大河ドラマ『どうする家康』第45回について

大河ドラマ『どうする家康』第45回について

第45回「二人のプリンス」

前回からあっという間に、時が過ぎて小さかった豊臣秀頼も19歳となりました。
今回はそんな秀頼と齢70歳になった大御所・徳川家康との対峙が、描かれています。
通説と比べながら、どうぞお読みください。

今回のあらすじ

冒頭は19歳になった秀頼との宴のシーンから始まる。
大坂城にて秀頼は舞を踊っていた。麗しい姿である。
それを客席で観ながら、茶々は秀頼の妻・千(家康の孫)にこう尋ねた。「太平の世を築いたのは誰じゃ」
少しの間はあったが、千は「亡き太閤殿下でございます」と答えた。

すると茶々は「そなたのおじい様は、その臣下であり、秀頼が大きくなるまで、その代わりをしておる。秀頼が立派になる頃には、その天下を返していただく約束をしている」と説明した。
茶々は家康を盗人と思っているらしい。
「おじい様は約束を守る人でございます」と千は訂正したが、「だが、もし約束を破った場合は、そのときは徳川と戦をしなければならぬ」と茶々は強気だ。
そして「欲しいものは武力で奪う。それが武士の世よ」と千に説いた。

武力と戦といえば「関ヶ原の戦い」が思い出される。
この戦は日本史上最大級の戦と言われている。
その光景を家康は思い出していた。

「関ヶ原の戦い」をイメージしたイラスト

現在は息子である秀忠に将軍職を譲り、自分は駿府城を住まいにしていた。

政務は秀忠の代になり、本多正信の息子である「本田正純」が側近として活躍していた。
そんな正純と秀忠は、大坂に浪人どもが集められて施しが受けられていることを家康に報告した。
「この10年天下を治めていたのは、我ら徳川なのに」と秀忠はとても悔しそうだ。
彼は「今度こそ秀頼様にお越しいただき、徳川の方が上だということを認めさせましょう」と提案した。

だが、豊臣方はそれをすんなり受け入れるとは思えない。
「では、豊臣に天下をお返しするのですか」と秀忠は家康に問うた。
家康は「よく考えなければいけぬということだ」と秀忠の質問をばっさり切った。
この答えにこうもつけ加えた。「今も人々の心の中には、太閤殿下が生きている。武力で秀頼を押さえつけてもその怒りは我々徳川に向かってこよう」

この課題に本多正信が策を提案した。
「秀頼様には京都の二条城にお招きした後、上段に座っていただく。徳川は征夷大将軍ながら武家の頭領、一方の豊臣は関白の地位があるので公家という扱いにしてしまいましょう」
正純は父の提案に苦々しく思っていたが、これは妙案であった。

3つの?の四角形とひらめいた様子の虫眼鏡

一方、豊臣方というと
二条城への訪問を寧々(太閤秀吉殿下の妻)が提案していた。
「つまり、天下は返さぬ、戦もやらぬ。頭をなでてあげるからおとなしくしておけという返事か」と茶々はとても不満な様子。
政務に復帰した大野治長も「盗人め」と非難するが、寧々は「この10年世を治めたのは徳川じゃ。豊臣は徳川の庇護にある立場だということをお忘れなさるな」と言い切った。

今回は二条城へ訪問することにした。
「そろそろ皆にお披露目しても良い頃じゃ」と茶々も考え直した。
訪問には加藤清正が同行することとなった。

いよいよ、1611年3月、二条城にて豊臣秀頼と対面する日がやってきた。寧々も同席している。
町の人たちは初めて世間に姿を見せた秀頼の姿にうっとりしていた。太閤殿下の忘れ形見である。

豊臣秀頼の像

徳川方は作戦どおり、秀頼を祭り上げようと先頭に立たせたり、上段に座らせたりしようとした。「豊臣は公家だ」と説明しながら。
ところが、なかなか秀頼はそれに従わず、大御所様を立てるばかりである。

寧々の「それだったら二人で上段に上がってはどうじゃ」と助け船を出すも、秀頼はなんと、家康を支えて上段に座らせると自分は真っ先に向きを変え、下段へと座ったのだった!
秀頼は家康に向かって「長らくのご無沙汰、大変ご無礼いたしました。秀頼、心よりお詫び申し上げまする」と深々と伏して許しを請い、そして「徳川と手を取り合って、この世を治めてまいります!」と宣言したのであった。

家康を立てながらも、堂々とした振る舞いの秀頼に家康は脅威を感じた。
世間でも秀頼の評価は著しく高く、逆に家康は無礼者として非難の的になってしまった。

「してやられましたな」と本多正信をはじめ、徳川方は窮地に追い込まれた。
「秀頼様という方、どうご覧になられましたか」と阿茶(家康の側室)が家康に尋ねた。
「涼やかな立派な…あれは秀吉じゃ
振る舞いの仕方に違いはあれど、彼も巧みに人の心に入り込む術に長けていた。

「心」と書いてあるハートのシートを持っている手これ以降、秀頼は目覚ましいを活躍を見せ、豊臣の威光を復活させる大事業を進めていった。
その一つが京の方広寺での大仏殿再興である。これは亡き秀吉の悲願でもあった。
秀吉の17回忌にあたるこの年に、開眼供養(新たに仏様の魂を入れ込む供養)をするという。

その頃、家康は再び「関ヶ原の戦い」を思い出していた。
今度は亡くなった石田三成との場面が映し出される。
乱世を生き抜いた家康の内にも、戦乱を求むる心があるということ。そして「戦なき世など成せぬから、まやかしの夢を語るな」と三成が家康の理想を否定したこと。
そう気に病んでいるところに、お客人が来た。

笠を深くかぶって、合掌している僧剃髪姿の男は、かつて家康が幼い頃に人質とされていた今川家の嫡男・今川氏真であった。
お家は没落したが、家康の庇護のもとで奥方と心穏やかに暮らしていた。

かつて、氏真は家康と敵対したとき、家康は氏真の命を奪おうとしなかった。
そのとき、去り際に氏真は彼に「そなたはまだ降りるな。そこでまだまだ苦しめ」と言い残して退場した。

そのような思い出話をしながら「だがまさか、これほどまで長く、降りられぬことになろうとはな」と氏真は少し驚いていた。弱かった幼き頃の家康を見ていただけに、意外に思ったのだろう。
「だが、あと少しじゃろう。戦なき世をつくり、我が父(今川義元)の目指した、王道の治世はお主が成してくれ」と家康を励ました。

だが家康は「わしには、無理かもしれぬ」と弱音を吐いた。
見違えるほど成長した、立派になったと氏真は説得するが「成長などしておらん!」と否定した。
「平気で人を殺せるようになっただけじゃ…。戦なき世など、来ると思うか…。1つ戦が終わっても、新たな戦を求め、集まる者がいる…。戦はなくならん…。わしの生涯は、ずっと、死ぬまで、死ぬまで戦をし続けて…!」と自分の境遇を嘆いていた。

そんな家康を氏真は抱きしめた。「家康よ、弟よ、弱音を吐きたいときはこの兄が引き受ける。そのために来た。おぬしに助けられた命もあることを忘れるな」
かつて命を絶とうとした自身を家康が救ってくれたことを思い出しながら「本当のおぬしに戻れる日もきっと来る」と抱きしめながら慰めた。

年配者の手を取る手家康の次は、今度は秀忠の嘆きである。
発端は豊臣の開眼供養を止めてほしいという旨だった。
しかし、策士の本田正信でさえ、今回は賛同しない。
秀忠は表舞台に出て強い存在感を放つ秀頼に対して、複雑な感情を抱いていた。

もし家康が死んでしまったら、凡庸な自分は秀頼に負けるだろうと夜も眠れないほど心配していた。
「私と秀頼の戦いになったら、私は負けます…負ける自信がある!」と憂いていた。
秀頼は織田と豊臣の血を引く者。私は凡庸なる者です」と卑下する秀忠に、家康は「そなたはわしの才をよく受け継いでおる」と思いもよらぬ言葉をかけた。

その真意は「弱いところが似ておる。そしてその弱さをそうやって素直に認められるところじゃ。わしはそなたがまぶしい。それを大事にせい」
家康は戦乱の時代にその弱さを捨てざるをえなかった。だからこそ、秀忠にはそれを大切にしてほしいということなのだ。
その願いを受け入れながら、秀忠は「徳をもって治めるのが王道。武をもって治めるが覇道。覇道は王道に及ばぬもの」と唱えた。かつて、今川義元が家康に教えた言葉である。
「戦を望む者たちに天下を返すな」家康のその想いは秀忠にも届いていた。

まっすぐ光が差している空

そんな中、豊臣が大仏を再建した方広寺の鐘に刻まれた文言(鐘銘・しょうめい)に、激震が走った!
次のような文字が書かれてあったのである。

「国家安康」「君臣豊楽」だ。

これらの字を、皆はこう解釈した。

国家安康・・・家康の文字を「家」と「康」に分断して、家康を呪詛しているのではないか
君臣豊楽・・・豊臣を君主として楽しむ

豊臣方の挑発的な行為に、徳川方はさらなる危機を感じていた…!
正信は「これは…戦は避けられませんな~」と確信したーーー

今回の見どころ

今回は成長した秀頼を含む豊臣と、齢70になった長老の家康との様子が描かれていました。
次は通説を見ていきましょう。

通説との違い

1612年3月17日に家康は京に上りました。
これは3月27日に、後陽成天皇の譲位が行なわれるからでした。
豊臣秀頼との二条城での会見は、その次の日に実施されました。

秀頼は30人の家来とともに二条城に向かいました。この数は少なめです。
まず、家康は庭に出て秀頼を迎えます。
秀頼はこの出迎えに丁寧に礼を述べたそうです。
家康は秀頼を庭から御殿に上げて、先に「御成之間(おなりのま)」に入らせようとしました。
しかし、年若い秀頼はそれに恐縮したのでしょう。
結果、秀頼ではなく家康を先に入れて進められました。
そして対等な位置での挨拶も拒み、家康が上席となって行われました。

この会見では寧々(高台院)の姿もありました。
しかし、秀頼は「御成の間」で突発的なことにも動じず、立ち居振る舞いも見事なものでした。
振る舞いが素晴らしいだけでなく、秀頼の風貌も家康を驚かせました。

豊臣秀頼のイラスト
ドラマでの豊臣秀頼を演じた「作間龍斗」さんの身長は180cmです。
しかし、実物の秀頼はそれよりも高身長の190cmぐらいといわれています。
父親の秀吉は小柄だったため、その違いに仰天しました。
これは母親からの遺伝でしょう。

秀頼の母・茶々は女性としては168cmもありましたし、彼女の家系の織田家は美形が多いです。
秀頼の顔も母譲りでした。

美形の男が徳川へ忠儀を述べる・・・
家康は危機感を募らせました。
もう太閤殿下が亡くなって何年も経つのに、息子が出てきたために世間は秀頼に期待しています。
それに茶々と違って、秀頼には柔軟性があり、カリスマ性も備えていました。
家康は秀頼が周囲から祭り上げられる存在になると感じ取ったため、なんとか豊臣家の影響力を排除したいと考えるようになりました。

家康と秀忠

徳川秀忠が家康から征夷大将軍の座を譲り受けて2代目将軍となったのは、彼が27歳だった1605年のことでした。
しかし、その頃の政情は不安定なものでした。
大坂城にはまだ豊臣方がいたため、家康は秀忠に将軍職を譲りも「大御所」という立場で実権を握っていました。
しかし、家康が不在のときは、江戸城を秀忠に任せていましたから、江戸での秀忠の存在感も日ごとに増していきました。
家康との二元政治をとっていたものの、秀忠も徐々に親藩や譜代大名たちを束ねられるようになっていきました。

徳川秀忠のイラスト画
武将としての秀忠は高く評価されていません。
事実「関ヶ原の戦い」の際に、大遅刻をして家康に叱責されていましたからね。
それゆえに、負けず嫌いで、融通が利かない、父に褒めてもらいたかったという若者らしいまっすぐなところもありました。
だけども、父を尊敬し、徳川家の指針を踏襲していたので、生真面目な性格だったといわれています。

彼の活躍はむしろ、家康亡き後に表れていきます。

家康と氏真

ドラマで久しぶりに今川氏真が出てきました。
今川家を裏切り、その嫡男である氏真とは一度は敵対するものの、家康にとって生涯にわたり交流を続けた特別な存在だったといわれています。

家康と敵対するものの、彼と和睦した氏真はまず、妻の実家の北条氏を頼りました。
しかし、北条氏と同盟を組んでいた武田信玄が死去したタイミングで、氏真は家康を頼って遠江浜松城に移住しました。
そして家康の庇護を受けるようになりました。
氏真は家康の領国統治や奥向き構造、さらには外交関係にも大いに力を貸しました。

ときは流れ、1612年に氏真は徳川家の本拠である江戸に移住します。
その際に駿府を訪れて、家康と面談します。

氏真は家康より4つ年上で、1614年に77歳で死去します。
家康との交流は60年以上におよぶ長いものでした。

寧々はどのようなおなごだったのか

徳川家康と豊臣秀頼との会見は、寧々の仲介があって実現されたものです。
寧々はどのようなおなごだったのでしょうか。

北政所の像寧々は1549年に織田家の家臣・杉原定利(すぎはらさだとし)の娘として生まれました。
秀吉と結婚したのは寧々が14歳の頃のことです
秀吉とは町でふと出会ったことが馴れ初めといわれています。
2人はとても仲が良かったそうです。秀吉とは10個ほど年が離れているにもかかわらず、かかあ天下で、秀吉の方が寧々に頭が上がらなかったようです。

2人の間に子供がいなかったため、寧々は加藤清正、福島正則などの秀吉や自身の近親者を養子や家臣として、母のように育てあげました。
やがて、秀吉とともに大坂城に移り、彼が関白になったことにより「北政所」という称号を得ました。

しかし、秀吉の死後は、豊臣家臣団同士や茶々との溝が深まっていきました。
茶々とは不仲ではないものの、考え方が異なっていました。
なので、彼女は大坂城を離れて、京都の三本木に静かに暮らすことにしました。
このときに出家をして「高台院」と呼ばれるようになりました。

豊臣家の立場でありながら、徳川家康に天下泰平の世を託しています。
「関ヶ原の合戦」の際に西軍の小早川秀秋が東軍(徳川家康側)に寝返ったのも、寧々が促したものではないかとも言われています。

この頃の寧々と徳川家との関係は良好でした。
家康から高台寺の建立許可を得て、資金援助も受けました。
寧々は高台寺の門前に屋敷を構えて、終生をそこで暮らしたといわれています。

緑豊かな京都の高台寺

この後も彼女は活躍します。
ちなみに、彼女は77歳まで生きます。

今回の配役

寧々を演じていたのは和久井映見さんでした。

略歴

1970年生まれ、神奈川県出身。アルファーエージェンシー所属。
16歳のときに芸能界入りをする。
1988年4月に『花のあすか組』でドラマデビューを果たした。

1991年、映画『息子』と『就職戦線異状なし』で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞。
1993年には、映画『虹の橋』で、23歳の若さで日本アカデミー賞最優秀主演女優賞などを受賞した。
1994年には『夏子の酒』で連続ドラマ初主演を果たしている。

それ以降、1990年代に主演した月9ドラマたちも、高視聴率を獲得し、若手演技派女優として確固たる地位を築いた。
現在でも、確かな演技力で実力派女優としてテレビや映画で幅広く活躍している。

今までの主な代表作(ドラマ)

  • 武蔵 MUSASHI(NHK大河ドラマ)
  • 功名が辻(NHK大河ドラマ)
  • 平清盛(NHK大河ドラマ)
  • 青天を衝け(NHK大河ドラマ)
  • ちりとてちん(NHK連続テレビ小説)
  • ひよっこ(NHK連続テレビ小説)
  • 夏子の酒(主演)
  • 妹よ(主演)
  • ピュア(主演)
  • バージンロード(主演)
  • 華岡青洲の妻(NHK主演)
  • 必殺仕事人シリーズ
  • ラジエーションハウス~放射線科の診断レポート~

など

まとめ

今回は豊臣秀頼が成長してからの、徳川と豊臣の動きが描かれていました。
ドラマでの徳川秀忠はとても不安定で頼りなく見えますが、通説を調べると政治や外交面で力を発揮していることが分かりました。

とはいえ、秀頼の力量は見事なものです。
秀吉は“サル”と呼ばれていたので、秀頼が秀吉似であったなら、また歴史は違っていたのかもしれませんね。

方広寺の鐘の文言は全部で152文字もあるのに、そのうちの2語に注目するとは恐ろしいものです。

方広寺の鐘に書かれた例の2語

方広寺の鐘の「国家安康」と「君臣豊楽」

家康はこの時点で、すでに70歳を超えています。
徳川はどのように豊臣に対抗していくのでしょうね。