熊谷直実(くまがやなおざね):義経と同時代に生き、信長に愛された武将

熊谷直実(くまがやなおざね):義経と同時代に生き、信長に愛された武将

織田信長を扱った映画やドラマで、信長が「人間五十年~」とうたい舞う姿が描かれることがあります。
ご覧になったことがある方もいるのではないでしょうか。

「人間五十年」の部分だけ聞くと、当時の人の平均寿命がそれくらいだったのかと思ってしまいませんか。
筆者は思っていました。信長も49歳で亡くなっていますし。

実はこちらは平安時代を描いた「敦盛あつもり」という作品の中の一節なのです。
「平敦盛」と「熊谷直実くまがやなおざね」の物語を描いたこの作品の中で、熊谷直実が世を儚んで謡ったのがこのうたです。

今回は、平家の栄華と衰退を描いた作品「敦盛」とともに「熊谷直実」という人物をご紹介いたします。

幸若舞こうわかまい」の概要

「敦盛」という作品についてご紹介する前に、「曲舞くせまい」と「幸若舞」について軽く触れておきます。
能にも「敦盛」という演目がありますが、信長が好んだのは幸若舞という、室町時代に流行った曲舞の一種です。

曲舞は拍子に合わせて長い物語を謡いながら舞うもので、能や歌舞伎の原型といわれています。
琵琶法師による平家語りは、琵琶によって音程を変えながら語っていくものであるのに対し、曲舞は舞を伴います。
ただし使う楽器は小鼓こづつみのみで、リズムを主体とした舞となっています。

小鼓

当時の舞がどのようなものであったのか、残念ながら資料には残っていませんが、当時の記録によれば非常に美しいものであったそうです。
室町時代には各地に多くの曲舞が流行しましたが、そのうち一大勢力となったのが幸若舞です。

幸若舞は、越前の桃井直詮もものいなおあきらが創始者とされています。
直詮の幼名が幸若丸だったことから、幸若舞と呼ばれるようになったといわれています。

「平家物語」「義経記」「曽我物語」といった軍記物語や、歴史的事件や人物を描いたものが中心であり、厳格律気で、多くの戦国武将に愛されました。
信長や秀吉は幸若舞の大夫(一座の棟梁)に領地を与え、江戸幕府を開いたあとの家康も、幸若舞の大夫を庇護し参勤を命じていたのです。

幸若舞は能楽(能と狂言)と同様、江戸幕府の式楽(公的な儀式で演じられる芸能)であったということです。
幕府による庇護は倒幕まで続きますが、能楽は明治以後も存続したのに対し、幸若舞は芸の継承がほぼ途絶えてしまいました。

現在は、福岡県みやま市の幸若舞保存会によって継承されているのみです。
みやま市の幸若舞は、昭和51年(1976)に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
今も節回しや舞が口承復元されており、毎年1月に披露されています。

「敦盛」概要

幸若舞の「敦盛」で、信長が謡ったとされる一節は「人間五十年、下天げてんのうちを比ぶれば、夢幻ゆめまぼろしの如くなり。一度生ひとたびせいけ、めっせぬもののあるべきか。」です。

現代語訳は以下のようなものです。
「人間の世界の50年というのは、天上界と比べれば夢のように一瞬のことだ。この世に一度生を受けて、滅びない者などいない。」

先述したように、これは「敦盛」という作品の一節。
平敦盛は、平氏の繁栄を極めたことで有名な平清盛の甥にあたる人物です。

一方、熊谷直実は源氏の一武将でした。
武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)を拠点にし、一の谷の戦い(兵庫県)に参戦すべくはせ参じました。

二人が出会ったのがこの一の谷の戦い。

敦盛と直実像

この戦いは源氏と平氏が存亡をかけて激突し、源義経が行った「鵯越ひよどりごえ逆落さかおとし」という奇襲が有名です。
これにより源氏は大勝し、それまで栄華を誇った平氏が滅亡に向かうきっかけとなりました。

首級をあげたい直実は、義経の鵯越部隊に参加し、息子とともに先陣を切っています。
少数で平家の陣営に突っ込んだため、最初は討ち取られそうになりましたが、源氏の追兵のおかげで難を逃れました。

実は直実は、その前に行われた常陸国(茨城県)の佐竹氏征伐でも先陣を務めました。
直実は弓の名手であり、実力も度胸もある武士であったようです。

「敦盛」あらすじ

さて、一の谷でも合戦の一番乗りを果たした直実は、なおも武功を上げようと敵を探していました。
すると立派な武具を着て馬に乗り、沖の船へ逃れようとする平氏の武者を見つけました。

敦盛と直実像

良き敵を見つけたと思った直実は「敵に背を向けるのは卑怯である。戻りなされ。」と呼びかけました。
武者はこれに応じて陸へ引き返してきたので、直実は一騎打ちを挑みました。
歴戦の将である直実は、この武者を馬から引きずり下ろし、組み伏せました。
しかし、武者はちょうど息子と同じくらいの年の、薄化粧をした美しい少年だったのです。

直実は狼狽し、考え抜いた末、逃がしてやろうと決心し名を尋ねます。
しかし若武者は答えず「ただ首を取って人に問え。」と毅然として答えるだけです。
やがて源氏の兵士たちが駆けつけてきました。
この状況ではとても逃げることはできまい、と直実は泣く泣く首を取ります。

しばらく涙を流していた直実でしたが、やがて首を包もうと見ると、腰に錦の袋に入れた笛を差していました。
戦場に笛を持参するほどの高貴さに、直実は深く心打たれるのでした。

後に直実は、討ち取った相手が平敦盛であったことを知りました。

平敦盛像

敦盛の笛は「小枝さえだ」という名笛めいてきで、同じく笛の名手であった平忠盛(敦盛の祖父であり、清盛の父)が、鳥羽上皇から賜ったものだったそうです。

自分の息子ほどの年齢の、立派な公達を泣く泣く殺めたことにより、直実は武士としての生き方に疑問を持つようになります。
「人間五十年」の一節は、直実が出家を決意する場面に謡ったものです。

熊谷直実の生涯

誕生から一の谷の戦いまで

熊谷直実は、永治元年(1141)武蔵国熊谷郷に生まれます。
父・直貞の代から熊谷郷領主となり、熊谷の姓を名乗りました。
幼名は弓矢丸といい、その名の通り弓の名手として知られています。
幼くして父を亡くし、母方の伯父・久下直光に養われることとなりました。

保元元年(1156)に起きた保元の乱で、16歳にして初陣を飾り、源義朝のもとで活躍。

その後、源義朝が敗れ、直実も熊谷に戻ります。
京では平清盛が政治の実権を握るようになり、平氏全盛の時代がやってきていました。

養父・久下直光の代理として京に上った直実は、平氏の武士とは違い食事も満足にとれないほどの厳しさに不満を持ち、直光に無断で平清盛の第4子・知盛の配下に入ってしまいました。

これに怒った直光は、熊谷郷の一部を直実から取り上げてしまいます。
これをきっかけに直実は直光のもとを去り、 自立しました。

治承4年(1180年)の石橋山の戦いまでは平家側に属していましたが、敗走途中に洞窟に隠れていた源頼朝を見逃したという話が残っています。(熊谷寺所蔵「熊谷氏系図」慶長8年)
※「源平盛衰記」では頼朝を逃したのは梶原景時とされています。

ししどの窟

以後、頼朝に臣従し、後に鎌倉幕府の御家人となりました。
治承4年(1180年)に、先述した常陸佐竹氏との戦いがあり、このときの武功により直実が御家人として熊谷郷を領することとなりました。

寿永3年(1184)の宇治川の戦い、同年の一の谷の戦いに参戦。
一の谷の戦いのとき、直実は44歳、敦盛は17歳であったと言われています。
若き将を討ち取った後悔により出家を思うようになってからは、戦の第一線からは遠のいています。

その後から出家まで

文治3年(1187)8月4日、鶴岡八幡宮で行われた放生会ほうじょうえ(捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式)で流鏑馬の的立役を任じられました。
しかし、弓の名手と自負していた直実は、これを不服として拒否
頼朝により所領の一部を没収されてしまいました。

熊谷家に代々伝わる「熊谷家文書」には、建久2年(1191)3月1日付けの直実譲状ゆずりじょう(所領などの財産を親族などに譲渡する際に、所有者が譲渡相手に対して作成した証文のこと。)が残っています。
そこには「地頭僧蓮生」と署名があり、この年には出家していたことがわかります。

かねてから不仲だった久下直光との所領争いに嫌気がさし、出家したと「吾妻鑑あずまかがみ(鎌倉幕府の将軍記)」には記載があり、従来はこの説も支持されていました。
しかし時系列につじつまの合わない点があり、現在では、敦盛を討ち取った後悔がきっかけで出家に至ったという説が有力視されています。

出家

出家を考えていた直実ですが、どうしたらいいかわからず、誰を頼ったらいいかもわからない状態でした。

やがて、浄土宗の開祖である法然のことを教えてくれる人があり、京に行きます。
法然の元を訪れた直実は「馬に乗って甲冑を身に纏って現れた」と金戒光明寺(法然の庵のあった場所に建てられた寺)に伝わっています。

金戒光明寺

そして法然との面談を弟子に求めたあと、いきなり刀を研ぎ始めたため、驚いた弟子が慌てて法然に取り次ぎました。
直実は「後生(死後成仏できるか)」について、法然に真剣にたずねたといいます。
法然は「ただ念仏を唱えれば往生する」と答え、それを聞いた直実は号泣しました。
多くの命を殺めてきた自分は、切腹するか、手足の一本も切り落とさなければならないと思い、そのために刀を研いでいたというのです。

こうして法然の弟子となり、名を法力房蓮生ほうりきぼうれんせいとしました。

蓮生は、出家してからも武士としての作法が抜けなかったのか、法衣の下に甲冑を着けて比叡山に行こうとして、法然にたしなめられたというエピソードが残っています。

法然が関白・九条兼実の屋敷に招待された際、蓮生は法然のお供を願い出ました。
しかし関白の屋敷には蓮生の身分では入ることができず、玄関で待たされることになります。
法然の声はとても小さく、説法を聞き取ることが難しかったようです。
法然の説法が聞きたい蓮生は、「娑婆というのは何と情けないところだ。身分の違いで聴聞できないとは。やがて参る浄土には、こんな差別はないだろうに」と叫びました。
それを聞いた九条兼実は屋敷に招き入れてやりましたが、蓮生は挨拶もせずに邸内へ入ってきたと伝わっています。

寺院の建立

蓮生は全国各地に寺院を建てたことでも知られています。
一つは、出家後間もなくの建久4年(1193)に美作国(岡山県)の法然生誕地に建てた誕生寺です。
建久6年(1195)京から鎌倉へ下り、同年に東海道藤枝宿(静岡県)に熊谷山蓮生寺を建立しました。
その後は京都に戻り、建久8年(1197)に父・直貞の旧地に法然の御影を安置し、法然寺を建てました。

翌年、西山浄土宗総本山光明寺を創立します。
ここは法然を開山一世とし、蓮生自身は二世としました。
法然より「念仏三昧堂」とも号されています。

この他、兵庫県や長野県などにも寺院を開いています。

故郷の熊谷郷に帰った後は庵(後の熊谷寺)で、念仏三昧の生活を送りました。

「法然上人行状図画」巻二十七によれば、建永元年(1206)8月、翌年の2月8日に極楽浄土に生まれると予告する札を立てました。
予告通りに往生は果たせませんでしたが、再び高札を立て、建永2年9月4日(1207年9月27日)に実際に往生したと言われています。
亡くなった年、年齢、場所については諸説あり、詳しいことはわかっていません。

遺骨は遺言通り、念仏三昧堂に安置されました。
熊谷寺にも直実の墓があり、妻と息子の墓も並んでいます。
また、高野山には直実と敦盛の墓があります。

まとめ

いかかでしたでしょうか。

こうして見ると、直実は血気盛んで恐れ知らず、出世欲も強いタイプであることがうかがえます。
まさに勇猛果敢な武士といった印象ですが、敦盛を討ち取ったことで戦の無常さ、人を殺めることの罪深さを感じるようになり、出家に至ったというのがなんとも味わい深いです。

それまで戦で武功を上げることに明け暮れていた人物が、そこまで心変わりするものか、と驚きます。
そこに直実の純粋さがあるのでしょうね。

クマガイソウ

戦国時代の武将たちは、「敦盛」をどのように味わっていたのでしょうか。
敦盛のように最期まで気高く生きたいと願ったのか、「この世に生まれて滅びない者などいない」という直実の言葉に共感して乱世を生きる糧としていたのか、想像するのもまたいいものです。

また、出家したあとの直実の言動にも向上心や反骨精神の強さが見え、熊谷直実という人物の個性や魅力を感じます。
特に、関白という高い位に就いている九条兼実に、おもねることなく自分の意見を言ったところに、芯の強さを感じました。

各地に残された寺院の他、熊谷市の駅前銅像など、熊谷直実を偲ぶ場は現在でもいくつもあります。
これらを訪ねてみて、約800年前の一武将の一生に思いを馳せてみたいものですね。