紫式部は平安時代に活躍した人物ですが、主に『源氏物語』を描いたことで知られています。
貴族出身で華やかな生活を送っていた中で、摂関政治の争いに巻き込まれていきます。
『源氏物語』の他に『紫式部日記』などを書いており、最古の女流作家として有名です。
かつて2000円札の裏面に、源氏物語絵と紫式部像が描かれたこともあります。
さて、紫式部はどのような人物だったか挙げていきます。
人物像・逸話
紫式部という名前は本名ではなく、本名の記録は残っていません。
父親の官位が式部大丞だったので、そこから取って式部と呼ばれ、紫は『源氏物語』の登場人物である、紫の上からとられて、便宜上「紫式部」と言われています。
幼少期に男性に必須だった漢文を読みこなした、生涯で795首以上の和歌を詠んだ等、当時としては秀才でした。
藤原氏と紫式部
藤原道長の長女・彰子の女房(当時の家庭教師)として、1006年から1012年まで務めて教育していました。
清少納言も当時の藤原道長の政敵である、藤原道隆の長女・定子の女房を務めていて、摂関政治の争いに巻き込まれていました。
結果、彰子が定子を破り、天皇の正室となったので、藤原道長が摂関政治の実権を握ることとなります。
紫式部の娘・賢子ものちに大弐三位と名乗って、彰子の女房として働いていました。
『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルは藤原道長だったという説がありますが、モチーフは複数存在しています。
『源氏物語』は紫式部の夫の死別、社会格差、心情、恋愛感情が強く影響していると考えられています。
道長の寵愛を強く受けていて、道長からプロポーズを受けたり、結婚していたとも言われていますが、詳細は不明で藤原宣孝との結婚の一回が最後だったともいわれています。
紫式部と作風
『紫式部日記』では清少納言などの女房の悪口、陰口や世間の愚痴などの当時の思いを書いていて、紫式部の考えている事を鮮明に記していました。
当時の紫式部の思いや考えや心情が理解することが出来る、有力な資料です。
よって、紫式部は才と自我が強いので、近くの女性を過小評価するきらいがあったのではないかと思います。
一方、清少納言とは宮廷にいた時期が違い、すれ違いで仕えていて面識はありませんでした。
枕草子を読んだり、政治的に関係していたので、同じ家庭教師だった清少納言に対抗心があったのかもしれません。
また、『紫式部集』という紫式部が幼少期から晩年までの今まで読んだ和歌、句を綴った作品集もあります。
これは、その時々の悲しみや喜び、思いに浸ってた時が理解できる作品です。
活躍した時代
平安時代中期に活動した人物で出生年、没年ははっきりとは分かっていません。
道長の指定で道長の娘の彰子の家庭教師役を務めており、平安時代の政治の表舞台に関係していました。
源氏物語
紫式部は『源氏物語』を書いたことが有名で、この作品は現代でも世界各地で翻訳、漫画などのメディア展開もされています。
日本初の長編小説を書いたとも言われていて、主人公の光源氏の心情や苦悩、恋愛が描かれ、子孫のその後も描かれています。
のちの平安末期に『源氏物語』は絵巻物で描かれて、説明文と併せて民衆に読みやすくされました。
平安当時の状況、文化、風習、政治、社会で暮らしていたことが事細かに書かれており、読者は上流・下級関係なく、ある程度の地位に治まっている人間を対象としたものと思われます。
『源氏物語』は現在のような小説ではなく、和歌や句によって、登場人物の心境、自然の情緒、風柳を表現していました。
よって、和歌などが分からないと、大変読みにくい作品でした。
『源氏物語』の原本は存在せず、鎌倉時代に写された写本が初めて判明したものです。
紫式部日記
道長の要請で、宮中の様子を描いた『紫式部日記』も書き綴っております。
当時の様子を詳細に書いていて、高い位の人物がどんな働きや行動をしていたかをしたためています。
彰子の出産の時期から道長の栄華まで書かれていて、その時の状況が詳細かつ生き生きと描かれているのが分かります。
これは現代で言う自叙伝や日記のようなタイプで、小説などの読み物とは違います。
当時の貴族社会、政治がどのように行われていたかなど、状況が鮮明に描かれているので、平安中期の学術資料としての価値も高いです。
和歌
また、紫式部の詠んだ和歌は『拾遺和歌集』、『小倉百人一首』にも選ばれていて中古三十六歌仙、女房三十六歌仙に認定されています。
他にも『勅撰和歌集』にも51首、収められています。
紫式部自身が私家集として、編纂して120集まとめた『紫式部集』というものもあります。
これは個人の和歌のみなので、その時々の気持ちを理解する事が出来ます。
年譜
紫式部は973年~978年に生まれて、1014年~1031年の間に亡くなったという説があります。
けれども、学者の間で説が分かれています。
また、彼女の両親ですが、父の藤原為時と母の藤原為信の娘との間に生まれた説が有力です。
幼少期に母を亡くしていたと考えられており、紫式部は娘時代の996年、父の治める越前で2年間過ごしていました。
998年に従兄妹の藤原宣孝と結婚して、一年後に娘の賢子をもうけています。
しかし、わずか3年で宣孝は、1001年に病気の為に亡くなりました。
これ以降、紫式部は一切結婚しなかったとも言われています。
1001年頃に『源氏物語』の執筆を開始して、1008年までに全54帖書かれています。
その長い内容は、紫式部の想像力と発想力が高かったので、ここまで書けたのかもしれません。
原本は存在しませんが、1008年までの現存が確認されていて、貴族社会の中で絶賛され、ブームになるほどの作品でした。
1006年に藤原道長の指示で宮中に入り、1012年まで娘の彰子の家庭教師として付いてました。
宮中に入った頃には、藤式部(とうのしきぶ/ふじしきぶ)と呼ばれていました。
『紫式部日記』もその頃に書かれていて、当時の貴族文化のあり方を鮮明に書き記していました。
その中身は事細かに書かれており、当時の状況が想像できるほどの精密さでした。
『紫式部日記』も鎌倉時代に絵巻物が作られて、当時の状況が分かりやすくなり、読み解きやすくなりました。
兄妹では藤原惟規が存在しており、惟規も父と同じ越後に赴任していましたが、1011年に亡くなっています。
天皇が花山天皇になると父親が式部大丞まで出世したので、紫式部の位も高かったと思われます。
藤原道長の強い信頼、配慮が強く、親子とともに重要な地位に重用されています。
理由としては、藤原道長と藤原為時が遠い親類の縁にあったからだと推測されます。
1014年頃に、紫式部その生涯を閉じたと考えられます。
京都市北区に墓が残されており、この場所には天皇の離宮があります。
紫式部は晩年そこに住んでいたと言われています。
まとめ
紫式部の生涯は謎に包まれております。
生没年が不明ですが、文学に詳しい秀才でした。
日本初の長編小説である『源氏物語』を書いたことが有名で、その名前は世界中に知られています。
しかしそれだけではなく、政治の作法にも詳しく、家庭教師を務めあげることが出来る程の才覚がありましたので、大変有能な人物であったことが分かります。
彼女は趣味で『源氏物語』を長編で書き、貴族たちに好まれて読まれていたことから、作品の質が当時としては非常に高かったことでしょう。
藤原道長の要請で、彰子の宮廷の様子を描いた『紫式部日記』を記すのを任されたことから、道長の紫式部に対する評価は非常に高かったことになります。
また、和歌にも精通していて、生涯で795首以上を詠んでいます。
その作品は百人一首などの各時代の優れた歌人の仲間入りをしていたことから、高い実力を有していたことが分かります。
当時の有名な歌人の清少納言と現在も大きく比べられますが、道長の出世ぶりからして、清少納言とも大きく引けを取らず政治面でも高い実力をもっていたことが分かります。
紫式部は日本が誇る世界最古の女流作家として有名なので、その思いに馳せてみたらいかがでしょう。
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