打たれているように感じました。

一方、秀吉はいつもより余裕がないように描かれていました。
普段の、演技なのか本気なのかわからない大げさな振る舞いは、今回は本気で感情を揺さぶられているような感じがしました。
悪趣味な衣装やギラギラの本陣のセットも、身分の低い生まれというコンプレックスを表すかのようで見事でした。