最終回「神の君へ」
再び、豊臣方との戦が始まりました。
家康が何度も和睦の手を差し伸べたのに、豊臣方は最後まで戦うことを選びました。
もう70代半ばに入った家康は、どのような手を使って立ち向かうのでしょうか。
晩年の家康をどうぞご覧ください。
Contents
今回のあらすじ
かつて、竹林で人形遊びが好きだった松平元康少年は、これまで多くの戦の局面を乗り越えてきた。
そして、1615年「大御所・徳川家康」として、乱世を終わらせる戦に臨もうとしていた。
豊臣秀頼は「ともに乱世の夢を見ようぞ」と決意し、その母・茶々も家康からの文を焼き捨て、「ともに行こうぞ、家康!」と不敵な笑みを浮かべていた。
このときの家康は74歳になっていたが、それでも戦陣に出る支度をしていた。
身支度を手伝う側室・阿茶に、家康は「何か言っておくことはあるか。これが最後かもしれんぞ」と聞いた。
けれども阿茶は「ありません。これが最後と思ってないので」といたって冷静に対応していた。
と思いきや「1つありました。鯉の話をお聞かせいただけませんでしょうか。」と家康にお願いしてきた。
家康が話し始めるや否や、戦のシーンに切り替わった。
大坂夏の陣
豊臣方は苦戦していた。次々武将たちが討ち死にしたり、行方不明になったりしていた。
そんな中、大野治長は茶臼山に徳川が陣を張るということで、勝負をかけることにした。
そこの陣地は真田信繁が守っていた。信繁は家康の首が狙えると分かり、意気高揚としていた。
豊臣方が狙うのは徳川家康の首のみだった。
一方、徳川方は天王寺口に本陣を構えていた。
そこに家康も登場した。そして、兵に本陣にかけてある黄金の扇を敵に見えるように「前に出せ」と命じた。
敵をおびき寄せる作戦をとったのだ。
その作戦どおり、金の扇の存在を捉えた豊臣方は、そこを目掛けて攻撃を始めた。
徳川・豊臣、熾烈な戦いが続いた。
家康は金の扇のみならず、「家康はここじゃ!!」と敵にアピールして存在を示した。
そこに真田軍が襲い掛かる。にもかかわらず、家康は恐れない。「一緒に共に行こうぞ」と化け物のように挑発的に相手を誘い込んでいた。
真田信繁が家康の首を取ろうと襲い掛かろうとしていて、暗転になった。
次のシーンでは、おびただしい豊臣の死体が転がっていた。
もちろん真田信繁も討ち死にしたようだ。
信繁が身に着けていた”六文銭”を1人の兵士(おそらく豊臣方の重鎮)が拾い上げ、戦場の悲惨さと徳川の力を思い知っていた。
ということは、家康は無事である。側近の本多正信は「また生きのびてしまいましたな」と皮肉まじりに言った。
すると、大坂城が燃えているのが見えた。
茶々は豊臣方の敗北を悟り、千(秀頼の妻で、家康の孫)に城外に出るように命じた。
しかし、千は茶々と秀頼と一緒じゃないと嫌だと、拒否した。
それでも、茶々も秀頼も千だけは生かそうとしていた。
千は夫である秀頼にも「あなた様と共に生きたい」と願ったが、「わしは最期まで豊臣秀頼でありたい」と千と離別する覚悟をしていた。
千は初(茶々の妹)と城外に出て、徳川陣へ向かった。
徳川陣には家康と秀忠(千の父)がいた。
千は真っ先に家康に懇願した。「我が夫(秀頼)と母上(茶々)の御命をお助けください!豊臣はもう戦う力はありません。それなのに、お二人を死なせる意味がどこにありましょうか」
千は何度も何度も家康に頭を下げた。にもかかわらず、家康は千の頼みを吞まなかった。「すまんな」と一言返すだけである。
家康には、乱世を終わらせるという大きな役目があった。ここで手を抜くわけにはいかなかった。
そのような姿を見て、息子である秀忠は「私に最後の命をさせてください」と申し出た。
「最後に将軍として責めを負わせてください。」そして「秀頼には死を申しつける」と言い放った。
この言葉に千は「鬼じゃ…鬼畜じゃ!!」と2人を罵り、歯向かった。
周りの兵士に押さえられながらも「豊臣から天下を奪った化け物」と荒れ狂った。
初が「これが姉上と秀頼様がのぞんだことなのです」と諭すも、彼女の絶望は計り知れなかった。
豊臣方の最期
豊臣方は炎に包まれながら、城の中にいた。
やがて、豊臣秀頼が最初に自害した。大野治長が介錯する。
この介錯は秀頼が「母が自分の首を持って生きるように」という意味が込められていた。
そして他の兵や大野治長も自害し、それぞれの生涯を終えた。
茶々も自害に向けて準備するが、次のような言葉を吐き捨てた。
「つまらぬ国になるであろう。正々堂々と戦うこともせず万事長きものに巻かれ、人目ばかりを気にし、陰でのみ嫉み、あざける。やさしくて、卑屈な、かよわき者の国に」
まるで、「本能寺の変」で討ち死にした織田信長を思い起こさせる最期であった。
家康の晩年
豊臣方を滅亡させて、ようやく戦乱のない世が来た。
人々はこの平穏な世をもたらした「徳川家康の偉業」を後世に残そうとしていた。
その1人が「南光坊天海」である。彼いわく「功績を称えて、語り継ぐからこそ、憧れの武将となる」と説いた。
他にも、徳川家康を「神の君」と称して、論じている者もいた。
家康の孫・竹千代(後の家光)の乳母の「福」である。
彼女は血気良く、家光に家康のことを話していたが、その話に感銘していたのは本多正信だった。
まだ幼き少年には退屈な話であった。
そこへ阿茶がやってきた。福や竹千代は家康の見舞いで江戸より駿府城に来ていたのだった。
家康の容態が思わしくないのである。
阿茶の案内で、正信は家康の寝所にたどり着いた。広い部屋の中で家康は寝ていた。
正信は「私のような者を信用してくださり、ありがとうございます」と家康に礼を言っていた。そして「私もすぐそちらに逝きます」と挨拶し、家康の手を握った。
「長きにわたり、ご苦労様でした」とねぎらうと、家康も正信の手を握り返すのだった。
そのような家康の姿を見て阿茶は「殿はお幸せだったのでしょうか」と正信に問うた。
正信も「本当に求めていたものは…」と言いかけて、手を合わせた。
1616年4月17日
この日の家康は彫り物をしていた。
そこからどこからともなく「殿、殿」と女性の声が。
なんと、寝所の戸棚から自害した瀬名と信康(家康の嫡男)がやってきたのだ。驚く家康。
「父上、戦なき世を作り上げましたな」と信康は父の功績を喜んでいた。
「私の言ったとおりでしたでしょう。殿ならきっとやり遂げて見せると」と、瀬名も(自分に)先見の明があったことに満足しながら家康を称えていた。
しかし、家康は「立派なことではなく、やってきたことはただの人殺しじゃ。望まないこと…したくもないことばかりして…」と否定した。
そのとき、寝所に竹千代がやってきた。「おじい様、うまく描けたので」と家康に絵を差し出しに来た。
彼には瀬名や信康が見えているように思えた。
家康は瀬名たちに「わしの跡取りじゃ」と紹介した。
これに対して、瀬名は「あの子が鎧を着ないで済む国を、あなた様が作り上げたのです。立派なことだと思います」と説明した。
そして、「みんな待っておりますよ。私たちの白兎を」と瀬名は家康を誘ったーーー
知りたかったあの鯉の話
目が覚めると、そこは1567年の岡崎城であった。このとき家康は25歳であり、この日は幼き信康と五徳が祝言を挙げる日だった。
五徳は織田信長の娘である。
じつは、信長は自ら選んだ3匹の鯉を木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に届けさせていた。
この鯉は織田と徳川両家の絆と繁栄の証という。
ところが、これらの鯉が3匹とも姿を消してしまい、魚の骨として見つかった。
これが信長の耳に入れば、どうなるかわからない…
家康はただちに犯人探しを始めた。自分の家来や侍女たちを追及し、やがて鯉に目がない鳥居忠吉(鳥居元忠の父)がもっとも怪しいということになった。
忠吉も食ったかもしれぬとあやふやな様子。
家康は織田信長の怖さをおそれて、忠吉を打ち首にしようと刀を振りかざした。
だが「大事な家臣を鯉と引き換えにできぬ」とためらった。そして「鯉は所詮、鯉じゃ。食うて何が悪い」と結論づけた。
この言葉を聞いて、家臣たちは大喜びした!
なんと、すべて彼らの戯れだったのだ。ちなみに、信長が岡崎城に来ることも噓らしい。
家康の心を試していたのだ。彼が最初から忠吉を手打ちにしないことを信じていた…!
本多忠勝(平八郎)も「皆、よう分かっておるのでござる。殿というお人を、そのお心を」と代表するように言った。
そして、家臣団1人1人が家康に礼を述べた。「殿、まことにありがとうございました」これは70代の家康に通じるような礼でもあった。
家康も誉れ高い家臣たちに「こちらこそじゃ。心より感謝申し上げる」と返した。
そして「わしは幸せ者じゃな」と涙を流した。
1567年の岡崎城は愉快であった。
酒井忠次お得意の「えびすくい」をみんなで踊っていた。もちろん信康と五徳もだ。
その楽しそうな光景を見ながら、瀬名は「何とよき光景でしょう。こんなよき日は二度ありましょうや。まるで戦などないみたい」と家康に語った。
家康も「わしが成したいのは、今日この日のような世かもしれんな」と家臣たちを見ながら語った。
「家臣たちを見ていると、そんな日が来るような気がする」そして「わしは信じるぞ。いつかきっと、そんな世が来ると」
と穏やかな未来を見据えて、愛する息子たちの祝言のときを過ごしていたーーー
今回の見どころ
今回の見どころは豊臣家の最期と、徳川家康の最期のシーンでした。
通説との違い
大坂夏の陣
家康からの和睦を受け入れなかった豊臣方に対して、彼も本格的に豊臣を攻めることに決めました。
家康は秀忠とともに河内方面を進む軍勢を指揮することにし、大坂に向けて出陣したのが5月5日のことでした。
そして、7日には、家康は天王寺口に、秀忠は岡山口に陣取って大坂城へ向けて進軍しました。
徳川軍は15万5千人の規模、対する豊臣軍は7万8千人しかありませんでした。
しかも「大坂冬の陣」での講和条件により、堀を埋められて大坂城は裸丸出し同然の姿になっていたため、野戦によって総大将による徳川家康の首を取ることを狙いにしました。
5月7日未明に、大坂城から出陣した豊臣軍は天王寺口・岡山口で徳川軍と対峙しました。
茶臼山に布陣していた真田信繁らが天王寺口で徳川軍と戦いました。
真田勢が三度にわたって家康の本陣に突撃したので、徳川軍は混乱したものの、なんとか持ちこたえて真田軍を撃退しました。
信繁は退却し、神社の境内に休んでいたところ、徳川方の武将に討ち取られました。
真田軍を壊滅させた徳川軍は、続々と大坂城内に侵入し、内通者によって火が放たれました。
落城が決定的になると、大野治長は秀頼の正室である「千」を城外に脱出させて、家康に秀頼と茶々の助命を乞います。
しかし、家康ではなく、秀忠が反対したため、翌5月8日に秀頼と茶々は自害となりました。
完全に豊臣家が滅んだということです。
これは将来の禍根を断つべきと考えた結果でした。
それどころか、秀忠は秀頼とともに自害しなかった千に対して「女なれども、秀頼とともに焼死すべきところに、城を出てきたのは見苦しい」と言い放ち、怒りをあらわにしていたようです。
秀忠は千としばらく対面すらしなかったともいわれています。
徳川家康の最期
家康は1616年4月17日に75歳の生涯を閉じました。
死去する前の3か月(1月ごろから?)少しずつ容体が衰弱していったと考えられています。
同年の1月21日夜に、現在の藤枝市で鷹狩りをしていたときに発病しました。
腹痛や痰といった症状が起きていたため、服薬をして駿府に帰りましたが、これを境にますます体調が悪くなっていきました。
家康の死因は、近年では「胃がん」だといわれています。お腹のあたりに外から触って分かるほどのしこりがあったからです。
1月下旬には、食欲不振、喀痰(たん)が増え、不整脈も出るようになりました。
やがて、大事な場面でも起き上がれなくなった家康は、4月に入ると側近を枕元に集めて遺言を伝えました。
その数日後、家康は高熱を出し、白湯しか受け付けられなくなり、17日の午前10時ごろに息を引き取りました。
徳川家康とはどのような武将だったのか
ドラマでは、家康の生涯を見てきましたが、今一度彼の生涯を整理してみましょう。
徳川家康の生涯
西暦 | 年齢 | 出来事 |
1542年 | 1歳 | 三河国岡崎城主・松平広忠の嫡男として誕生。幼名は竹千代。 |
1547年 | 6歳 | 人質として駿河国の今川義元のもとへ送られるが、途中で尾張国の大名・織田信秀のもとへ連れ去られる。 |
1549年 | 8歳 | 3月に父・広忠が急死。竹千代は今川氏と織田氏の人質交換により、駿府に送られる。 |
1555年 | 14歳 | 3月に元服する。幼名から「松平元信」と名を改める。 |
1557年 | 16歳 | 今川家の関口氏純の娘・瀬名と結婚する。 |
1558年 | 17歳 | 三河寺部城攻めで初陣を果たす。同年、名を「松平元康」に改める。 |
1560年 | 19歳 | 5月「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれる。これを機に今川家から独立を果たす。 |
1562年 | 21歳 | 織田信長と和睦。清洲同盟を締結する。 |
1563年 | 22歳 | 7月に「家康」と改名する。直後に三河一向一揆が勃発する。1566年に三河を平定させる。 |
1566年 | 25歳 | 改名し、「徳川家康」と名乗る。 |
1568年 | 27歳 | 武田信玄と同盟を結ぶ。今川氏は掛川城を開城し、事実上滅びる。 |
1570年 | 29歳 | 6月「姉川の戦い」で織田・徳川連合軍として、浅井・朝倉連合軍を破る。 |
1572年 | 31歳 | 12月「三方ヶ原の戦い」で武田信玄に大敗する(その前に武田氏とは絶縁) |
1575年 | 34歳 | 5月「長篠・設楽原の戦い」で武田勝頼の軍勢を破る。 |
1579年 | 38歳 | 「信康・築山殿事件」が起き、築山殿(瀬名)と信康は自害する。 |
1582年 | 41歳 | 織田信長が「本能寺の変」で自害。堺にいた家康は「伊賀越え」をして岡崎城に戻る。 |
1584年 | 43歳 | 「小牧・長久手の戦い」で豊臣秀吉と対立。 |
1586年 | 45歳 | 5月秀吉の妹・朝日姫と結婚する。 |
1590年 | 49歳 | 「小田原合戦」に加わり、北条氏が降伏。同年に関東に国替えし、江戸城へ入る。 |
1600年 | 59歳 | 「関ヶ原の戦い」で石田三成らを破る。 |
1603年 | 62歳 | 征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。 |
1605年 | 64歳 | 三男・秀忠に将軍職を譲り、自らは「大御所」となる。 |
1614年 | 73歳 | 「大坂冬の陣」 |
1615年 | 74歳 | 「大坂夏の陣」豊臣氏が滅ぶ。 |
1616年 | 75歳 | 駿府城にて死去。 |
徳川家康の人となり
天下取りのチャンスがあっても、健康で長生きしなければ望みも続かないと思っていたようです。
食事の栄養バランスに気をつけ、粗食を心がけていました。
野菜だけでなく、肉も適度に食べ、運動も欠かしませんでした。
彼は夏に麦飯を食べていました。これは最も食糧不足になるのが夏だったので、自分だけぜいたくはできないと考えたからでした。
また、着ているものも、多少傷んでいてもかまわず着続けていたといわれています。
これらの倹約のおかげで、徳川家はいざというときのために財力を蓄えることができました。
家康は彼らたちに目を掛けてよく鍛え、能力に応じて取り立てていました。
三河武士だけでなく、門閥に関係なく能力の高い者を重用し、適材適所の登用を行うこともしました。
武田氏などのもともと敵であっても、能力がある者はそれを活かせる場を与えていました。
家康は人を見る目にも優れていたのですね。
今回の配役
徳川家康を演じたのは松本潤さんでした。
略歴
1983年8月生まれ、東京都出身。
日本のタレント、俳優、歌手。男性アイドルグループ・嵐のメンバー。
1996年、中学1年生のときに芸能界デビューをする。
1999年9月15日に、ハワイ州・ホノルル沖のクルーズ客船で記者会見を行い、嵐を結成。11月3日にデビューシングル『A・RA・SHI』をリリースし、CDデビューを果たす。
2020年の活動休止まで、嵐はこれまでシングルCD58枚、アルバム(ベルトアルバム含む)23枚など、多くの曲を発表し、活躍していた。
松潤は嵐のコンサートにて、2000年頃から演出や構成もリードするようになり、メンバーも彼のプロデュース能力を評価していた。
俳優としては、1997年4月にテレビドラマに初出演していた。
同年10月に放送された『ぼくらの勇気未満都市』で、初の連続ドラマレギュラー出演も果たしている。
21世紀に入ると、ドラマはもちろん、CMや広告など多数のメディアに出演している。
2013年には、メディアの調査・分析を行うニホンモニターの調査で、年末年始の「タレント番組出演本数ランキング」にて首位を獲得している。
個人での活動でも、着実に多くの作品を残している。
今までの主な代表作(ドラマ)
- 金田一少年の事件簿(2代目金田一一)
- ごくせん
- きみはペット
- 花より男子
- バンビ~ノ!(主演)
- 夏の恋は虹色に輝く(主演)
- ラッキーセブン(主演)
- 失恋ショコラティエ(主演)
- 99.9-刑事専門弁護士-(主演)
- となりのチカラ(主演)
など
まとめ
最終回は「大坂夏の陣」と晩年の家康の様子が描かれた回でした。
豊臣家の最期のシーンにも、通説とは異なった描き方をしていることに驚きました。
そして、ドラマでは幾度となく“おあずけ状態”になっていた、「信康と五徳の祝言の鯉」の話が聞けました。
『どうする家康』の最後は、この作品の名物であった「えびすくい」をしながら、徳川家康の幸せな頃を見ながら終わっていきます。
ドラマでは、最終回以外にも通説と異なる描き方をしていたシーンがちらほらありました。
その1つが瀬名の描き方でしょう。脚本家の古沢良太さんは史実を踏まえたうえの新解釈にしたそうです。
たしかに、セリフの1つ1つに現代の世に通じるような表現が含まれていました。
この作品では、家康を偉人として描くのではなく、「ナイーブで頼りないプリンス」という視点で描かれていました。
たしかに、幼少の家康をあまり知らなかったので、おもしろかったです。
こちらのサイトでは、通説と交えてあらすじをお伝えしてきました。
徳川家康という人物は膨大な史料が残っていますので、異なる箇所もあるかもしれません。
けれども、このサイトを通して、『どうする家康』と徳川家康の歴史の一助となっていれば幸いです。
こちらの事情の関係で、『どうする家康』は第18回からの掲載となりました。
皆様、ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
そして、ドラマを見ていた方も、1年間お疲れ様でした。