第47回 「乱世の亡霊」
大坂城は徳川の容赦ない砲撃を受け、豊臣方には大打撃となりました。
もはや降伏しかない状態ですが、豊臣はどう出るのでしょうか。
今回のあらすじ
大坂城で、崩れ落ちる天井から千姫をかばった茶々は、軽傷ですんだようだ。
千姫の呼びかけに答え、千の無事を確認すると、二人は抱き合って泣き喜んだ。
茶臼山の徳川本陣では、豊臣が和議に応じる意向だと正純が家康に伝えた。
千姫の無事も伝えると「何よりのことじゃ。」と家康は返答した。
そんな家康に複雑な表情を向ける秀忠。
家康は阿茶に和議を頼んだ。
二度と大坂を戦えなくすること、それが肝要であると。
徳川との和睦交渉において、豊臣方の全権代表に選ばれたのは、茶々の妹・常高院(初)であった。
豊臣方に呼ばれて戸惑う初に、大野治長が、初は京極家に嫁ぎ徳川とも縁があるから、と説明する。
そして矢継ぎ早に徳川への条件を初に伝えるのだった。
この3つを約束させれば、豊臣が勝利したも同然だと治長は言う。
茶々は、徳川の交渉役の阿茶は、菓子など出して丸め込もうとする狡猾さがあるので気を付けるよう、初に釘をさした。
初は阿茶のもとで菓子を頬張り、微笑んでいた。
その場には、人質として徳川に送り込まれた大野治長の母・大蔵卿局もおり、やはり豪華な菓子の膳をふるまわれた。
しかし大蔵卿局は手を付けず、警戒の表情で阿茶と初を見つめている。
阿茶は、豊臣家の所領安堵と、秀頼を江戸に出さないことは約束できるが、浪人たちに所領を与えることは到底できないと物腰やわらかに伝えた。
そして、浪人たちを罪に問わない代わりに、大坂城の堀を埋め立て、本丸以外は破却することを条件とした。
それを聞いた大蔵卿局は動揺の色を見せるが、初はにっこり笑い、堀の埋め立てと本丸以外の破却は豊臣に任せるよう阿茶に申し出る。
阿茶は徳川が手伝うと言ったが、初は譲らなかった。
本陣に戻った阿茶は、初のことを「のんびりしてそうに見えて賢い方だった」と評した。
堀を誰が埋めるかは問題ではなく、城が丸裸になれば豊臣は戦えなくなると正信は言った。
家康は秀忠の勧めもあり、本陣から引くこととなった。
慶長20年(1615年 大阪冬の陣の翌年)
正純が指揮を執り、大坂城の堀を徳川勢が埋めていた。
そこへ豊臣家臣たちが乗り込み、卑怯だと騒ぎ立てた。
大野治長は徳川が卑怯なことをすればするほど豊臣につく者が増えるので、好きにやらせるがよい、と言うと正純はうろたえた。
寧々は茶々に、秀頼と豊臣の存続を訴えていた。
茶々は自身の野心のためになおも浪人を集め、徳川に抗おうとしているのでは、と問うと、茶々は「私は世のため、この国の行く末のためにやっております。」ときっぱりと言った。
寧々は何も言うことができなかった。
徳川と豊臣は一触即発の状態が続いていた。
その危うい間柄を取りもつため、初が駿府城を訪れた。
阿茶が出迎え、あとからお江も入室する。
久々の再会を喜ぶ姉妹であったが、家康の取り計らいでお江が招かれたことを知ると、警戒の色を隠せない初であった。
別室では、正信・正純父子と家康が大坂の状況を話し合っていた。
大坂にはなおも浪人が集まっており、その数は10万以上になるという。
家康は、戦を食い扶持とする浪人ならまだしも、戦自体を求める者は、乱世が生み出した恐るべき生き物だと語った。
そして自らもその一人であり、自身が滅ばなければ戦はなくならないと言う。
そこへ使者が現れ、浪人たちが京に火を放ち死人がかなり出ている、と伝えた。
家康は初・江・阿茶のいる部屋へ赴いた。
そして京のこの事件を「豊臣が和議を反故にした」と捉え、豊臣を攻め滅ぼすと初に伝えた。
初は、浪人どもが勝手にやっていること、と反論するが、家康は許さなかった。
浪人どもを召し放ち、大坂を出て大和伊勢辺りの大名となり、徳川の配下となることを伝えるよう初に言った。
初は「説き聞かせまする。」と言うほかなかった。
お江は、自分も行って茶々を説得する、そのためにここに呼んだのでは、と家康に聞いた。
千姫の母であるお江が同席するのは、説得にも好ましいと阿茶が言う。
これが最後の通達であると家康は初に念押しした。
慶長20年(1615)4月、戦に備え徳川軍が京へ入った。
家康は二条城に寧々と初・江を招いていた。
豊臣が生き残るすべは徳川の条件を飲むことのみであり、寧々にも力添えを頼みたいと頼んだ。
寧々は、すでに茶々には話をしたが、彼女が「世のためにやっている」と返答したことを伝えた。
再び戦をすればどうなるか茶々にはわかっているはずだが、彼女の中の何かが戦に駆り立てるのだろうとも付け加える。
その何かがわかるのは初と江、もしくは家康であろうと言い、自分にはもうできることはないと頭を下げた。
寧々が去った後、江が重い口を開けた。
茶々には、ずっと憧れの君がいたというのだ。
茶々が12歳の頃、本能寺の変があり、その君が命を狙われていると知った茶々は、百度参りを行い無事を祈っていた。
幼い初と江が、その方の無事を茶々に伝えると「私はただ、母上がお喜びになると思うただけじゃ。」と二人に言った。
母は、その方がいずれ自分たちを助けに来てくれると信じているのだと。
「信じる者を決して裏切らず、わが身の危険も顧みずに人を助け、世に尽くす。」これが、茶々が憧れの君に抱いていた理想像であった。
初は、茶々の中で勝手に幻想が膨れ上がり、それが裏切られて憧れが憎しみへ変わったのだろうと家康に話した。
裏切られたとは、北ノ庄城に家康が助けに来なかったことで、母の市が死んだことを指す。
秀頼は姉の憧れの君そのものであるとつくづく感じる、とも初は言った。
「姉は信じているのです。偽物の天下人を秀頼様が倒すことこそが、世のためだと。」と言う初に、姉を止められるのは家康だと江も続けた。
家康は茶々と豊臣家に文を書いた。
その文を、初と江が大坂城に届けた。
江は久々に娘の千と姉の茶々と対面するが、二人は江に対し表情一つ変えなかった。
まずは、豊臣家への要求を治長が読み上げる。
「浪人ども召し放ちの上、豊臣家は大和・伊勢の一大名となり、江戸に参勤せよ。」
それを聞いた秀頼は、追って返答すると言うが、これが最後の通達であることを初が伝える。
茶々は、わかっていると毅然と言った。
江は家康自筆の文を茶々に渡すが、茶々はその場では読まず懐に入れた。
その態度は他人行儀であったが、江は茶々に笑顔を向けた。
「お千に申したきことあれば、許す。」と茶々に言われ、江は末席に控えていた千に土産を渡した。
それは江からの櫛と、家康からのペンだった。
絵が好きな千を想い、外国製のペンを家康は千に贈ったのだ。
娘との対面に感極まりながら話す江に対し、千は冷淡だった。
「千は豊臣の妻にございます。」と言い、土産を母に突き返した。
二条城へ戻った江は、夫の秀忠の腕の中で泣き崩れた。
その泣き声を家康は廊下で聞いていた。
家康からの文を茶々は自室で読んだ。
それは赤子の茶々を抱いた日のことから始まり、私とあなたで乱世を終わらせましょう、とあった。
そして最後に、秀頼を生き残らせること、かつてあなたの母君がそうしたように、と締めくくっていた。
それを読んだ茶々は激しく動揺した。
茶々は秀頼たちのいる部屋に入り、いつものように秀頼の隣に座るのではなく、正面に向かい合って座った。
そして秀頼に、戦えとはもう言わん、戦うか徳川に下るか、そなたが決めよ、と言った。
「そなたの本当の心で決めるがよい。」と茶々が言うと、治長も千も、秀頼の決断に従うと同調した。
秀頼は、千から以前「本当の心」を聞かれてから、ずっと考えてきた、と答えた。
ずっと母に従ってきた自分に本当の心はあるのか考え、今ようやくわかったと。
秀頼は刀を取り、部屋を出て外に控えていた武将たちの前に立った。
「余の誠の心を申す。信じる者を決して裏切らず、わが身の危険も顧みずに人を助け、世に尽くす。それが誠の秀頼である。」それは母・茶々の言葉と同じであった。
そして、戦場でこの命を燃やし尽くしたいと力強く語った。
武将たちに、改めて自分が天下を取ることを宣言し「ともに乱世の夢を見ようぞ!」と言うと、皆一斉に立ち上がり「おお!」と賛同した。
秀頼は母に向き直り「異論ござらんな。」と聞くと、茶々は涙を浮かべ「よくぞ申した。」と喜んだ。
千も「徳川を倒しましょう。」と決意の表情である。
秀頼は武将たちに向き直り、「えいえい、おお!」と彼らを鼓舞する。
大野治長は肩を震わせて泣きながら秀頼に続いた。
そんな一同を、ショックの表情で見つめる初。
茶々は初の目の前で、家康からの文を火鉢に入れ、焼いた。
家康のもとに、大和・郡山城が豊臣に落とされたと報が入る。
それを聞いた正信は、秀頼こそ乱世が生んだ最後の化け物なのかもしれん、とつぶやいた。
家康は、このところずっと「南無阿弥陀佛」と紙に書き続けていたが、最後に大きく「南無阿弥家康」と書き、「乱世の亡霊よ、さらば。」と言った。
今回の見どころ
浅井三姉妹の中で唯一、成人した姿で登場していなかった初が、重要な役どころとして登場しました。
彼女が担った豊臣・徳川との交渉は難航しますが、寧々が茶々の考えに想いを巡らせたことで、一つの仮説が浮かび上がります。
それは、家康への憎しみが茶々を権力へと搔き立てた、というものでした。
通説はどのようなものなのでしょうか。
通説との違い
大坂冬の陣は、徳川の兵糧不足や豊臣方の大打撃もあり、朝廷も介入して和議が進められようとしていました。
しかし家康は朝廷の介入を許さず、あくまで徳川主導で交渉を進めました。
交渉は、徳川方の京極忠高の陣において行われました。
京極忠高は、初の夫・京極高次の側室の子です。
同席したのは、徳川方は本多正純と阿茶、豊臣方は初でした。
初は家康の命により、両家を取りもつ役割を担うこととなっていたのです。
豊臣家より出された講和内容は以下のものです。
・茶々を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと
これに対し徳川家は、以下の内容を約束しました。
・城中の浪人についての不問
このほか、秀頼・茶々の参勤を行わなくてよいことも決められました。
和議条件のうち、城の破却と二の丸の堀の埋め立ては豊臣家、三の丸と外堀の埋め立ては徳川家とも決まりました。
慶長20年(1615年)3月15日、大坂で浪人が乱暴・狼藉を働いているうえ、堀や塀の復旧が行われていること、京や伏見への放火といった報が駿府へ届きました。
これを聞いた家康は、浪人の解雇か豊臣家の移封を要求しました。
4月1日、家康は畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛すること、家臣に伏見城の守備に向かうことを命じました。
5日に大野治長の使者が家康のもとを訪れます。
そして豊臣家の移封は辞したいと申し出ると、家康は初を通じて「そういうことならどうしようもない。」と答えたと言います。
翌日には諸大名に、伏見に集結するよう命じ、大坂夏の陣へと発展していったのです。
初は両家の和睦に尽力しましたが、浪人たちを統括する豊臣の力が弱まっていってしまったのでしょうか。
それでも豊臣が大坂から離れようとしなかったので、開戦の運びとなったようですね。
茶々とはどのような女性だったのか
誕生~二度の落城
浅井茶々は永禄12年(1569)~永禄14年頃、近江国(滋賀県長浜市)で浅井長政と市との間に誕生しました。
市は織田信長の妹です。
茶々の同母妹に、初と江がいます。
父・長政は元亀元年(1570)金ヶ崎の戦いで突如信長を裏切り、3年後に織田軍の攻撃を受けました。
これにより父の本拠地である小谷城を落とされ、長政は自害します。茶々は4~6歳でした。
このとき市と三姉妹は救出され、以降、織田家の庇護のもといくつかの城を転々とします。
信長が本能寺の変で死去すると、市が織田家家臣・柴田勝家と再婚。
母と三姉妹は勝家所有の越前国(福井県)北ノ庄城へ移ります。
しかし翌年、勝家が秀吉と対立し賤ヶ岳の戦いが勃発。
北ノ庄城は落とされ、勝家と市は共に自害してしまいました。このとき茶々は14~16歳です。
このとき茶々ら三人の娘は逃がされ、秀吉の保護を受けることとなりました。
秀吉の側室に
天正16年(1588年)頃に秀吉の側室となり、大坂城へ入りました。
彼女がなぜ、母と養父の仇である秀吉に嫁いだのかははっきりわかっていません。
しかも、秀吉はすでに50歳を超えていました。
翌年、秀吉との間に棄(鶴松)が誕生しますが、彼は夭折してしまいます。
しかし、天正19年(1591)には拾(秀頼)を産み、これ以降秀吉の後継者の生母として発言権を強めていきます。
秀吉は慶長3年(1598)に62歳で他界しました。
秀吉の死を機に正室の寧々は出家しますが、茶々は出家せず、秀頼の後見人として政治に介入していきます。
関ケ原の戦い
慶長5年(1600)に、会津の上杉討伐に向けて出征中の徳川家康に対し、石田三成が挙兵を企てました。
これを知った茶々は、家康に助けを求める書状を送っています。
一方、三成は戦いを正当化するため、秀頼の墨付きの発給と出陣を願いますが、茶々はそれを認めませんでした。
家康は、茶々からの書状を三成の謀反であると諸大名に主張する材料とし、「秀頼様の御為」という大義名分のもと開戦となったのです。
開戦後、茶々は西軍、東軍のどちらにも加担しようとせず、豊臣家としては観望するに留まりました。
徳川方が勝利をおさめると、家康は、茶々と秀頼が西軍に関与していないとし、二人を処罰しませんでした。感謝した彼女は、家康を大坂城で饗応しています。
そこで自らの酒盃を家康に渡した後に、その盃を秀頼に与えるよう求め、家康は秀頼の父親代わりであると公に宣言しました。
家康との対立
豊臣政権を運営していた五大老・五奉行がいなくなった大坂城では、茶々が主導権を握るようになりました。
慶長10年(1605)、すでに江戸幕府を開いて征夷大将軍を息子の秀忠に譲り、大御所となっていた家康が、秀頼に臣下の礼を取るよう要求してきました。
茶々は豊臣家の家格を守ろうと遺憾の意を表明し、会見を拒絶しました。
その後、方広寺鐘銘事件をきっかけに大坂の陣が勃発。
「当代記」によると、茶々は武具を着て数人の武装した女房を従え、番所の武士に声をかけ激励しました。
しかし、大坂城本丸への砲撃を受け、徳川との和睦を指示することとなったのです。
茶々が本当はどのような性格の女性であったか、ドラマのように権力を握ろうと躍起になっていたかなどは明らかになっていません。
しかし、関ケ原の戦いでは、三成からの秀頼出陣の要請を彼女が認めなかったことや、大坂夏の陣の決行を秀頼に判断させたことなどは、通説とドラマでは少し違うようです。
一方、萩の花を愛し、大坂の東光院にて毎年萩の鑑賞をしていたという記録はあります。
江が徳川秀忠と再婚する際に、前夫との間にできていた子を引き取って育てたことも知られています。
優しい一面がうかがえますね。
ドラマの方では、嫁である千姫を危険を顧みずに守ったことで絆を深めるという描写がありました。
乏しい資料からうかがい知ることのできる彼女を反映させたのかもしれません。
明らかとなっているのは、茶々を含む浅井三姉妹の過酷な運命です。
20代までに親が相次いで自害し、二度の落城を経験するなど、波乱万丈という言葉では言い表せないほど激しい人生でした。
最後は息子と豊臣家を守るため、必死だったのではないでしょうか。
今回の配役
茶々を演じていたのは北川景子さんでした。
北川景子さんの詳細は第30回をご参照ください。
まとめ
「乱世の亡霊」とのサブタイトルでしたが、それが誰を指しているのかはいろいろな解釈ができそうです。
家康は自分自身が亡霊であり、自分が生きている限り倒そうとする者が現れ、乱世は続くと認識していました。
正信は、秀頼こそ乱世最後の化け物だと語っています。
冒頭のアニメーションでは、信玄・信長・秀吉・茶々が描かれ、最後に黒い甲冑が現れました。
戦乱に翻弄され続けた茶々が、息子を操り権力を握ろうとしている姿も、乱世の亡霊に支配されていると言えるかもしれませんね。
いずれにせよ、いよいよ乱世の終わりの気配が漂い、人々が待ち望んだ天下泰平の世をついに家康が為そうとしているのが楽しみです。
・秀頼・茶々ともに江戸には出さない
・浪人たちに所領を与えること