第39回「太閤、くたばる」
今回は豊臣秀吉の最期が細かく描かれていました。
調べてみると、今回の第39回は秀頼が生まれてから5年間分を一気に描いていることが分かりました。
こちらの記事でも、その数年間を詳しく見ていきたいと思います。
今回のあらすじ
前回のあらすじで、名護屋城にいる豊臣秀吉に茶々が懐妊したことを告げる文が届いた。
今回の冒頭では、茶々と秀吉のお子「拾」が生まれたことに、秀吉がとんでくるところから始まる。
秀吉はとても感動し、喜んだが、お子に触れようとはしない。
不思議がる茶々や寧々(秀吉の正室)に、秀吉は「このような人を殺めた手で触れても良いのだろうか」とためらっていた。
そして周りにいる家来たちに「拾に粗相したものは、誰であっても成敗する」と忠告した。
これには、茶々や寧々も成敗しても良いと指示した。
茶々は「はい」とうなずいた。寧々はそのような茶々に驚く表情をしていた。
秀吉にとって拾は「余のすべて」であった。
一方、家康はというと、前回から朝鮮出兵の真っ最中だった。
だが、日本の情勢は厳しかった。
明との戦を休止し、和睦に向けた話し合いを進めることまでは良い方向だったが、秀吉が出した和睦の条件がむちゃくちゃだった。(朝鮮の南半分の領地を得ることや、王子の一人と大臣の一人を人質にして日本に渡すことなど)
そのような和睦条件に小西行長らは異議を申したが、秀吉は聞き入れなかった。
こうした重苦しい空気の中、シーンは変わり、徳川家康は井伊直政を伴い、酒井忠次(左衛門督・さえもんのかみ)の屋敷を訪ねた。
家康の息子・秀忠(幼名は長丸)の結婚報告をするためだ。
このときの忠次は目が見えなくなっていたが、「源頼朝のようだ」と秀忠の成長を喜んでいた。
秀忠の妻は浅井姉妹の三女・江で、秀忠よりも年上のおなごである。
「秀吉が徳川をつなぎとめたい」がために結ばれた婚姻だが、それでもめでたいことには変わりなかった。
秀忠は忠次に「えびすくいを見てみたい」とお願いしてきた。
ご老体にもかかわらず、忠次は快く応じた。
しまいには、直政、秀忠、そして家康までもえびすくいに参加し、楽しいときを迎えた。
それが終わり、夕方の縁側で家康が忠次のために薬を煎じていた。
これからの行く末について家康はつぶやいていた。「信長様いわく、戦なき世の政(まつりごと)は乱世を鎮めるより遥かに難しいからな」
すると、忠次が家康のことを抱きしめた。
「ようここまで辛抱いたしましたな。私たちは殿だったからここまで生きることができました」と家康に感謝し、労っていた。
そして、「最後の願いを託してよろしいでしょうか」と家康に何かを告げていた。
雪のさなかに、出陣の用意をし、出かけるところだった。
妻の登与が鎧の紐を整えている間に永眠した。
登与は息絶えた夫に「ご苦労様でした」と労っていた。
一方、肝心の明との和睦だが、結ばれた和睦が小西行長らが作った偽物だった!
これに気付いた秀吉は激怒した。
行長を突き飛ばし、朝鮮へ再び兵を差し向けると宣言した。
このような秀吉の暴走に、家康は「我が兵は今回出しませぬ」と先に断っていた。
これには秀吉は反対しなかった。
それどころか、家康に「わしの脳みそには無限の策が詰まっているぞ」と自信ありげな態度を見せた。
だが、家康の読みの方が当たっていた。
徳川の陣には、いろいろな者の死体(一部)が入った樽が運ばれてきた。
その多さに息子である秀忠は驚いていた。
時は流れ、冒頭で産まれた拾は「秀頼」と名を改め、4歳くらいになっていた。
秀頼を中心に、豊臣方が庭で彼の成長を見守っていた。
もちろん、秀吉と寧々も一緒だ。
ところが、そばに来た羽根つきの羽を秀吉が拾おうとしたところ倒れてしまった。
寧々はもちろん、家来や侍女たちが大騒ぎしていた。茶々を除いては。
すぐさま、石田三成(治部少輔・じぶのしょう)が秀吉のところに駆け付けた。
秀吉は寧々の看病の甲斐あって元気な様子だったが、「遺言を作る」と言ってきた。
そのために三成の意見を聞きたいと言う。
三成はずっと胸に秘めていた政(まつりごと)のあり方を説明した。
「力ではなく、知恵を使って、話し合いによって政を行いたい」と三成は申した。
この意見に対して秀吉は「わしもそう思っていた」と賛同した。
「すべては安寧の世と民の暮らしのためじゃ」と三成に任せた。
この秀吉の反応に三成は安堵していた。
そして、家康と前田利家に諸国の大名をまとめる役を頼んだ。
2人は快く聞き入れた。
3人は酒を飲みかわし、平和な光景であった。
ほどなくして秀吉の容態が危うくなってきた。
秀吉が家康との面会を望んでいるため、急いで参上した。
秀吉はただ「秀頼のことをよろしく頼む」と言うばかりであった。
このとき、まだ幼い秀頼の花嫁に、家康の孫である・千姫が嫁ぐことも決まっていた。
そんなことより、家康はいまだ続いている朝鮮との戦を天下人としてどうするのかと尋ねた。
だが秀吉は「そんなこと知ったことか」と放棄した。
今の秀吉は安寧の世や民の暮らしのことより、秀頼のことだけしか考えていなかった。
そんな自分勝手な秀吉に、家康は「もうただの老人じゃな」と皮肉を言った。
これにはかまわず、秀吉は「三成は皆で話し合いで政を行うと言っていたが、果たしてそんなことが本当にできるのか。そんなにこの世は甘くないことぐらい、お前さんだって分かっているはずだろう。」と弱々しく悟った。「豊臣の天下は、わし1代で終わりだわ」
「だから放り出すのか。唐(明)、朝鮮の怒りを買い、秀次様を死に追いやり、諸国大名の心も離れ、民も怒っている!それなのに全部放り出すのか!!」と家康は怒りをあらわにした。
それでも秀吉の方は「なーんもかんも放り投げて、わしはくたばる。あとはおまえがどうにかせえ」と開き直り、さらに咳込んで息絶えたフリもした。
こんな彼の姿に家康は「大嫌いじゃ!」と放った。
家康とは逆に、秀吉は家康のことが好きだったようだ。
「織田信長様は天下を引き継ぐのは、おめえさんだったと思っていたにちがいない」と思いもよらぬ本音ももらした。
「天下を引き継いだのはそなたであろう」と家康は答えた。
「すまんのう。うまくやりなされや」秀吉が家康に天下人の座を託したように見えた。
家康は「二度と戦乱の世には戻さぬ。あとは任せよ」とバトンを受け取ると、帰っていった。
秀吉の体はますます衰弱し、ついには吐血までしていた。
そばには茶々がいたが、使いを呼ぶ鈴は茶々がわざと遠ざけてしまった。
そして、苦しむ秀吉に近寄り「秀頼は、あなたの子だとお思い?」と問いかけた。
意味深な問いだったが「秀頼は私の子」そして「天下は渡さぬ」とおぞましい顔で言い放った。
さらに「あとは私に任せよ・・・猿」と秀吉の顔をつかんだ。
秀吉はなぜか笑みを浮かべ、そしてくたばった。
絶命した秀吉を、茶々は我に返って泣いていた。
その頃、家康は考え事をしていた。
2人の願いややりとりは、この後の家康をどう動かすのだろうかーーー
今回の見どころ
今回は豊臣秀吉の終焉の話でした。
しかし、秀吉が死去したときも、朝鮮との戦は続いていました。
秀吉が勝手に起こした第二次朝鮮出兵は、周りの者たちにどのような影響を及ぼしたのでしょうか。
通説との違い
日本だけでなく、朝鮮を援護した明国にとっても休戦・和睦は良い案でした。
だけども、両国とも和睦の条件を譲歩しませんでした。
両国の講和交渉担当者が、日本側が小西行長、明側が沈惟敬(しんいけい)という者でした。
彼らは「日本側には明が降伏した旨を報告し、反対に明側には日本が降伏した旨を報告」することにしました。
しかし、実情は豊臣秀吉や明の朝廷の認識とは大きくかけ離れたものでした。
両国ともこの戦は自国の勝利と思っていたため、和平交渉のときには強気の条件で臨みました。
しかし、そんなウソもすぐバレてしまいます。
明が降伏していなかったと分かると、秀吉は怒り心頭になり、再度朝鮮半島への出兵を決意したのでした。
第二次朝鮮出兵では、秀吉は第一次朝鮮出兵のときには制圧できなかった「全羅道(朝鮮八道)」を最優先に制圧しようとしました。
これを押さえれば、いち早く朝鮮半島全土を制することができると考えたからです。
第二次朝鮮出兵での最大の激戦は「蔚山(いさん)城の戦い」でした。
こちらも第一次・第二次と分けることができます。
この戦いでは加藤清正や浅野長政らが活躍しました。
秀吉軍の完勝ともいっても良いくらいの結果だったといわれています。
しかし、この頃に秀吉が死去します。
このときの日本は不穏な空気が蔓延し、有力大名が互いに牽制し合うような不安定な状況でした。
しかも、秀吉の朝鮮出兵のせいで、豊臣政権の力も弱くなっていました。
戦場に赴いても、戦果がなく見返りもないので、肉体的・精神的はもちろん、経済的にも疲弊していきました。
一方、この戦いで最大の利益を得たのは家康でした。
第二次朝鮮出兵の際、家康側は東日本の要に予備兵として置かれましたが、朝鮮には全然出兵しませんでした。(本多忠勝ら主だった徳川諸将も含む)
この考えが賢かったということで、家康は国内で戦力を蓄えることができました。
豊臣秀吉とはどのような武将だったのか
秀吉は1537年に尾張国(現在の愛知県西部)の貧しい農家に生まれました。
父親は足軽をしていた「木下弥右衛門(やえもん)」、母親は「仲」(のちの大政所)です。
ですが、実父は秀吉が7歳のときに亡くなり、母は再婚します。
秀吉は1550年に家を出て、侍になるために遠江国に行ったとされていますが、おそらく継父と折り合いが悪かったからだといわれています。
遠江に行った秀吉は今川氏の陪臣(家臣の家臣)である松下氏に仕えました。
この頃、名を「木下藤吉郎」と改名しました。
織田信長に仕えるようになったのは1554年、秀吉が17歳の頃でした。
最初は馬の世話をする仕事をしていましたが、「信長の草履を懐で温めていた」という逸話もあるように「草履取り」の役目も担うようになりました。
非常に真摯な仕事ぶりだったそうです。
妻になる「寧々」と結婚したのは1561年でした。(当時としては珍しい「恋愛結婚」といわれている)
秀吉の出世街道
そこから秀吉の出世が始まります。
1566年(29歳)には墨俣(すのまた)城築城で、秀吉は機転を利かせ、川の流れを利用して木材を運び、一夜にして重要な砦(とりで)を築き上げました。
この奇策は織田信長に示した最初の功績だったといわれています。
さらに、1570年(33歳)の「金ヶ崎の戦い」では、退却する軍の最後尾という最も危険な殿(しんがり)で奮戦したため、信長から信頼を得るようになりました。
名も木下藤吉郎から「羽柴秀吉」と改名しています。(羽柴の由来は武将:丹羽〔にわ〕長秀と柴田勝家の名前から取った)
(この間に浅井・朝倉氏との戦いである「姉川の戦い」があり、彼らを討った秀吉は浅井氏の旧領・北近江の領主となり、信長の武将となる)
その後も「長篠の戦い」や「信貴山城(しぎさんじょう)の戦い」など、数々の戦で活躍しました。
しかし、信長の下で活躍していた秀吉にも転機が訪れます。
それが1582年(45歳)の「本能寺の変」です。主君である織田信長が明智光秀の謀反により殺されました。
そのとき、秀吉は九州攻めをしていましたが、信長の死を隠しつつ「毛利輝元」と講和し、京都へと引き返しました。
そして、光秀を討ちました。(山崎の戦い)
この討伐の功績によって、秀吉は領地を多くもらえました。
さらに、織田家の後継者に信長の孫である「三法師」を推薦し、みずから後見人になりました。
このことにより、織田家臣である柴田勝家と深い溝ができるようになりました。(実際は三法師の後見人は織田信雄または信孝だったが)
この柴田勝家との対立、そして信長の次男である信雄・三男である信孝とのいがみ合いから「賤ヶ岳の戦い」が始まります。
勝家は未亡人となった信長の妹・お市と再婚しましたが、秀吉に敗れて自害することとなりました。
これに勝った秀吉は大坂の地に大坂城を築いて、拠点としました。
秀吉と天下統一
秀吉はその後、有力武将を次々と取り込み、力をつけ、1585年(48歳)には朝廷から「関白」に任命されました。
さらに、翌年の1586年には天皇から「豊臣」の姓も与えられて、太政大臣まで上り詰めました。(同年家康と秀吉の妹・旭が結婚する)
秀吉には高いコミュニケーションスキルと知略がありました。
そうした能力の甲斐あって、1587年には九州を平定、さらに1590年には抵抗を続けていた北条氏を降伏させ、さらに奥州をも平定させて、ついに天下統一を果たしました。
この頃、秀吉が行なった政策として「太閤検地」や「刀狩令」があります。
秀吉の暴走
しかし、国内の天下統一だけでは飽き足らず、秀吉は朝鮮出兵を企てました。
この理由は東シナ海貿易の権益を握ろうとした説が一番有力です。
けれども、この記事でもご覧のとおり、朝鮮出兵は難航します。
さらに、国内でも事件が起こりました。
発端は秀吉とその側室・淀殿(茶々)との間に、「豊臣秀頼」が生まれたことでした。
秀吉は第一子の男児(鶴松)を1592年に亡くし、関白の座を自身の甥の「秀次」に譲っていました。
そこで、秀吉は秀次に謀反の疑いをかけました。
鷹狩りを口実に謀反の協議を行なっていることや、朝廷に金銀を献上していることがその理由とされています。
秀吉は秀次の話を直接聞こうともせず、高野山へ追いやってしまいました。
秀次は身の潔白を証明するために、自ら切腹したものと思われます。(1595年7月)
秀次だけでなく、彼の一族すべて(計39名)も処刑されてしまいました。
これは一族の誰かが、秀頼にとって代わろうとするのを阻止するためでした。
この事件が終わっても、朝鮮出兵の戦は続いていました。
豊臣秀吉の最期
1597年(60歳)2月、秀吉は2度目の朝鮮出兵を命じました。
それと同時に、日本で我が子・秀頼を後継にすべく、その立場を固めていました。(1596年に拾から秀頼に改名させる)
諸大名たちにも上洛させて、秀頼への忠誠と秀吉が定めた法を遵守する誓約書を提出させていました。
1598年春より病身となり、病状も日に日に重くなってきた秀吉は、再度諸大名に誓約書を提出させます。
自分の死後は秀頼に忠義を誓い、仕えるよう遺言を残します。
そして、1598年8月18日に、豊臣秀吉はこの世を去りました。享年62歳でした。
死因は最も無難な説では、結核だったといわれています。
これは亡くなる数年前から咳をしきりにしていたからでした。
ドラマでは、淀殿に夢中になっていたために冷静な判断ができなくなったように描かれていますが、実際には淀殿より秀頼に夢中になっていたことでしょう。
秀吉は亡くなる前に淀殿にも手紙を出しています。
その中にも秀頼のことがたくさん書かれていました。
今回の配役
豊臣秀吉を演じたのはムロツヨシさんでした。
略歴
1976年1月神奈川県生まれ。事務所は「アッシュアンドエー」
大学に入るも、すぐに中退して俳優養成所に入所。
1999年から、単独で舞台活動を始めるも下積み時代が続いた。
2005年に映画『サマータイムマシン・ブルース』を足掛かりに、映画にも出演するようになる。
2008年から舞台「muro式」を定期的に開催するようになる。
2018年、42歳でエランドール賞新人賞を受賞。
2022年から現在の事務所に所属となる。
今までの主な代表作(ドラマ)
- 踊る大捜査線シリーズ
- 平清盛(NHK・大河ドラマ)
- おんな城主 直虎(NHK・大河ドラマ)
- 勇者ヨシヒコシリーズ
- 空飛ぶ広報室
- ごちそうさん(連続テレビ小説)
- 新解釈・日本史(主演)
- 悪党たちは千里を走る(主演)
- 大恋愛~僕を忘れる君と
など
まとめ
今回は豊臣秀吉のことを詳しく書きました。
私は秀吉の最期で吐血していたシーンが、とても衝撃的でした。
ドラマでは、秀吉の跡を家康が引き継ぐよう、やりとりされていました。
それに、茶々や石田三成の思惑が絡んできます。
秀吉が亡くなっても、もう一荒れ起きそうですね。
これから家康はどう切り抜けていくのでしょうね。
彼は秀吉に提案したように、皆で話し合いで政を行うことが夢だと家康にも語っていた。
・もう1つは、記事の前半で亡くなった「酒井忠次」とのやりとりである。
彼は家康に最後の願いを託していた。
それは「家康が天下を取れ」ということだ。
家康は「天下人は嫌われるぞ。信長も秀吉もできなかった」と否定するが、忠次は「殿だからこそできるのです。戦が嫌いな殿だからこそできること。大いに嫌われなされ」と家康の人柄を見越して託していった。