第38回「唐入り」
秀吉から江戸行きを命じられ、早速任地にて街づくりに励もうとしていた家康に、突然「朝鮮との戦」の報が入りました。
「唐を手に入れる」と言ってはいた秀吉ですが、本気で実行すると家康は考えていなかったのではないでしょうか。
暴走する秀吉を、家康はどうするのでしょうか。
今回のあらすじ
天正20年(1592)5月、息子を亡くした秀吉は、次なる野望として朝鮮を従え、明を手に入れようとしていた。
そのための準備として、博多の近くの漁村に「名護屋城」を建設。
全国各地から家康含む名だたる大名を呼び寄せた。
そして10万を超える大軍勢を朝鮮へ送り、連戦連勝。
備前名護屋城は活気にわいていた。
秀吉は、関白を甥の秀次に譲り、自らは「太閤」と名乗り、栄華の極みにいた。
上陸を始めて1ヵ月余り、備前名護屋城では、太閤が大名たちを一堂に集め戦局を説明させていた。
説明するのは石田三成(治部少輔)・大谷吉継(刑部)である。
二人によると、日本軍は朝鮮の大半を制圧し、都である漢城(かんじょう)をも陥落させた。
これから北の都・平壌に進み、いよいよ明国攻めとなる。
そのときは太閤も海を渡るという。
前田利家が「みな心を一つにし、殿下をお支えするのじゃ。」と言うと、一同「はっ」と従った。
太閤は明を手に入れたあとは天竺・南蛮をも手に入れられるだろうと語り、「褒美は無限じゃ。大いに励め!」と喝を入れる。
皆がわき立つ中、意を唱えたのは浅野長政である。
「殿下はどうかしてしまわれた。」という浅野の言葉にすぐさま刀を取る太閤であったが、浅野はすぐに捕らえられ連行される。
去り際に浅野は「殿下は狐に取りつかれておる!」と叫んでいた。
怒りが収まらない様子の太閤の前に家康がひざまずき、「浅野殿にはよくいって聞かせます。」と言うと、太閤はやっと刀を収めた。
その場に残った大名たちに向かい、太閤は「この戦は唐のため、日ノ本のため!」と言うと皆が頭を下げ従った。
備前に作られた家康の屋敷では、本多忠勝・服部半蔵らが警護にあたっていた。
見回りをしていた半蔵が、平八郎にある噂を知らせに来た。
藤堂高虎の水軍がやられたという。
半蔵はすぐに家康にも報告する。
そんな話は聞いていない、と動揺する家康に、「我らには本当のことは知らされていないのでは。」と平八郎。
半蔵がさらに仔細を探ることとなる。
家康と平八郎は、石田三成に真相を聞きに行く。
三成は、この戦は自分たちに一任されているとして、太閤にも真実を知らせていないと答えた。
海路を絶たれるのは一大事では、と言う平八郎に、三成は問題ないと切り捨てる。
わが軍は朝鮮で勝ち続けているので、水軍一つなど大局に影響しないと。
平八郎は、海路を絶たれたらすでに上陸している日本軍に援軍や兵糧を届けられず、日本軍はかの地に取り残されてしまうと説明した。
家康が、少なくとも太閤が海を渡るのは取りやめるべき、と続けると三成は顔色を変える。
兵の士気に関わる、と。
家康は、この戦は難しい、やるべきであったのか、と胸の内を明かす。
三成は「殿下は今まで一度として間違った判断をしたことはございません。」と以前も言っていたことを繰り返した。
家康は、三成の立場に理解を示したうえで、「殿下が間違っているときはお止めすると、そなたは申していたではないか。」と諭した。
三成と家康は、海が荒れる時節なので今は行くべきではない、と太閤に低頭して説明した。
そこへ茶々が現れ、唐に行きたいと太閤におねだりする。
家康の真剣な様子を見て、太閤は茶々に席を外すよう命じた。
茶々は素直に従うが、去り際に憎々しそうに家康を一瞥した。
そして外で話を盗み聞きする。
家康は、息子を失った太閤と茶々の悲しみに触れたうえで、「それと政(まつりごと)は別のこと。」と太閤に言った。
それを聞いた太閤は激怒し、そばにあった菓子台を投げ飛ばす。
「余は日ノ本と朝鮮・明の民のために戦をしている。茶々をなぐさめるためではない。」と言いその場を出て行く。
三成がすぐに追いかけ、必死に説得するが太閤は三成を足蹴にする。
そこへ家康が割って入り、太閤の前に短刀を置いた。
家康は、どうしても行くのであればここで腹を切る、と言った。
まっすぐに太閤を見つめ、「殿下のお代わりは、殿下しかおりませぬゆえ。」と言う家康に、一瞥をくれたあと、太閤は何も言わずその場を去った。
三成は家康に留守を頼み、家康は「ご武運を。」と返した。
母・大政所の具合が悪いと知らせを受けた太閤は、茶々に「困ったことがあったら前田利家に相談せよ。」と言い残し、大坂城へ帰った。
太閤が大坂城に着くと、大政所はすでに亡くなっていた。
寧々が、大政所の最期の言葉を太閤に伝える。
息子は本当は何が欲しかったのか、自分でもわからなくなっていると言っていたそうだ。
寧々は、太閤に「これ以上何を望む」「たかが百姓の息子が、身の程をわきまえなされ。」と言った。
「言葉を慎め。」と静かに言う太閤に、「かか様の代わりに言うとるんだわ。」と寧々。
寧々は、太閤をこの世の誰よりも才あるお方と信じてきたが、今はそう思えないと言った。
茶々が家康邸を訪れている。
困ったことがあったら家康殿を頼るよう殿下から言われている、と言われ、家康は神妙な顔をした。
茶々に要件を聞くと、「ずっと母のことをお話ししたかった。」と言う。
母・お市の方の最期の地となった北ノ庄城に、なぜ来てくださらなかったのかと茶々は家康に問う。
謝罪する家康に、茶々は涙ながらに「はしゃいでいなければどうかしてしまいそうになる時がある。」と語った。
父母を殺した者の妻であることが辛くなることもあるが、秀吉を恨んではいないと言う。
茶々は家康の手を取り、うるんだ目でまっすぐに家康を見つめ「茶々は、あなた様に守っていただきとうございます。」と懇願した。
快諾する家康。
そこへ家康の側室・阿茶が声をかける。
自己紹介する阿茶をよそに、「家康殿は戦におなごを?」と聞く茶々。
「殿下に取りついた狐がいると聞いたので、わが殿にも取りつかぬよう退治しようと。」と答える阿茶。
茶々は笑顔で阿茶を激励し立ち去った。
半蔵らが家康のもとへ、判明した事実を伝えに来た。
現地と取り交わされた文によれば、兵糧も尽き寒さは厳しく、明国の大軍勢や民の反乱に襲われているとのことだった。
平八郎は、殿下に真実を知らせるべきと言った。
太閤が大坂から戻り、家康は真実を伝えるべく太閤と相対した。
家康がお悔みを申し上げると、太閤は皆が自分をどう見ているかについて語った。
「小娘相手に、このわしが思慮を失うと思うか。」と問う太閤に、茶々様は遠ざけるべきと答える家康。
太閤はわかっている、と言いながらも茶々は離さん、とも言う。
家康が厳しい表情で「殿下のお心を惑わすお方。」と言うと、太閤は家康の胸倉をつかみ「図に乗るなよ。」とすごんだ。
家康は涼しい顔をして「かつての底知れぬ怖さがあった秀吉なら、そんなことは口にしまい。目をさませ。」と言い、太閤を組み伏して「みじめぞ猿!」と言い捨てた。
そこへかつての将軍・足利義昭が平八郎らの制止をふりきり部屋へ入ってくる。
将軍はにこやかに説教を垂れ始める。
将軍であった頃は何もかもわかっていたつもりでいたが、実は逆であり、厳しいことを言ってくれる者がいて助かったとひとしきり話したあと、すぐに伊達政宗のもとへ行ってしまった。
太閤は家康に、「わしを見捨てるなよ。」と言い、家康はうなづいた。
夜、太閤は寝室にて茶々に京へ帰るよう伝える。
殿下のそばにいたいと泣く茶々を抱きしめ、太閤はこれまでの感謝を述べた。
文禄2年(1593)5月、太閤は明との戦を休止し、和睦に向けた話し合いを進めることとした。
戦地より戻った三成らに労いの言葉をかける太閤に、三成は涙した。
一堂に会していた大名たちが立ち去ろうとしたところへ、茶々懐妊の知らせが届く。
大喜びで笑う太閤を、家康は怪訝な顔で見ていた。
今回の見どころ
太閤・秀吉による朝鮮出兵が描かれました。
わたしたちは後世に生きる者として、この歴史的事実が失敗に終わることを知っていますが、当時の武士たちの心労は大変なものだったということがうかがえました。
秀吉の考え、戦がどう転ぶか、現地の地理など、不明なところが多すぎます。
ただし武功をあげたら広大な土地をもらえる可能性もあったので、勇猛果敢な戦国武将たちの中にはやる気十分な者もいたのでしょうか。
今回は朝鮮出兵についてご紹介していきます。
通説との違い
開戦当初の秀吉軍は快進撃を続けていました。
まずは小西行長のいる一番隊が天正20年(1592)4月12日に釜山から上陸します。
朝鮮内部の混乱もあり、瞬く間に釜山周辺を征圧すると、後続部隊も易々と上陸に成功しました。
一番隊はその後も勝ち進み、わずか3日で明へ向かうルートが確立されたのでした。
17日には二番、三番、四番隊が釜山から上陸し、それぞれのルートで勝ち進みました。
5月2日には朝鮮の首都・漢城を陥落させます。開戦からわずか21日でした。
そして朝鮮国王をも都落ちさせたのです。
一番隊は軍を進め、平壌を征服します。
加藤清正率いる二番隊は、朝鮮と明の国境付近にまで到達しました。
こうして秀吉軍は、朝鮮半島のほぼ全土を征服するに至りました。
順調に明へと勝ち進んでいた秀吉軍でしたが、内部にはいざこざがありました。
一番隊の小西行長と、二番隊の加藤清正の対立です。
対立は出兵前にまでさかのぼります。彼らは出兵の先陣をどちらが切るかで争い、秀吉の裁定で行長に決まったのでした。
しかし出兵してからも両者のひずみは続いていたのです。
それ以外の原因としては次のようなものが考えられます。
朝鮮水軍の攻撃により食料補給が滞ったことに加え、ストレスと寒さから軍内で伝染病が蔓延してしまいました。
さらには、明軍が秀吉軍の食糧貯蔵庫を焼いたことで、約2ヵ月分の食料がなくなってしまいました。
これらが積み重なり、順調に勝ち進んでいた秀吉軍の士気は大きく低下していきました。
そこで行長らは、明と講和の道を模索し始めます。
明との交渉の窓口となったのは行長と清正でした。
文禄2年(1593)に日本と明は講和することで合意します。
これにて一旦休戦状態となりました。
大谷吉継とはどのような武将だったのか
今回は、出番は少なかったものの朝鮮出兵で大事な役割を果たした大谷吉継(よしつぐ)をご紹介します。
ドラマでは、冒頭に石田三成とともに戦局を大名たちに伝える役割を果たしました。
大谷吉継は豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主でもあります。
永禄2年(1559)もしくは6年後の同8年に近江国(滋賀県)に生まれました。
父は六角氏の旧臣・大谷吉房とする説が有力です。六角氏は鎌倉時代~戦国時代、近江国南部に勢力を持った守護大名です。
母は高台院(寧々)の取次役であった東殿であったことがわかっています。
天正始め頃に秀吉の小姓となって以降、秀吉が赴いた数々の戦に従軍しました。
当時は秀吉は信長の家臣でした。
信長が本能寺の変で自害すると、勢力を増した秀吉のもとで吉継も出世していきました。
秀吉が関白となったときに吉継も従五位下刑部少輔の位を授けられます。
これにより「大谷刑部(ぎょうぶ)」と呼ばれるようになりました。
吉継は長く病を患っており、容貌が変質していたと伝えられています。
ハンセン病であったとされていますが、断定はできていません。
ただし目を病んでいたのは確かなようで、直江兼続宛の書状の中で、目の病のため花押ではなく印判を用いたことへの断りを述べています。
石田三成とは深い友情があったと考えられています。
その理由として、秀吉が三成・吉継を「計数の才」に長けた奉行として重用しており、一緒に行動する機会が多かったからです。
秀吉の朝鮮出兵においては、船奉行として活躍。
三成らと共に渡海し、朝鮮諸将の指導や現地報告を取りまとめる仕事を果たしました。
吉継は今後もまだまだ活躍する予定ですので、ドラマでどう描かれるか楽しみですね。
今回の配役
大谷吉継を演じたのは忍成修吾さんでした。
略歴
1983年千葉県生まれ。
高校時代から雑誌で読者モデルとして人気を博し、98年にモデルデビューする。
99年にドラマ「天国に一番近い男」に出演し、俳優としてのキャリアをスタートする。同年は映画「GTO」にも出演。
01年の岩井俊二監督映画「リリイ・シュシュのすべて」では、主人公をいじめる破壊的な中学生役を演じて注目を浴びた。
04年映画「スペースポリス」で主演を務める。
以降数々のドラマや映画に出演し存在感を発揮。
09年に「ビロクシー・ブルース」で初舞台を踏んで以来、演劇作品にも出演している。
14年には大河ドラマ『軍師官兵衛』にて豊臣秀吉に仕えたキリシタン大名・小西行長を演じた。
22年、一般女性との結婚を発表。
今までの主な代表作(ドラマ)
・太陽の季節
・ヤンキー母校に帰る
・LIAR GAMEシーズン2
・軍師官兵衛(NHK大河ドラマ)
・西郷どん(NHK大河ドラマ)
・青天を衝け(NHK大河ドラマ)
など
まとめ
茶々がかつての秀吉のように、底知れぬ怖さや野望を秘めているようで観がいがありました。
芝居がかった言動、人の懐に入り込んでいくところなどが、お市たちを攻め滅ぼした頃の秀吉と見事にリンクしています。
茶々が秀吉の人心掌握術を使って秀吉自身を操り、多くの人を振り回しているのが皮肉であり、悲しくもありました。
家康と一度は意気投合した三成が、少しずつ家康と意見を異にしていく様子も今後の布石となっていて注目して見ました。
また、今回も服部半蔵が笑いどころを作ってくれたのが可笑しかったです。
彼は登場時からお笑い担当のようなところがあったので、また出てくれて嬉しいです。
・冬の朝鮮半島の寒さ
・食料補給が滞ったこと