第44回「徳川幕府誕生」
関ケ原の戦いが終わり、石田三成を亡き者にした家康。
西側についた主な武将たちも処罰し、いよいよ徳川幕府が誕生します。
今回のあらすじ
慶長5年(1600)
家康と秀忠は、大坂城の豊臣秀頼を訪れ、関ケ原の戦勝報告をした。
傍らには茶々がいる。
「家康殿は、そなたの新たなる父と心得なさいませ。」と息子に言う茶々。
家康は秀頼に頭を下げ、天下の政は引き続き務める、と言った。
茶々は、あと10年もすれば太閤の果たせなかった夢を秀頼が果たすことができる、と笑顔である。
そして「それまで秀頼の代わりを。」を家康に念を押すのであった。
さらに、秀忠の娘・千姫と秀頼の婚儀の話題を出す。
これは太閤の遺言であり、両家が手を取り合うことである、と続ける。
そして家康たちがその場を去ると、秀頼に「あの狸、決して信じるでないぞ。」と言うのであった。
茶々が徳川に協力的であると勘違いし、「よかった」と笑う秀忠に、家康は冷淡だった。
「早う人質をよこせと言っておるんじゃ。」と厳しい表情で言った。
城にて、大名の配置に頭を悩ます家康に、本多正信が進言した。
「いっそ将軍になる、というのは。」
幕府を開けばやれることは増える、と正信。
家康も「徳川は武家の棟梁、豊臣は飽くまで公家、棲み分けられるかもしれんな。」と頷く。
足利家がだいぶ地位を落としてしまった将軍職が、どの辺におちているか探しに行く、と正信は出て行った。
本多忠勝は、自分の城にて蜻蛉切の手入れをいていて、自分の指を切ってしまった。
慶長7年(1602)
伏見城の家康のもとに家康の母・於大と秀吉の妻・寧々が訪れている。
於大は家康が寅年生まれの武神の化身だと、周囲にでたらめを言っていた話を寧々にした。
本当は兎年だと打ち明ける於大に、今の今まで寅だと思っていた、と家康。
一同笑った。
寧々が帰った後、於大は家康に、天子様にお目通りできた礼を述べた。
思い残すことはない、と言う於大に、そんなことを言わず精をつけて長生きしてくだされ、と自ら煎じた薬を出す家康。
そんな息子に、於大は国のためにすべてを打ち捨てよ、とばかり言ってきたことを謝罪した。
そして薬を飲んだあと、「苦い薬だこと」と言い涙した。
この三か月後、家康に看取られながら於大は亡くなった。
慶長8年(1603)
家康は征夷大将軍に任じられ、徳川幕府が誕生した。
新しい世を築くため、幕府では若く知恵に優れたものを多く採用した。
その中にはウィリアム・アダムスや本多正信の息子・正純もいた。
伊勢・桑名城では、本多忠勝が自身の肖像画を描かせていた。
そこへ榊原康政が立ち寄る。
強そうでないと言って何度も描き直させる忠勝に康政はあきれ顔であった。
忠勝は「わしが死んだあとも睨みを利かせるじゃろう。」と肖像画への期待を語った。
さらに忠勝は、西に睨みを利かせるためにここに移った、と話した。
そんな彼に康政は、「もうわれらの働ける世ではないのかもしれんぞ。」と言う。
自分も秀忠に指南するのが最後の役目だと。
新しい才能が続々と家康のもとに集まっており、戦に生きた年寄は身を引くべきとも続けた。
「関ケ原の怪我がもとで死んだ直政はうまくやりおった。」と忠勝はポツリと言った。
江戸城にて立ち回る家康のもとに、千姫が駆け寄ってくる。
千姫は、母がいつも茶々が怖いと言っているのであちらに行きたくないと訴えた。
千姫の母・お江は、母の姉の初は優しく、そばにいてくれるはず、と諭す。
家康は千姫に、何かあればこのじいがいつでも駆け付けると約束した。
慶長9年(1604)
千姫は秀頼に嫁いだ。
大坂城には大野治長(修理)が戻ってきており、家臣たちをまとめていた。
そんな修理に茶々は心強いと声をかけた。
江戸城に家康が訪れた。
秀忠が先頭に立って出迎えるが、家康は秀忠を素通りし真っ先に結城秀康に声をかけた。
「来ておったか」と言う家康に、秀康は、父上に政務の指南を賜る機会なので、と答えた。
家康が振り返って秀忠に声をかけると、「お千は大丈夫でしょうか。」と問う。
家康は、真っ先に娘の心配をした秀忠に厳しい表情をする。
「関ケ原に遅れたときから何も成長しておらん。」と冷たく吐き捨てた。
周りには本多忠勝・正信・榊原康政はじめ多くの家臣がいる。
言い訳する秀忠に家康は「人のせいにするな!すべてお前のせいじゃ。」と声を荒げた。
評定が終わり、本多忠勝が一人書状を読んでいるが、紙面を目のすぐ近くに寄せている。
そこに家康が現れた。
忠勝は家康に向き直り、隠居を申し出た。
家康が答えないうちに今度は康政が部屋に入ってきた。
そして、「生涯最後の諫言」として家康に意見を述べた。
皆の面前で秀忠をあのように叱るべきではない、と康政ははっきりと言った。
関ケ原にて秀忠に落ち度はなかったこと、家康があのくらいの年頃のときはどれほど頼りなかったか、とも続けた。
「だが、わしにはお前たちがいた。」「皆がわしをこっぴどくしかり続けた。」と家康は答えた。
秀忠には叱る人がおらず、自身が味わったような耐え難い苦しみもないことを家康は懸念していた。
豊臣家中の仲たがいとして始まった関ケ原であるが、今は落ち着きを取り戻し、大坂は今年の正月は大いに盛り上がったそうだ、と家康は二人に話した。
また、九度山山中には改易・減俸となった浪人があぶれており、戦を食い扶持としている、とも。
だから秀忠の成長を急いでいるのだそうだ。
秀頼が成長したら天下を返すか、それとも、と忠勝も康政も言いかけた。
家康は二人の肩をたたき、「まだ老いるな、まだお前たちの力がいる。」と言った。
忠勝が「いつになったら主君と認められるやら。」と笑うと、家康も笑った。
家臣たちを集め、改めて家康が秀忠に、関ケ原の不始末をいさめた。
自分の言うことが理不尽であると認めたうえで「上に立つ者の役目は、理不尽であろうと結果において責めを負うこと。」と説いた。
うまくいったときは家臣を称え、しくじったときは己がすべての責めを負うのだ、と言うと秀忠は平伏した。
その秀忠に、征夷大将軍を一年後に譲る旨を伝えた。
驚く秀忠に、「おめでとうございます。」と頭を垂れたのは秀康であった。
正信と康政と並んで座り、兄が正当な妻の子でないから自分が選ばれたのか、と秀忠は疑問を述べた。
正信・康政は、才があるからこそ秀康に跡を継がせなかったのだと説く。
才ある将が天下を取り、一代で滅んでいくのを見てきたと二人は言った。
「その点、あなた様はすべてが人並み。」と秀忠の目を見てはっきりと言う正信。
「偉大なる凡庸」というのが正信の秀忠評だ。
しかしそれでこそ家が長続きするのだという。
しかも、関ケ原に間に合わなかったおかげで豊臣から恨みを買っていない点を指摘すると、「かえって良かったかもしれんな。」と秀忠は笑った。
そんな秀忠を見て康政はこっそりと正信に目配せした。
家康が秀忠に将軍を譲ったという書状が大坂城へ届けられ、茶々は激怒した。
大野修理も、天下は徳川が継いでいくということであり、明らかな太閤との約定破りだと答える。
秀頼にも挨拶に参れという旨に、茶々は「秀頼を行かせるくらいなら、秀頼を殺して私も死ぬ。」と返事をしたと言った。
忠勝はまた肖像画を描かせていた。
そこへまた康政が訪れる。
意味もなく方々に挨拶にまわっているという康政に「どこが悪い」と忠勝が聞くと、「はらわたじゃ」と答えた。
忠勝は「まだ老いるなと言われたろう」と康政に手を伸ばした。
その手には傷がある。蜻蛉切の手入れの時にできた傷だ。
戦で傷一つ負わなかったのに、笑い種だ、と自嘲する忠勝に、見えとらんのだろうと康政は言った。
さらに、自分たちはもう役目を終えたのだ、と言い残しその場を去ろうとした。
「待て!!」と忠勝が叫び、康政に槍を渡す。
忠勝は「殿を守って死ぬのがわしの夢じゃ!見届けるまで死ぬな!」と叫んだ。
槍で打ち合いをする二人。
忠勝は、家康を桶狭間のあとから主君と認めていたことを明かした。
大樹寺にて若き家康は「わしは寅の年、虎の日、寅の刻に産まれた、武神の生まれ変わりじゃ!そなたたちのことは、わしが守るんじゃ!!」と家臣たちに叫んだのだ。
康政もまた、その時に家康についていく決心をしていた。
「まだ見ていたいのう、あの背中を。」という康政に、「睨みを利かせてな。」と忠勝は答えた。
慶長11年(1606)
榊原康政 死去
慶長15年(1610)
本多忠勝 死去
慶長16年(1611)
家康の部屋には、黒い具足に所々金で塗られた立派な忠勝の肖像画が飾られていた。
それを見ながら、家康は正信と阿茶の話を聞いていた。
大坂が浪人どもを集め施しをしているという。
徳川が上方を去ってからあからさまに動き出したそうだ。
秀頼は19歳になっていた。
柱に秀頼の身長を刻んだ茶々は、「どこからどうみても見事なる天下人であることよ。」と息子を見てうっとりと言った。
家臣たち一同が同意し、千姫も笑顔でうなずく。
家臣たちに向かって秀頼は「さあ、宴の時じゃ。」と笑みを見せた。
家康は厳しい表情で「時が満ちた。」と言った。
今回の見どころ
家康が征夷大将軍となり、豊臣家から独立したことで徳川幕府が誕生しました。
さらに、将軍職を秀忠に譲ったことで、豊臣家から反感を買う様子が描かれました。
通説との違い
豊臣秀吉が天皇を補佐する「関白」であったのに対して、家康は「征夷大将軍」に就きました。
征夷大将軍とは、天皇に代わって軍事や政権を行う役職のことをいいます。
いわば絶対的権威の象徴です。
豊臣家に従属しない、独自の公儀としての立場を確立するため、家康は征夷大将軍になったのです。
なお、幕府とは、中国において将軍の邸宅が幕府と呼ばれていたことに由来します。
日本では武家政権を幕府と呼んでいます。
家康の狙い通り、征夷大将軍就任後、年賀の挨拶に秀頼のもとに行く大名は減っていきました。
代わりに家康のもとに来る大名が増えました。
こうして、秀頼と家康の世間的な序列は、将軍・家康の方が上がっていったのです。
就任から2年後には家康は息子の秀忠に将軍職を譲りました。
これにより、家康は将軍職の世襲化を明示したのでした。
というのも、このころの大名たちには「天下は回りもの」という考えが浸透していたからです。
戦乱の世が長く続き、武力で政権を握ることが当たり前となっていたため、徳川の世襲制を天下に知らしめる必要性がありました。
将軍職を退いてからも、家康は大御所として秀忠を支えました。
主に大坂の豊臣家や西国大名の牽制、外交などを担当し、戦乱を抑えつつ政治体制を整えていったのです。
本多忠勝とはどのような武将だったのか
1548年(天文17)、松平家(徳川本家)の譜代家臣・本多忠高の長男として生まれました。
しかし、父は忠勝が生まれた翌年に戦死してしまいます。
その後、母と共に叔父本多忠真に引き取られ、育てられました。
初陣~旗本部隊の将
12歳で「桶狭間の戦い」の前哨戦と言われる「大高城兵糧入れ」で初陣を果たしています。
しかし、この初陣では敵将に討ち取られそうになったところを叔父・本多忠真に救われるという結果に終わりました。
忠勝が首級を挙げることに成功したのは、その2年後の戦だったといいます。
永禄6年(1563)の三河一向一揆では、多くの本多一族が敵となる中で、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残りました。
三河国を統一した家康は、永禄9年(1566)には徳川家の軍事態勢を再編します。
「三備の軍制」として、「家康旗本衆」、「東三河衆」、「西三河衆」の3つに家臣団を分けました。
忠勝は19歳の若さで、徳川家康直属の親衛隊である「家康旗本衆」に選ばれます。
そして中央で54騎を統率する武将となりました。
以後、忠勝は常に家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍しました。
数々の武勇
元亀元年(1570)の姉川の戦いにも参加しました。
徳川本陣に迫る朝倉軍1万に対し、無謀とも思える単騎駆けを敢行。
この時、必死に忠勝を救おうとする徳川軍の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩しました。
この戦いで忠勝は朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎討ちで勇名を馳せました。
元亀3年(1572年)、二俣城の戦いの前哨戦である一言坂の戦いでは偵察隊として先行。
武田本軍と遭遇し、報告するために撤退しますが、武田軍に追撃されてしまいます。
このとき、坂下という不利な地形に陣取り、家康率いる本隊を逃がし撤退戦を無事に完了させました。
同年12月の三方ヶ原の戦いでは山県昌景隊と戦い、撃退しています。
翌年の長篠城攻めでは榊原康政らと共に武田軍を破り、長篠城に入城。
天正8年(1580)の高天神城奪還戦にも参戦しました。
これらの合戦における忠勝の活躍は敵味方を問わずに賞賛され、家康は「まことに我が家の良将なり」と激賞しています。
戦場での忠勝
「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と忠勝を詠んだ川柳もあるほどです。
この川柳には、忠勝の愛槍「蜻蛉切」と、トレードマークの「鹿角脇立兜」のことが詠われています。
両脇から鹿の角が生えている兜です。
また、鎧は「黒糸威胴丸具足」という漆黒の当世具足で、軽量なのが特徴です。
天正10年(1582)本能寺の変のとき、家康は取り乱して信長の後を追おうとしたそうです。
これを忠勝が諌めて、「伊賀越え」を行わせたと言われています。
秀吉からの賞賛
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、忠勝は留守を任されました。
しかし、徳川軍が苦戦して崩れかけていることを聞き、忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけました。
約500mほどしか離れていないところに豊臣の大軍がいましたが、このとき忠勝は龍泉寺川で悠々と馬の口を洗わせていたといいます。
この振舞いを見た豊臣軍は逆に進撃をためらったそうです。
この豪胆な振舞いや活躍などにより、秀吉からも東国一の勇士と賞賛されました。
天正18年(1590)、家康が関東に移封されると、上総国(千葉県)に10万石を与えられました。
関ケ原以降
関ケ原の戦いでは、吉川広家など諸大名に井伊直政と連署の書状を送って東軍方につける工作にも活躍しました。
本戦でも奮戦し、わずかな手勢で90にも及ぶ首級を挙げたそうです。
この功績により、慶長6年(1601)、伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石に移されると、忠勝は桑名藩の藩政を確立するために奮闘しました。
直ちに城を修築し、城下町と東海道宿場の整備を行ったことにより、桑名藩創設の名君と仰がれています。
戦乱がおさまるようになると、若く文治に優れた者が家康・秀忠の側近として台頭し始めます。
忠勝は慶長9年(1604)頃から病にかかるようになり、江戸幕府の中枢からは遠ざかっています。
慶長12年には眼病を煩い、慶長14年(1609)、嫡男・忠政に家督を譲って隠居しました。
翌年10月18日に桑名で死去。享年63歳でした。
生涯において参加した合戦は大小合わせて57回にも及びましたが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられています。
今回の配役
本多忠勝を演じたのは、山田裕貴さんでした。
略歴
1990年愛知県生まれ。
父は、元プロ野球選手の山田和利。
2010年、D-BOYSスペシャルユニットオーディションのD-BOYS部門でグランプリを受賞。
翌年、特撮ドラマ「海賊戦隊ゴーカイジャー」で俳優デビューする。
2012年「ボクらが恋愛できない理由」でドラマ初主演を果たし、以降数々のドラマなどに出演。
2014年、「ライヴ」で映画初主演を務める。
2017年には「おんな城主 直虎」で大河初出演を果たしたほか、映画12本、TVドラマ5本に出演し大ブレイクした。
代表作(ドラマ)
・GTO
・HiGH&LOW〜THE STORY OF S.W.O.R.D.〜
・なつぞら(NHK連続テレビ小説)
・ハコヅメ〜たたかう!交番女子〜
・ちむどんどん(NHK連続テレビ小説)
・ペンディングトレイン-8時23分、明日 君と(主演)
まとめ
今回は、関ケ原の終わりから秀頼が19歳となるまでの11年間がまとめられていました。
秀頼の背丈を柱に刻むという形で話が進み、傍らの母(茶々)はずっと美しいのに時の流れがよくわかるような印象を受けました。
秀頼が成長していくのと反対に、家康の周りの人は老いて死んでいきました。
本多忠勝・榊原康政の晩年だけでなく、井伊直政・於大の方の死が劇中で語られましたね。
於大の方はともかく、家康より年下の三人の重臣に先立たれた家康の想いを想像すると、いたたまれません。
忠勝・康政とはともに10代の頃からの仲でした。
ずっと家康のことを「主君と認めない」と言っていた忠勝が、いつから認めていたのか打ち明けるシーンには胸が熱くなりました。
また、家康の煎じた薬を飲んだ於大が「苦い」と言ったことで、家康の中にまだ瀬名がいることがわかりジーンときました。
今回はオープニング曲がピアノのみで、アニメーションもモノクロを基調としていたのは、追悼の意味だったのかもしれませんね。
家康のCGと本多忠勝の似顔絵にも驚かされました。
現存する肖像画と俳優の顔の両方に近い印象を受け、美術班の技巧を感じました。
特に忠勝の方は、だんだんと本人から離れていき、最後は睨みを利かせた鬼のような形相になっていったのが見事です。
金の装飾も美しく、本人も満足したのではないでしょうか。