第40回「天下人家康」
ついに秀吉が亡くなり、世を治める人物が不在となりました。
合議制による統治を目指す石田三成と、「天下を取れ」という酒井忠次の遺言にも似た訴えの間で、家康は揺れています。
今回のあらすじ
慶長3年(1598)秋、伏見城に豊臣家臣の五人の奉行と、大きな力を持つ五人の大名が集まった。
今後の政務について話し合うためである。
五人の大名の中でも、所領が一番大きく、力を持っているのは家康であった。
石田三成(治部少輔)が秀吉の遺言を読み上げる。
・五人の大名がそれを支える
・この十人衆が一丸となり天下を治める
これに家康は、「無論異論はない。再び天下が乱れること、あってはならぬ。」と静かに言った。
諸大名にも意見を求めると、皆賛同した。
安堵の表情を浮かべる三成。
目下の難題は泥沼と化した朝鮮のことであり、混乱を避けるため、秀吉の死はしばらく公にしないこととなった。
会合が終わり、皆が帰る中、大名の毛利輝元・上杉景勝が三成を呼び止めた。
二人は「話し合いで政を行うには力が対等でなければ、結局は力を持つ一人が決めることになる。」との懸念を口にした。
「力を持つ一人」とは家康であることを三成は理解した。
「徳川殿は狸と心得ておくがよい。」と上杉にすごまれ、驚きを隠せない三成であった。
家康の屋敷では、平八郎・正信・阿茶と家康が集まっていた。
「殿が天下人となればよい。」と平八郎は言った。
だが正信と家康は、朝鮮の問題を三成がうまく収めるまで待つべきとの考えで合意していた。
面倒ごとを引き受けないためである。
朝鮮出兵において、豊臣軍は多くの死傷者を出しながらも、大きな実りを得られずにいた。
すでに7年もの間戦い続けていたが、11月についに撤退することとなった。
博多にて、三成は加藤清正と黒田長政らの軍勢を出迎えた。
三成は皆に労いの言葉をかけ、「戦のしくじりの責めは不問といたす。」「京で盛大な茶会を開く。」と言った。
「しくじり」という言葉に、黒田は怒りを抑えきれず暴れ出した。
加藤は涙を浮かべ、三成に「兵糧もない中で皆が何を食べてきたか、わかっているのか!茶会とはなんだ!」と言い、三成の胸倉をつかんだ。
加藤も黒田もすぐにきびすを返して去っていった。黒田は三成をするどく睨み去った。
並々ならぬ状況に、信じられないといった表情を浮かべる三成であった。
家康と前田利家のもとに、加藤や黒田といった戦地に赴いていた豊臣家臣たちが押し掛けた。
彼らは「治部少輔に戦の責めを負わせたい。」と懇願した。
三成ら奉行衆は、戦の責めは彼らにあるかのように秀吉に報告しており、名誉を傷つけられたという。
家康と利家に「治部少輔を処断してほしい、さもなくば我らにも考えがある。」と続けた。
利家は「治部らに任せたのは殿下のご意思。」と言い渡し、和を乱すならこの前田利家が許さん、とすごんだ。
別室で待っていた三成と寧々のもとに、「すごい剣幕であった。」と家康は報告した。
寧々は「皆に詫びをいれては。」と三成に提案する。
三成は、自分は間違っていないと即座に断った。「殿下のご遺言に従い、皆が一つにならなければいけないときに争いを起こすあいつらが悪い。」と。
家康は、話し合いをもって政を行うという三成の考えを改めて皆に話してはどうか、と提案するが、これも三成は却下した。
「あいつらは私の考えを理解したことはございません。」と言う。
「私は、殿下のお決めをしかと行うまで。」と言い残し三成は去った。
寧々はため息をつき、「治部がうまくできなければ、力ある者にやってもらうほかない。」と家康を見て言った。
家康は屋敷に戻り、諸国の大名の動向を正信に聞いた。
正信によると、すでにあやしい動きをしている者もおり、もはや豊臣家臣や諸国大名をまとめるのは三成の手には負えないであろうと言った。
平八郎はまたも、家康が天下を治めるべきとの考えを示すが、正信は反対する。
十人衆で相談すれば意を唱えられる可能性もあるため、秘密裏に動くべきだという。
裏で危なっかしい者の首ねっこをおさえ、明るみに出たら謝ればよいだけのこと、と正信はいつものように飄々と言った。
年が明け、秀吉の遺言通り秀頼が大坂城へ居を移した。
茶々は三成に、「そなただけが頼りじゃ。」と言った。
そして家康のことを「あのお方は平気で嘘をつくぞ。」と忠告した。
驚く三成。
そこへ石田家家臣が現れる。
伊達・福島・蜂須賀ら、豊臣家臣と大名が徳川との縁組を進めているとの報告であった。
驚き、よく調べよ!と命じる三成。
すぐさま、家康を除く九人衆での会合が開かれた。
調べによると、加藤・福島・黒田が徳川との縁組を進めていることがわかったそうだ。
報告なく勝手に婚姻を結ぶことは禁止されている。
「あからさまに動き始めたな。」
「天下簒奪の野心ありとみるほかないぞ。」と毛利・上杉。
前田利家は「軽々に判断はできぬ。」と言ったが、三成は顔を真っ赤にし、憤りを隠すことができなかった。
「太閤殿下のお決めに背くこと、誰であっても許されませぬ。徳川殿には謹慎していただくべきと存じまする。」との考えを述べた。
家康のもとにただちに糾問使が差し向けられた。
「うっかりしていた」「ほんの行き違い」と白を切る家康。
続けて正信が、秀吉の遺言には背いていないことを念押しした。
さらに、面倒なことになったら本多忠勝ら徳川家臣が、殿を守るために軍勢を率いてしまう、と続けた。
その徳川方の意向はすぐに九人衆に伝えられた。
戦も辞さぬ考えということか、と騒ぐ大名たち。
前田利家は「ここは穏便に。」と三成に頼むが、三成は「道理がとおりませぬ。」と利家をにらんだ。
「道理だけで政はできぬ。」と利家はなだめるが三成は席を立ってしまう。
そこへ、家康からの書状が三成に届けられた。
夜、三成は徳川の屋敷を訪れた。
相対して座り、神妙な面持ちの三成。
家康はすぐさま謝罪したうえで、わしはそなたの味方である、と言った。
しかし、今のままでは皆の怒りが収まらないので、あくまでも一時の間、豊臣家から政務を預かりたい、と申し出た。
共にやらんか、と家康は三成に持ちかけるが、三成は
「……狸。」とポツリと言った。
「皆が言うことが正しかったようでござる。」と家康を見つめ、「天下簒奪の野心あり!」と糾弾した。
「天下泰平のため」と家康は誤解を解こうとするが、三成は話を聞かずに出て行ってしまった。
家康は利家を訪れ、野心がないことをどうすればわかってもらえるのか、と相談した。
利家は病に臥せっていた。
桶狭間の年に生まれた三成にとって、家康は大きく怖い存在であり、わかってもらうことは無理だと自身の考えを述べた。
三成だけでなく多くの者にとって、今川義元や武田信玄、織田信長らと渡りあってきた家康は、神代の昔の大蛇に見えておろう、と言った。
そして「貴公は腹をくくるしかないかもしれん。」と続けた。
このひと月のち、利家は亡くなった。
大阪の三成のもとへ、加藤・福島・黒田らが手勢を伴い押し掛けた。
京・伏見城へ逃げ込んだ三成であったが、加藤らの軍勢に取り囲まれてしまう。
伏見の徳川屋敷には家康がおり、騒ぎを目にしていた。
三成を守ろうと上杉・毛利らがかけつければ立派な戦になる、と正信は危惧した。
城を取り囲み「出てこい!」と叫ぶ軍勢の前に、平八郎が現れた。
「眠りを妨げられ、わが主が困っておる」と平八郎は叫んだ。
徳川屋敷へ加藤・福島らが招き入れられた。
襲撃する気はなく、ただ治部に奉行から身を引けと言いたかったという。
だが治部が話し合いに応じず、城にこもって手勢を集めたのでこちらも、と言い訳した。
外はもう明るくなり始めていた。
空を見つめる家康に、正信は「ここらが潮時かもしれませんね。」と声をかけた。
平八郎も「表舞台に立つべきときかと。」続ける。
家康はまっすぐ空を見つめていた。
「ご処分、謹んでお受けいたしまする。」と、家康のもとに来た三成は言った。
政務から身を引き隠居する意志もあわせて述べた。
納得してもらったことに礼を述べた家康であったが、三成はきっぱりと「納得はしておりませぬ。」と言った。
自分は間違っていない、殿下の御異名に誰よりも忠実であった、と。
家康次男で豊臣家の養子・結城秀康が三成を隠居先まで送ることが告げられた。
家康は三成に、隠居先を訪れてもいいか、また夜空を眺め星の話がしたい、と言った。
これもきっぱり断る三成。
互いに違う星を見ていた、と言い、家康を睨んで「もうお会いすることもございますまい。」と述べて去った。
その背中を見つめながら、家康は平八郎に「やるからには後戻りはできぬ。あるいは修羅の道をいくことになろうぞ。」と言った。
平八郎は「どこまでも付き合いまする。」と答えた。
夜、自ら茶を淹れながら家康は今川義元や酒井忠次のことを思い出していた。
「戦乱の世はもう終わらせなければならぬ。」と義元は言い、忠次は「天下をとりなされ。」と言っていた。
家康の顔には決意の表情が現れていた。
豊臣家臣と大名が一堂に会した。皆の前には家康が相対している。
「これより我ら一丸となり、豊臣家と秀頼さまの御ため力の限り励まねばならぬ。天下の泰平乱す者あれば、この徳川家康が放っておかぬ。よろしいな。」と言うと、一同は
「はっ」と従った。
報告を受けた幼い秀頼は「そうか。よきにはからうがよい。」と答えた。
茶々は神妙な表情をしていたがやがて含み笑いを見せた。
今回の見どころ
石田三成が失脚し、ついに家康が事実上の天下人となった過程が見どころでした。
三成は合議制による政務という夢を抱き、それはかつて家康の正妻・瀬名が描いた夢に通じるものがありましたが、それがいかに難しいかがよくわかる回でしたね。
当の家康は三成を応援しつつも基本的には静観し、裏で動いていましたが、それが三成の反感を買ってしまいました。
計算して損得で動く家康が三成には理解できなかったのかもしれません。
家康もかつては三成のようなまっすぐさがあったのに、時代に合わせてうまく立ち回るようになっていきましたね。
今回の家康や諸大名・豊臣家臣たちの動きは通説とはどう違うのでしょうか。
通説との違い
慶長3年(1598)の秀吉の死は、朝鮮に知られることを恐れ内密に処理されました。
そして豊臣家の舵取りは五大老と五奉行が担うことになりました。
中でも実力が抜きん出ていたのは前田利家と徳川家康でした。
石田三成は家康を特に警戒していました。
もっとも、五大老と五奉行と言っても結束は薄く、いつ争いが起きてもおかしくない状態でした。
秀吉生前から何度も起請文を交わしていた五大老・五奉行でしたが、秀吉が亡くなり、後継である秀頼もまだ幼いとなると、力関係はすぐに変化してしまいます。
秀吉の死後に、天下取りのために最も顕著に動いたのは家康でした。
慶長4年に入ると、諸大名たちとの間に次々と婚姻を約束し始めます。
豊臣政権下においては「大名間の婚姻は、秀吉の御意を得て行うこと」という取り決めがあったにも関わらずです。
家康は四大老・五奉行から詰問を受けますが、起請文にてすぐに謝罪し「以前と変わりなく入魂(親密)であること。」と記しています。
しかし前田利家が病気で亡くなると、力関係は一気にバランスを崩します。
石田三成が増長していることに不快感を示した加藤清正らは、三成から離反し家康に近づきました。
三成は危険にさらされ、奉行から外れて佐和山城に退きそこに落ち着くこととなったのです。
利家・三成が表舞台から去ると、天下の座が家康にまわってきました。
諸大名は東西のどちらかの陣営に属し、それぞれ誓詞を差し出して結束を誓いました。
慶長4年(1599)11月付けの細川忠興の誓詞には、「内府様・中納言様(中略)、二心なきこと」と記されています。
中納言とは家康の息子・秀忠のことであり、細川忠興は秀忠にも忠誠を誓っていることがわかります。
多くの大名を味方につけた家康は、秀吉のシンボルともいえる伏見城を自分の居城のように利用し、堂々と天下人たる振る舞いを始めたのです。
酒井忠次とはどのような武将だったのか
一週遅れてしまいましたが、今週は家康に「天下を取りなされ。」と最期まで進言した徳川四天王の一人、酒井忠次を取り上げたいと思います。
酒井忠次は大永7年(1527)、松平氏(後の徳川氏)の家臣であった酒井忠親の次男として三河に誕生しました。
家康より16歳年上になります。
元服後は家康の父・松平広忠の家臣となります。
その後、家康が今川家の人質となる際に同行しました。
初陣は「福谷城の戦い」です。
これはまだ今川義元が存命中、三河と尾張が激しく戦っていた頃のことです。
1556年春、福谷城に織田の軍勢が押し寄せてきました。敵将は柴田勝家です。
忠次は城外に出て戦い、激しい攻防の末、見事勝利をおさめました。
これにより今川義元からの期待を得て、戦で先陣を任されることが多くなりました。
その後、家康にも戦の采配などを教えています。
元禄3年(1560)「桶狭間の戦い」以降は、徳川家の家老を務めるに至りました。
織田・徳川が武田勝頼と戦った「長篠の戦い」でも活躍しています。
忠次は総大将である武田勝頼の背後から奇襲をかけました。
このとき忠次は信長に自ら「背後から奇襲させてほしい」と進言したと言われています。
背後には鳶ヶ巣山があったことから、奇襲は困難であり、信長はこの意見を一度は一蹴しました。
しかしこの奇襲作戦を実際に任されると、見事陥落させたのです。
これを称し、信長は忠次を「背に目を持つごとし」(まるで背中に目が付いているようだ)との言葉を残しています。
天正13年(1585)に石川数正が出奔してからは徳川第一の重臣とされました。
戦での武功が多い酒井忠次ですが、歳を重ねてからは徳川家の家老として、多くの家臣の複雑に絡み合った人間関係を取り持つようになり、重鎮としての役割が増えていきました。
天正16年(1588)、目を患ってからは長男に家督を譲って隠居しました。
慶長元年(1596)10月28日、京都桜井屋敷で死去しました。享年70。
武力も知能も人望もあった人なのですね。
さらに第一話から先週まで、要所要所で披露されたあの「海老すくい」は、忠次の得意芸であったと記録が残っています。
海老すくいがどんな芸であったのかはさすがに残っていませんが、重臣である忠次が踊ることで大いに盛り上がったでしょうね。
今回の配役
酒井忠次を演じたのは大森南朋さんでした。
略歴
父は俳優で舞踏家の麿赤兒、兄は映画監督の大森立嗣。
93年、映画「サザンウィンズ日本編トウキョウ・ゲーム」に出演。
96年、市川準監督のCM出演をきっかけに本格的に俳優業をスタートする。
01年、三池崇史監督映画の「殺し屋1」初主演を果たした。
07年のNHKドラマ「ハゲタカ」は高く評価され、09年の映画版で日本アカデミー賞助演男優賞を受賞した。
12年、女優の小野ゆり子と結婚し、19年に第一子誕生。
今までの主な代表作(ドラマ)
・クライマーズ・ハイ
・Dr.コトー診療所
・龍馬伝(大河ドラマ)
・コウノドリ
・ちむどんどん(連続テレビ小説)
など
まとめ
石田三成が部下の心をとらえられず、豊臣政権が崩れていく中で家康が頭角を現していく様子が描かれました。
毎回冒頭で流れるアニメーションが、今回はウサギから狸に変わる映像でしたが、まさに今回の家康を表しているようでした。
本多正信が頭脳を発揮し、家康とともに戦国の世をうまく渡っていっている感じがしましたね。
五大老・五奉行と並んでも家康は恰幅がよく、衣装も品の良さがあり、大物感がものすごく出ていました。
シミや白髪混じりのメイクも、時の流れと他の者との差を感じました。
CGやメイク・衣装さんの技巧を感じた回でした。
五奉行は、豊臣政権の政務を担当した浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以です。