第33回「裏切り者」
サブタイトルを見ると、とても悪人のようにつけられていますが、彼なりの苦悩があったのです。
今回のあらすじ
前回の「小牧・長久手の戦い」で、徳川勢が秀吉軍の中入り作戦を防いで勝った。
前回は徳川勢の宴会の場面で終わったが、「徳川方の総大将は家康ではない」ということを秀吉は知っていた。
なので、総大将の織田信雄の所領を次々と侵略していった。
この攻撃に、信雄は秀吉にひれ伏すことになった。
秀吉の陣に信雄が招かれて、秀吉と酒を酌み交わしていた。
信雄は秀吉と和睦することを選んだ。
秀吉の弟・羽柴秀長は「徳川殿にもお越しいただきたい」と求めた。
それ以上に秀吉の「人質も連れてきてくれ」と言い出したことには驚いた。
秀吉は人質を言い改め「養子をもらいたい」と言い直したが・・・
これらのやり取りが家康の元へも書状として伝えられた。
「勝手なことをしてくれる」と家康をはじめ、「我々が勝ったのになぜ!」と徳川家臣も立腹していた。
本当はもっと戦を続けたかったが、「総大将である信雄様が和睦をした以上、我らに戦う理由はなくなった」と酒井忠次(左衛門尉)は説明した。
家康は石川数正に談判を指示したが、その数正でさえも要求を拒むのは難しかった。
数正は秀吉から賜れた金を見せた。「絆で結ばれた徳川家臣を金で釣ろうとは」と呆れる忠次。
それでも人質を差し出さなければならない。
於愛の方が産んだ長丸と福丸はまだ小さい。
家康はある方を城へ呼んだ。
じつは家康にはもう1人子供がいたのである。
以前、瀬名の侍女として働いていた「お万の方」との子である。
お万は「その話、お受けいたします」と申した。
「私と殿とのことは無用なことだったかもしれません。ですが、殿のお役に立てることができる。やはりこの世に無用なことなどありません」と誇らしい顔をしていた。
こうして、お万の方の子である「於義伊(おぎい)」は秀吉のところへ送られることになった。
それと同時に、石川数正の子である「勝千代」も於義伊のお供として、随行することにした。
このように徳川方が苦しい決断をしているさなか、要領の良い秀吉は朝廷から「関白」の称号をもらうまでになった。
関白という地位は「天主様の次に偉い位で征夷大将軍よりも上」を指す。
つまり、織田信長を超えたことになる。
秀吉の姓も朝廷から賜わられ、羽柴から「豊臣」になるのであった。
ただちに、家康は数正を大阪城へ送った。
数正はそこで改めて秀吉の恐ろしさを知った。
秀吉は「今や日本全国の大名が我が臣下となる。徳川殿にも早くこちらに来てもらいたい」と要求した。そして「もう一戦やるか」と脅迫めいた言葉も出した。
数正は「東国は我が徳川が北条と手を組めば強うございます」と反論した。
その言葉を待っていたかのように、秀吉は「では真田と戦って負けはしないであろうな。真田ごときに負けたら徳川はえれ~こったね。」と脅しをかけてきた。
「真田に負けたら家康は直ちに来て余にひざまずくべし。そして人質をもう一人差し出すべし。さもなくば三河も遠江も焼け野原と考えよ」と悪魔の脅しだ。
そこへ秀吉の正室である寧々(ねね)が止めに入った。
「お前様、いち百姓であることをお忘れになるな」と秀吉を叱るも、「我が夫も乱世を鎮めたい一心なのでございます」と理解を求めながら、見事な櫛を数正に差し出した。
「奥方へ」ということだが、寧々もすごい策士だ。
なぜここで真田昌幸が登場するかというと、昌幸が自身の領地である沼田を家康が勝手に北条へ差し出したと不満を漏らしていたからだ。
その不満に秀吉が手を貸したのだった。
その後、真田は徳川を離反し、第1次上田合戦(1585年)が勃発した。しかし、徳川軍は敗北してしまった。
鳥居元忠(彦右衛門)は「兵を引いたんじゃ」と言い返したが、「すべては秀吉の掌の上で転がされている」と数正はつぶやいた。
「秀吉の元へ参上していただけませんでしょうか」と申す数正に、徳川家臣は猛反発した。
彼らは三河や遠江を守るためには、岡崎合戦をもしようとしていた。
そうした家康や一同の考えにうなずけない数正は、自分の思いを語った。
「みっともない訛りをわざと使いぶざまな猿を演じ、相手の懐に飛び込んで人心を操る。欲しいものを手に入れるためなら手立てを選ばない、ついに関白の座さえも手に入れて名実ともに織田信長を超えた。」「もはや秀吉の天下は崩れぬ」
小牧長久手の戦いにも「あんな勝利は些細なこと」と評した。
数正は秀吉のことを“化け物”とたとえた。
「殿は化け物には敵いませぬ。」そして「秀吉の臣下に入るべきと存じます!」と頭を下げた。
この進言に本多忠勝(平八郎)や榊原康政(小平太)、井伊直政は激しく反発した。
忠勝「どなたの家臣なのか」、康政「調略されたか」、直政にいたっては「謀反の疑い!」と数正に刃を向けるほど反発していた。
彼らばかりか、秀吉を深く憎む家康にも真意が届かなかった。
「秀吉が化け物なら退治しなければならぬ」と家康。
戦をする考えに賛同しない数正に対し、「ならば、岡崎城代の任を解く!」と言うくらい、お互いの考えは決裂していた。
石川数正は自身の屋敷に戻っていた。そこへ酒井忠次が訪ね、「お主が調略されない男だということは知っておる」「殿と話してみるとよかろう」と仲裁した。
数正は家康のところに戻り、1対1で話し始めた。
家康は落ち着いた口調で、数正に長年にわたって自分を支えてくれた感謝の念を打ち明けた。そのうえで一緒に秀吉と戦ってほしいと説得した。
一方、数正はこれまでの数々の戦を振り返っていた。
「あの弱く優しかった殿がかほどに強く勇ましくなられるとは。さぞや……お苦しいことでしょう」と家康の苦労を慮った(おもんぱかった)。
これに対し、家康は「わしは、戦なき世をつくる。そう心に決めてきた。苦しくなどない」と答えた。
家康の瞼の裏には、自害した正室・瀬名のシーンが映っていた。
家康の決意に、数正は「危うく忘れるところでござった。殿を天下人にすることこそ我が夢であると。覚悟を決め申した!」と叫んだ。
「もうひと度、この老体に鞭打って大暴れいたしましょう!わたくしは、どこまでも、殿と一緒でござる」と宣言した。
そして、去り際に「殿、決してお忘れあるな……。私はどこまでも殿と一緒でござる」と再び告げた。
しかし、その言葉とは裏腹に数正は出奔した。
数正の屋敷に行くともぬけの殻であった。
「石川数正、その妻子、その家臣、出奔いたしてございます」と忠次が報告していた。
屋敷には、いびつな木彫りの仏と書き置きが残されていた。
その書き置きには「関白殿下、これ天下人なり」と書かれていた。
一方の数正とその妻・鍋は、秀吉の前で「関白殿下のため身を捧げまする」と頭を下げていた。
その前から秀吉は、数正を我が腕になるよう、引き抜こうとしていた。
数正の真意は分からないが、妻・鍋は憂いの表情をしているかに見えた―――
今回の見どころ
今回の見どころは徳川方にとっては一大事である石川数正の「裏切り」でした。
数正は家康を守りたい一心で進言したものの、結果として出奔して秀吉の臣下になってしまいました。
ドラマでは、なぜ数正が出奔したのかまだ答えが出ていませんが、通説ではどう考えられていたのでしょうか。
通説との違い
なぜ石川数正が出奔したのかは、いくつかの説がありますが、有力な説としては「秀吉からの人質差し出しの要求を数正が支持したにもかかわらず、家康には受け入れられなかったから」でした。
これだけを見ると人質なら“於義伊だけで充分では?”と思うかもしれませんが、大河ドラマには出ていない人物が背景にあります。
ドラマと同じように、史実でも「小牧・長久手の戦い」は起きます。
その和議の証として、家康の息子・於義伊(後の結城秀康)と、数正の息子である勝千代(後の康永)を秀吉へ人質に出すことで争いは終結しました。
しかし、そのような状況の中、徳川家臣の真田昌幸が離反してしまいました。
その理由は、家康が真田の領地である沼田領を北条氏との和議のために差し出すよう、要求したからでした。
真田の離反に対して、家康は北条氏から咎められました。
これにけじめをつけようと、家康は真田と戦をします。(第一次上田合戦)
ところが、家康は真田に負けてしまいました。
さらに、真田氏どころか、家康に従っていた信濃の国衆である「小笠原貞慶(おがさわらさだよし)」も離反して、秀吉側に寝返ってしまいました。
この小笠原貞慶と家康の間を数正が交渉役として取り持っていたため、数正は小笠原の離反に対する責任を問われました。
この一件もあり、家康も数正に対して信用しなくなりました。
そのような状態にある徳川に対し、秀吉はさらなる人質を差し出せと要求してきました。
これは家康を自分に従属させたいがためです。
しかし、家康はこの要求を拒否し、秀吉と再度戦おうと徹底的に対抗します。
数正は考えました。
「秀吉のもとには自分の息子を差し出している。家康がこのまま秀吉に対抗し続けていたら、秀吉も再度家康に戦を仕掛けてくることだろう。そうなったら我が息子の命はどうなる…!?」
この頃は、すでに数正は徳川家の中でも孤立していたため、出奔することにしました。
出奔後の数正は、秀吉の配下として活躍しました。
名も秀吉から1字もらって「吉輝」と変えました。
出奔後、徳川には戻らなかったそうです。
1590年には、数正は小田原攻めでの功績が称えられて、信濃国8万石と松本城を与えられました。
石川数正とはどのような武将だったのか
石川数正は松平氏の家老を務めた家系に生まれました。父・康正も家康幼少の時の重臣でした。
徳川家康よりも9歳年上で、家康が今川氏のもとで人質生活を送っていたときから随行し、仕えていました。
「桶狭間の戦い」を機に家康が独立を果たすと、数正は決死の覚悟で駿府まで赴き、今川に囚われていた家康の家族(瀬名、長男、長女)を無事に連れ帰ったり、外交役を務めたりしました。
やがて、家康は織田信長と同盟を結ぶことになります。
このとき、織田家との交渉役を担ったのも数正でした。
数正は家臣団の中でも切れ者として知られています。
徳川家の中でも非常に信頼されていたこともあり、1579年には(信康事件が起きたことで岡崎城の城主が空白となってしまったため)岡崎城の維持管理をする「城代」に任じられました。
また、1582年に「本能寺の変」が起こった後も、通称「伊賀越え」と呼ばれる逃避行においても、数正は家康に同行していました。
その後に「小牧・長久手の戦い」が始まりますが、和議の際にも、数正は秀吉、信雄、家康との調整に奔走していました。
結果的に、この戦いが数正の転機となってしまいました。
家康が幼き頃から仕えてきた数正ですが、晩年になるとだんだん家中から孤立していったため、出奔は苦渋の決断だったのかもしれませんね。
今回の配役
石川数正役を演じたのは、松重豊さんでした。
略歴
1963年1月長崎県長崎市生まれ。
しかし、出身地は福岡県出身。(すぐに移ったため)
現在の所属事務所は「ザズウ」
明治大学文学部文学科で演劇学を専攻し、俳優を目指すきっかけになる。
1983年に新宿にあった小劇場「スペースデン」にて初舞台を踏んだ。
大学卒業と同時に、蜷川幸雄が主宰する劇団「蜷川スタジオ」に入団し、演劇活動を始める。
1989年に退団した後は、フリーでさまざまな作品に多数出演する。
現在では、バイプレーヤーとして数々のドラマに起用されている。
今までの主な代表作(ドラマ)
- ラブの贈りもの
- お水の花道
- 毛利元就(NHK大河ドラマ)
- 北条時宗(NHK大河ドラマ)
- 八重の桜(NHK大河ドラマ)
- いだてん(NHK大河ドラマ)
- ちりとてちん(NHK連続テレビ小説)
- カムカムエブリバディ(NHK連続テレビ小説)
- プロポーズ大作戦
- ハチミツとクローバー
- 夏の恋は虹色に輝く
- 孤独のグルメ(主演)
- バイプレイヤーズ~もしも6人の名脇役がシェアハウスで暮らしたら~(本人役主演)
など
まとめ
今回は石川数正に焦点をあてた話でした。
今回はいつにもまして、数正の表情が暗いシーンが多かったです。
いつも家康の名代役として交渉にあたっていたのは数正でした。
今回の件も、数正が大阪でのきらびやかな町を視察してきたから、家康に進言したのです。
今回は数正と家康・徳川家臣とのズレや孤立が描かれていました。
家康もずいぶんと頑固で強情っぱりに見えます。
次回では、数正の真意は聞けるのでしょうか。
通説では有力な説が出ていましたが、ドラマの数正はどんなことを語るのでしょうね。