旧幕府軍と新政府軍との戦闘地だった函館の「五稜郭」とは?

旧幕府軍と新政府軍との戦闘地だった函館の「五稜郭」とは?

北海道函館に位置する五稜郭
アイヌを主題とした某漫画の影響で、五稜郭に興味を持った人もいるのではないでしょうか。
実は筆者もその一人です。

ここはひとつ、その五稜郭の魅力に迫ってみませんか?

城主

北海道の函館にある五稜郭:その独特な星型の形は有名です。

このお城の城主は誰だったろうかと思われる方もいるかもしれません。
しかし、城主はいないのです。

お城ということは城主がいただろうと思う方もいると思いますが、お城の条件として、君主や領主が住むということは必須ではないのです。
奉行所という地方政治の中心が置いてあり、西洋式建築であるという正式なお城なのです。

歴史

五稜郭にまつわる歴史を詳しくみてみましょう。

五稜郭ができる

徳川家が日本を治めて200年以上の長い『鎖国政策』が続いていましたが、1853年神奈川県浦賀沖にアメリカからきたペリーの来航が原因で、鎖国政策の終わりを迎えます。
日本の船とは比べ物にならない巨大な蒸気艦隊の迫力に負けた日本はアメリカからの開国要求に負け、1854年に『日米和親条約』を結びます。
そして同じ年に函館もアメリカに続き、イギリスとロシアとも和親条約を結びました。
その時、函館は『開港場』となりました。

五稜郭にまつわる大手門開港を前に徳川幕府は、函館に当時は『函館奉行(当時は箱館奉行という)』を設置します。
その時役所や役宅の市街地が密集しており、寒さも厳しい環境でした。
他にも様々な問題があり、役所や役宅は内陸に移転されたのでした。

1857年に、五稜郭の建築が開始します。
当時のヨーロッパでの主流だった『城郭都市』がモデルとなります。
1864年には函館山の山麓市街地にあった旧役所が移転、『函館お役所』となります。
これが現在の『五稜郭』と呼ばれる場所です。
当時は『柳野城』という別の名前もありました。

旧幕府脱走軍の五稜郭の占領

これまで鎖国をしていたことにより権威を得ていた徳川幕府も、開国をめぐる国内の対立で力を落としていきます。
幕府に対立していた西南諸藩の勢いも抑えられずに、薩摩・長州藩から幕府を討ち取る密勅が出されてしまいます。
1867年当時の将軍『徳川慶喜』は政権を朝廷に戻し(大政奉還)、徳川幕府は幕を下ろしました。
同時に役所としての務めを果たしていた五稜郭も、役目を終えてしまったのです。

函館戦争

1868年の8月、品川沖を逃げた榎本武揚が率いていた「旧幕府脱走軍艦隊」が同じ年の10月20日に蝦夷地の現茅部郡森町に到着します。
そして、戊辰戦争の最後となった『函館戦争』が開戦します。

蝦夷地に上陸した旧幕府脱走軍隊は数手に分かれ、五稜郭を目指します。
10月26日に五稜郭を占領。松前や江差方面も続きます。
12月15日、榎本武揚をリーダーとした蝦夷地仮政権ができます。

しかし、1869年に新生幕府軍の反撃が開始されることにより、形勢は不利になってきます。
同年5月11日には、明治新政府軍が函館に総攻撃を行うことになります。
その結果、旧幕府脱走軍の最後の砦の『弁天岬台場』がほぼ壊滅、その救助に向かった新選組で有名な土方歳三が異国橋付近で銃に撃たれ、戦死します。

五稜郭公園の中にある大砲跡地函館の港内での軍艦同士の戦いも、旧幕府脱走軍が一時有利ではありました。
しかし、激しい新政府軍の攻撃により、函館港内は新政府軍が制圧することとなったのです。
急造した四稜郭も半日ほどで敗れ去り、旧幕府脱走軍は五稜郭へ退却します。

その時五稜郭からは函館港、七重浜方面に砲撃して旧幕府脱走軍を応援したのですが、その砲撃はほとんど届かず、旧幕府脱走軍の敗北は決定的なものとなりました。

5月12日には、新政府軍の軍艦などの港内艦船から砲撃が開始されます。五稜郭からの砲撃は届かなかったのに、新政府軍からの砲撃の威力は的確に五稜郭に命中していました。
結果、多くの死傷者が出ました。

5月15日に弁天岬台場が降伏します。
翌5月16日に千代ケ岡の陣屋で島三郎助父子らが最後の戦いをしますが、ほぼ壊滅しました。
よって、この日をもって旧幕府脱走軍の敗北が決定しました。

5月18日は榎本武揚らが降伏し、7か月かかった戦争は終結し、五稜郭は新政府軍に明け渡されます。

終戦後の五稜郭

函館戦争が終わった後は、五稜郭は再び明治政府のものになりました。
それ以来、五稜郭が再び歴史の舞台に立つことはありませんでした。

1871年には五稜郭内部のお役所は解体されました。
広場となったところには、明治の陸軍の訓練場として使われました。

五稜郭の水堀では、冬の間に氷結を作る事業が軌道に乗っていました。
冬期に採った氷670tを本州の各地へ送り出し、その時主流だったアメリカの輸入氷を市場から撤退させるほど大きな産業となったのです。

それから五稜郭は、函館市民の願いを受けて、1914年に公園として一般に公開されるようになりました。
5000株の桜の苗木が植えられ、北海道の有数の桜の名所となり、現在に至っています。

観光地になった五稜郭公園の桜公園として親しまれているだけでなく、同時に幕末から明治維新にかけて日本の歴史の重要な建物として、1922年に「国指定史跡」となります。
さらに1952年には「北海道唯一の特別史跡」となります。

国宝級的な文化財とされ、保存整備が行われ、いたるところの修理も行われました。

建築(築城した人物)

1864年に徳川幕府の命令を受けた蘭学者であった、武田斐三郎(たけだあやさぶろう)が五稜郭を建築しました。
国内で初めてとなる西洋式城郭であった五稜郭は、函館山から約6kmほど離れた函館市の中央:まるで浅いすり鉢の底であるかのように低くなっている場所に存在しています。

独特な形の星形の五稜郭は、防御型で死角が少ないといった利点があり、ヨーロッパを中心に普及していました。

ペリー来航によって幕府は開国をするとき、防御面を強化するために五稜郭建築を始めたのですが、建築の途中で財政難という問題が発生します。
よって、計画を変更することにしました。

計画には、備前御影石という岩を使う予定もありました。
しかし変更後は、函館山から切り出した岩を使うことにしました。

エピソード(関連する出来事)

7か月に渡った函館戦争の中で、新政府軍は旧幕府脱走軍に「血も涙もなかったのか」というとそうではなかったそうです。

新政府軍が函館へ総攻撃をした後に、新政府軍は旧幕府脱走軍に降伏勧告の使者を送っています。

しかし、旧幕府脱走軍のリーダー榎本武揚はそれを拒否します。
その時榎本武揚は、オランダでに留学していた時から大切にしていた『海律全書』というオランダ語の本を、新政府軍に送りました。
それは、とても大切な本が戦いの中で失われるのを避ける行動でした。

ぶ厚そうな1冊の青い本新政府軍はこれに対して『これをいつかは翻訳して世の中に出そう』と約束します。
そして、書状と酒と肴を榎本武揚に送ります。

この時、もうすでに榎本武揚は自分の死を覚悟していたのかと思います。
そうでなければ、彼は自分の大切な本を持っていれば良く、新政府軍に渡さなくてもよかったはずです。

新政府軍も勝利を確信していて、榎本武揚を処刑することを予期していたのです。
そうでなければ『これを自分たちが責任をもって世の中に出す』といった約束はできなかったはずです。

榎本武揚は戦いが終わった後、福沢諭吉を始めとした多くの人々の助命活動により、処刑を免れ、明治政府に仕えています。
『海律全書』は榎本武揚の手に戻り、彼の亡き後には、その孫により宮内省に献上されています。
そして、今は宮内庁に保管されています。

函館が開港された当時は沢山の数の『ネコヤナギ』が生えていました。
そのため先程も述べましたが、五稜郭は『柳野城』とも呼ばれるように、いたるところが水はけの悪い湿地でした。

アクセス

五稜郭に興味を持っていただけたでしょうか?
足を運んでみたいと思う方のためにも、アクセスの方法もお伝えします。

JR函館駅より

赤いオブジェがあるJR函館駅

  • 函館市電:函館駅前から五稜郭公園前下車で徒歩約10分
  • 函館バス:函館駅前から五稜郭下車で徒歩約10分
  • 函館バス:函館駅前から五稜郭公園入口下車で徒歩約5分
  • 函館バス:五稜郭タワー・トラピスチヌシャトルバス五稜郭タワー前下車で徒歩約1分

JR五稜郭駅より

星型が特徴のJR五稜郭駅

  • 函館帝産バス:新函館北斗駅から五稜郭公園入口下車で徒歩約5分
  • 北海道観光バス:新函館北斗駅から五稜郭公園前入口下車で徒歩約10分
  • 函館バス:新函館北斗駅から五稜郭公園入口下車で徒歩約10分

函館空港より

函館空港と青空

  • 函館バス 空港循環バス 7系統 とびっこ:五稜郭公園入口下車で徒歩約5分
  • 函館バス 5系統 五稜郭タワー・トラピスチヌシャトルバス:五稜郭タワー前下車で徒歩約1分

フェリーターミナルより

三角形が特徴の函館フェリーターミナル函館バス 16・16A系統:五稜郭下車で徒歩約10分

自家用車では

函館の4車線道路五稜郭タワーには自家用車の駐車場がないため

  • 函館市芸術ホール・北洋資料館・道立函館美術館 駐車場(有料)
  • 函館市中央図書館向い 函館市五稜郭観光駐車場(有料)

といった有料の駐車場をお使いください。

まとめ

五稜郭について述べさせていただきましたが、いかがだったでしょうか?
少しでも興味を持っていただき、足を運ぶきっかけになれば筆者は幸いです。

 

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