第46回 「大坂の陣」
成長した秀頼との対面を果たした家康でしたが、それは穏やかなものとは言えませんでした。
秀頼の数々の振る舞いを宣戦布告と捉え、家康も動き出します。
今回のあらすじ
慶長19年(1614)・夏
大坂城にて
大野治長(修理)と秀頼、茶々は、そろそろ徳川が動き出すだろうと話していた。
家康の孫で秀頼に嫁いだ千姫は、動揺を隠せない。
駿府城にて
家康は、秀頼が建立した大仏殿の梵鐘に刻まれた文字について、二人の学者の意見を聞いていた。
君臣豊楽
明らかに呪詛の言葉、とする儒学者と、豊臣が「言いがかりだ」と弁明できるような言葉選びだろうとする僧侶とで意見が分かれた。
本多正信は、見逃せば幕府の権威が失墜し、処罰すれば世を敵に回すだろうと予測し、家康に「腹をくくるしかない。」と進言した。
豊臣家臣の片桐且元は、徳川との仲を取り持つために駿府城を訪れた。
「すべて私の不手際。鐘はすぐに鋳つぶしまする。」と頭を下げる且元だったが、徳川は許さなかった。
徳川家臣で正信の息子・正純が、秀頼への処罰を述べた。
いずれか選ぶよう、家康は且元に念押しした。
大野修理は、祝いの言葉を呪いと言いがかりをつけ、豊臣を潰す企てであると徳川を非難した。
且元は、戦になるとわかっていてあの文字を刻んだのでは、と修理に声を荒げる。
対して修理は、且元が頼りにならないからだと強気で言い返し、徳川にしっぽを振って豊臣の立場を危うくしていると指摘した。
すると他の家臣たちも修理に同調し且元を責め、茶々と秀頼の面前で言い合いとなる。
「控えよ!」と茶々が一喝すると、且元は秀頼に向き直り、徳川との交渉を引き続き任せてほしいと必死で頭を下げた。
「無論、頼りにしておる。」と秀頼は静かに言った。
且元がその場を去ると、修理は「あれはもう狸にからめとられておりまする。」と言った。
千姫は終始深刻な表情を浮かべていた。
その夜、寝室にて、千姫は秀頼に「戦になるのですね。」と言った。
秀頼は「徳川から天下を取り戻さなければならぬ。それが正しいことなのだ。わかってほしい。」と優しく言う。
そして、家康や秀忠が身内である千姫に手を出せるはずがないから安心してよい、と千姫の身を気遣うのだった。
しかし千姫は深刻な表情のまま、戦をしたいのは本当の気持ちなのか、と秀頼に聞く。
秀頼はうつむき、「余は豊臣秀頼なのじゃ。」と千姫から目をそらせてしまった。
江戸城では、お江が夫である秀忠に、戦の総大将になるよう頼んでいた。
豊臣に嫁いだ千姫を、見捨てる覚悟はしているとしながらも、諦めきれないようだ。
家康は孫をかわいがっているから心配ない、と秀忠は言うが、お江は納得しなかった。
家康のことを「戦となれば鬼となれるお方では。」と言い、秀忠に向かって「あなたがお指図なさいませ。」と厳しく言った。
大坂では、戦の準備として、かつて大軍を指揮した武将たちを集め宴を開いていた。
その中には織田信長の次男・常真(信雄)もいた。今は出家したのである。
常真は長久手での自分の武功を意気揚々と語っていた。
お酌をしていた千姫であったが、いたたまれなくなりその場を離れ廊下で泣いた。
そこへ常真が通りかかり、「戦は避けましょう。あなたのおじいさまには世話になった。やりとうない。」と声をかける。
千姫はすがりつき、且元が恐らく明日、修理に殺されるであろうことを告げた。
且元は、常真の知らせで間一髪で大坂を離れ、京に逃れた。
この一報を聞き、家康は「これで我らと話し合える者が豊臣にはいなくなった。」とつぶやく。
正純は、豊臣の兵は10万にも及ぶとの報を伝えた。
諸国の大名に大坂責めの触れを出すよう、家康は正純に命じるとともに「大筒の用意も。」と付け加えた。
甲冑を前に物思いにふける家康のもとを、正信が訪れている。
正信は、秀忠に総大将を任せてみては、と家康に聞いた。
家康は即座に断り、その理由を、秀忠には人殺しの術など覚えさせたくないと説明した。
この戦は徳川が汚名を着る戦であり、「信長や秀吉と同じ地獄を背負い、あの世へ逝く。それが最期の役目じゃ。」と語る。
正信はお供すると約束した。
大坂城にて、戦のために集まった武将らの前に秀頼・茶々・千姫が現れた。
武将らの中には大谷刑部の息子や真田信繁がいる。
皆に礼を述べる秀頼。
茶々は「天下を我らの手に取り戻そうぞ!」と言い、さらに秀頼が「余は亡き太閤殿下の夢を受け継ぐ。ともに夢を見ようぞ!」と皆を鼓舞する。
うつむいていた千に、皆に何か言うよう厳しい表情で茶々が言う。
戸惑いながらも千は「豊臣のために、励んでおくれ」と力強く言った。
皆が鬨の声をあげ、わき立った。
慶長19年・冬
徳川軍30万が大坂へ向け進軍した。
対する豊臣軍は10万である。
実に14年ぶりとなる大戦、大坂の陣が始まった。
家康は大坂城の南・茶臼山に本陣を構えた。
そこには、豊臣を離れた片桐且元の姿もあった。
大坂城の内部を聞くために家康が迎え入れたのである。
戦が初めての若い者たちは、徳川古参家臣・渡辺守綱が仕込んだという。
家康は守綱に、「そなたのような兵がわしの宝であった。」と笑顔を向けた。
秀忠は家康に、戦法を説明しようと地図を前に必死だった。
そんな秀忠に、指図はすべて自分が出すからそれに従うよう、家康は静かに言った。
そして兵たちに「この戦の責めはすべてわしが追う。各々陣へ。」と命じたのだった。
こうして大坂城周辺で局地戦が繰り広げられたが、数で勝る徳川勢が次々と勝利をおさめていった。
しかし、豊臣が話し合いに応じることはなかった。
大坂城では、秀頼や茶々、大野修理らが
「大坂城は難攻不落、籠城すれば落ちることはない。」と話していた。
そこへ、真田勢が前田氏ら合わせて数千を討ち取ったと報が入る。
彼らは大坂城の南に真田丸を作り、善戦していた。
この報を聞いた修理は、徳川の和議に応じることはない、と語気を荒げた。
本陣にて、家康はひたすら「南無阿弥陀佛」と書いていた。
しかし、決意したように正信に「あれを使うことにする。」と告げた。
秀忠は慌てて、あれは脅しのために置いているだけでは、と家康にすがる。
しかし家康は、「戦が長引けばより多くの者が死ぬ。主君たるもの、身内を守るために多くの者を死なせてはならぬ。」と言うのだった。
備前島砲台(大坂城・北)から本丸に向けて、大砲が発射された。
片桐且元が城の内部を説明し、指揮を執るのは正純である。
砲丸が撃ち込まれた大坂城内部では、秀頼が急いで女たちを天守へ逃がした。
茶々・千や侍女たちは悲鳴をあげながら天守へ逃れるが、砲撃は容赦なく襲い掛かってくる。
茶々は「まやかしの脅しにすぎぬ!」と皆を励ますが、辺りは騒然となっていた。
本陣からこの光景を見た秀忠はたまらず「やめろ!こんなの戦ではない!」と家康につかみかかった。
家康は「これが戦じゃ。この世で最も愚かで醜い、人の所業じゃ」と秀忠を押しのけた。
泣き崩れる秀忠。
阿茶はうつむき、正信は黙って二人を見ていた。
大坂城の天井が今にも落ちそうになっていることに気付き、千をかばって茶々が下敷きとなった。
千は「母上!誰か!」と周りを見渡すが、侍女たちは皆、柱などの下敷きとなり辺りに横たわっていた。
今回の見どころ
豊臣が建てた大仏殿の梵鐘の文字をきっかけとして、大坂の陣が始まる経緯と戦いの冒頭が描かれました。
梵鐘の文字の真相や片桐且元の失脚、徳川と豊臣の動きなどは通説とどう違うのでしょうか。
通説との違い
方広寺鐘銘事件
豊臣秀頼による方広寺大仏殿再建に際し、同寺に納める梵鐘の銘文を巡り生じた事件です。
慶長19年(1614)には梵鐘が完成し、片桐且元は銘文の筆者として南禅寺の文英清韓を選定しました。
しかし同年7月26日、家康が銘文が不快であるとして大仏殿供養の延期を命じました。
8月に家康は、僧や林羅山らに銘文を解読させています。
銘文を書いた清韓自身は、家康への祝意として意図的に諱を明記したと弁明したといいます。
片桐且元の失脚
豊臣家は銘文問題弁明のため、片桐且元を駿府へ派遣しましたが、家康は且元との面会にすぐには応じませんでした。
且元が家康と面会を果たしたのは9月です。
このとき家康は、問題の要因は豊臣方の徳川家に対しての不信であるとし、双方の親和を示す方策を豊臣に要求したといいます。
9月18日に且元は大坂へ戻り、3案(あらすじ参照)の一つを採用するように進言しました。
この3案は徳川方の当時の史料には記録がなく、徳川方が豊臣方の処分を検討したか不明なことから、「且元の私案の可能性が高い」とも言われています。
この案は豊臣方にとって受け入れられるものではなく、且元は大野治長ら豊臣重臣から家康との内通を疑われるようになりました。
織田信雄から暗殺計画を知らされた且元は、9月23日には屋敷に籠もり防備を固めています。
秀頼は両者の調停を行うとともに且元に武装解除を命じましたが、且元の近隣の屋敷では武装が開始されていたため、応じませんでした。
9月27日に秀頼は且元の執政職を解き、10月1日に且元は大坂城を退去しました。
大坂の陣まで
同日、秀頼による且元殺害の企ての報を受けた家康は、すぐに諸大名に大坂出兵を命じました。
豊臣方は、且元退去は家康に敵対する意図ではないと弁明する書状を送りましたが、家康は相手にしませんでした。こうして大坂の陣の開戦の運びとなったのです。
開戦後、徳川側から和議を申し入れたことや、真田丸での苛烈な戦い、且元が徳川側につき大阪城本丸に向けての砲撃に加わったことなどはドラマと通説で大きな違いはありません。
大坂城が砲撃により大きく崩れようとしているところで今回は終了となりました。
大坂という大きな町の中での砲撃の凄惨さが重く印象に残る回でした。
井伊直政とはどのような武将だったのか
今回、徳川・豊臣両氏ともに、古参家臣たちは次々と亡くなっていました。
しかし渡辺守綱が久々に登場し、若い人への指南者としてまたもや家康とコミカルなやりとりを繰り広げていましたね。
今は亡き徳川の重臣たちを彷彿とさせるシーンでした。
そこで今回は、かつての徳川重臣・井伊直政を改めて取り上げてみたいと思います。
誕生~家康小姓となるまで
井伊直政は、永禄4年(1561)遠江国(静岡県)で今川家臣・井伊直親の嫡男として誕生しました。
しかしその翌年、父・直親が今川氏真によって殺されてしまいます。
謀反の疑いをかけられてのものでした。
井伊家の当主は直親の養父・井伊直盛の娘である井伊直虎が継ぎました。
年少の直政は、今川氏から逃れるように各地の寺院や親戚の家を転々としながら過ごします。
『井伊家伝記』によると、天正2年(1574)、母・ひよや直虎らは、直政を徳川家康に仕えさせることを決心しました。
そのために、まずはひよが徳川家臣・松下清景と再婚し、直政を松下氏の養子にしたといいます。
翌年、直政は初鷹野(年が明けてから最初の鷹狩り)を行った家康の目にとまり、小姓として取り立てられることとなりました。
直政は美男子であったと数々の資料に記されています。
家康は自邸の庭近くに直政の居住を作らせ、通っていたと言われるほど寵愛されていたそうです。
こうして直政が徳川家に仕えるようになったことで、井伊家の危機が回避できました。
平安時代から続いた井伊家は、その後江戸時代後期まで幕臣として仕えました。
初陣~武功を立てるまで
天正4年(1576)、直政は武田勝頼軍との戦いで初陣を飾りました。
この時、若干15歳ながら何名かの敵を討ち取り武功を立てています。
天正7年には、武田氏から高天神城を奪還するための高天神城の戦いにて、本多忠勝や榊原康政らと共に先鋒を務めました。
彼らの活躍により、徳川は7年越しに高天神城を奪還したのです。
本能寺の変後、家康は甲斐・信濃の平定に取りかかりました。
甲斐・信濃は滅亡した武田氏の領地でしたが、統治者不在となったことで一揆が各地で発生し、混乱を極めていました。
「天正壬午の乱」と呼ばれるこの戦いは、相模国(神奈川県)の北条氏と、越後国(新潟県)の上杉氏との三つ巴の戦いでした。
直政は、旧武田家の遺臣を懐柔すると共に、北条氏との講和交渉も担当し、徳川の甲斐・信濃掌握に大いに貢献したのです。
この功績により、家康は旧武田家の遺臣を多数含めた一部隊を直政の直属に入れました。
そして直政を旗本先手役の侍大将に任じ、武田家の兵法である「武田の赤備え」を継承するよう命じます。
これにより、直政は徳川重臣の一翼を担うこととになりました。
赤備えの活躍
赤備えとは、武田信玄の重臣・山県昌景が指揮した精鋭部隊のことを意味します。
部隊の兵が軍旗や武具、甲冑を赤一色で揃えることで団結力が増し、敵に脅威を与える役割も果たしていました。
赤備えの部隊は武勇に秀でた部隊の象徴と知られるようになり、諸将を恐れさせたそうです。
小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤備えを率いて武功を挙げ、名を知られるようになりました。
小柄な体つきで顔立ちも少年のようであるにも関わらず、赤備えをまとい長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称されました。
小牧・長久手の戦いのあと、秀吉により家康の国替えが命じられると、直政にも12万石の領地が与えられました。
これは徳川家臣の中で最大の恩賞です。
そして上野国(群馬県)箕輪への入封を果たし、慶長3年(1598)に箕輪城を廃城して、高崎城を築城します。
関ケ原~死まで
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは、本多忠勝とともに東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在でした。
戦いの終盤、直政は島津義弘の甥である島津豊久を討ち取り、さらに退却する島津軍をわずかな兵で追撃します。
あまりの猛追振りに配下の兵も追いつけず、単騎駆けのような状態であったそうです。
ついに義弘の目前までせまり、義弘討ち取りの命を下した際に、島津軍の柏木源藤に足を狙撃されてしまいます。
直政は大ケガを負ったにも関わらず、戦後処理にも奔走しました。
西軍総大将・毛利輝元との講和交渉において、毛利氏の改易を回避しました。
また、敗戦の将となった石田三成も手厚く保護しただけでなく、西軍についた真田昌幸とその次男・真田幸村(信繁)の助命にも尽力しました。
これらの功により、6万石を加増されて18万石を与えられ、三成の旧領・近江国佐和山(滋賀県彦根市)に転封となりました。
そして、関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年(1602)、直政は佐和山城にて死去しました。
享年42歳。死因は、関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷による破傷風や鉛中毒が原因であるとも、その後の過労が原因であるとも言われています。
「徳川家康が江戸幕府を開くにあたり、最大の功労者は井伊直政だった」と複数の資料に記されています。
今回の配役
井伊直政を演じていたのは板垣李光人さんでした。
略歴
2002年山梨県生まれ。
2歳よりモデルとして活動していたが、10歳のころにドラマに出演し俳優デビューする。
2018年から「仮面ライダージオウ」にウール役で出演。映画では2014年「奴隷区 僕と23人の奴隷」、2020年「約束のネバーランド」へ出演。舞台にも数多く出演している。
今までの主な代表作(ドラマ)
・花燃ゆ(大河ドラマ)
・ここは今から倫理です。
・青天を衝け(大河ドラマ)
・silent
・カラフラブル~ジェンダーレス男子に愛されています。(主演)
など
まとめ
いよいよ大坂の陣が始まりましたが、関ケ原から14年もたっているということに改めて驚きました。
戦を経験していない若者が多数おり、数でも徳川に及ばない豊臣が、それでも徳川と対抗し戦となったことに、並々ならぬ権威への執着を感じます。
個人的には、織田信長の息子でありながら秀吉の台頭後は身を引いた信雄が、明るい感じで再登場したことに「こういう生き方もありだよなぁ。」と思いました。
そして、お江の家康を信じない姿勢に、北庄城で自身を助けてくれなかったという事実が強く残っているのだろうと感じ、切なくなりました。
しかし、天下人としての家康は大局を見て物事を判断せねばなりません。
私情で動くことが許されないと強く認識している家康の言葉は、回を追うごとに重みが増しているような気がしました。
かつては自分の妻子を救うために服部半蔵ら忍びを使い、本多正信や於大の方などから責められていましたが、その頃とは大きく違った家康の姿を見ることができました。
・他の大名同様、江戸へ参勤する
・茶々を江戸へ人質として送る