自然主義文学の先駆者である「国木田独歩」の生涯とは

自然主義文学の先駆者である「国木田独歩」の生涯とは

明治時代の文学者・国木田独歩
その斬新で幅広い表現は、現代にも魅力を放ちます。
本記事は、国木田独歩について詳しく紹介していきます。

概説

国木田独歩(くにきだ どっぽ)は日本の文学界に名を刻んだ重要な文学者の一人で、明治時代に活躍しました。
彼の独特で斬新な文学スタイルは、当時の文学に新風を巻き起こしました。

国木田独歩は日本の小説家、詩人です。
下総銚子(今の千葉県)で生まれました。

本名は国木田哲夫といいます。

独歩の父・専八は司法官(裁判官)だったので、1876年(明治9年)に山口裁判所に勤務することになり、一家は山口町(現、山口市)に移り住みました。
独歩は山口中学校(今の山口県立山口高等学校)に入学するも、学制改革のために中退してしまいました。
そして、父親の反対を押し切って、1888年に東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学します。

しかし、こちらも1891年(明治24年)に中退してしまいます。
その大学中にいくつかの雑誌に文章を寄稿したり、キリスト教の影響を受けたりしていました。

白い十字架とマリア&キリスト像

大学を中退するも、1894年に国民新聞社に入り、記者となります。
記者として日清戦争に従軍し、「愛弟通信」をルポルタージュとして発表しました。

帰国後は結婚するも、半年で破綻します。この頃に民友社系の「国民新聞」や「国民之友」に浪漫的な詩を発表しました。
1897年には、処女小説である『源叔父』も発表しました。
そして、翌年には『今の武蔵野』や『忘れえぬ人々』『鹿狩』といった浪漫的な作品を発表していきました。(これらの作品を収めたのが『武蔵野』)

それ以降、代表作の『牛肉と馬鈴薯』をはじめとする、『春の鳥』をはじめとする9編を『独歩集』や、『巡査』『空知川の岸辺』などの9編を収めた『運命』などを刊行しました。
これらの出版により文壇的地位を築きました。
当時は、時代に早過ぎた作品と見なされていましたが、のちに、自然主義の作品として高く評価されました。

5つ星を表している金の星たちしかし、その間、本業である新聞記者の方は、いくつかの会社を入社したり、退社したりを繰り返しました。

1902年末にのちの近事画報社となる「敬業社」に入社し、自身の会社も興しますが、経営悪化のため1907年には破産しました。

さらに、過労のため健康状態も悪くなり、結核で倒れました。
病床の時期でも、『窮死』や『竹の木戸』といった作品を出すも、1908年(明治41年)に茅ケ崎の病院で死去しました。
36歳の若さでした。

彼の死後も『欺かざるの記』という日記や他の作品が公刊され、自然主義の先駆者として揺るぎない名声を集めました。

人物像・逸話

次は、彼の人物像や興味深い逸話に迫ってみましょう。

独歩の出生の秘密

国木田独歩の両親は父・専八、母・まんです。
ですが、独歩本人の戸籍は捏造されていました。

というのは、独歩は父・専八が浮気してできた子供でした。

大きく表現されている赤い「!!」
当時、父・専八は瀧野藩士だったため、戊辰戦争に出征していました。
国元には妻子がいました。

ところが、戦争後に専八が銚子沖で遭難し、助け出された後に千葉の旅館で療養していました。
そこで働いていたのが、母・まんで、独歩が生まれたのです。

しかし、戸籍には、独歩は母・まんの前夫の子となっていたのでした。
これは父・専八が司法官(裁判官)で法律に強かったので、国元の妻と穏便に別れられるように独歩の戸籍を捏造したからといわれています。

国木田独歩の少年時代

国木田独歩は、少年の頃も学校の成績は優秀で読書好きでした。
ですが、その反面、相当な悪戯っ子でもありました。
当時爪を伸ばして人を引っかいてばかりだったので、「ガリ亀」といったあだ名をつけられていました。(彼の幼名が亀吉だったため)

それでも、頭の回転が速く、弁が立ち、場を仕切って盛り上げるような性格だったそうです。

『国木田独歩』という名前

国木田独歩はペンネームで、本名は国木田哲夫です。
なぜこのようなペンネームにしたのは、彼の人生に関係があります。
広い敷地の道を独りで旅立つ様子この「独りで歩む」と書く漢字で、彼が名乗るようになったのは1897年頃で、彼が処女作である『源叔父』を執筆したときでした。

この頃独歩は、大恋愛の末に結婚した信子という妻と離婚し、精神的痛手を負っていました。
そんな境遇のなか「孤独のなかを独りで歩いていこう」と、再出発の決意の意味を込めて、この名前が付けられたそうです。

ちなみに、信子との結婚はわずか半年で破局しています。
理由は独歩との貧乏生活に耐えられなかったといわれています。

国木田独歩の人生の大半は貧乏生活でした。

独歩のきれい好きと美学

独歩の人生の大半は生活苦でしたが、それでも石鹸は東京から取り寄せるほどきれい好きだったといわれています。
友人の髪が乱れていれば、ときどき井戸端へ引っ張っていって洗ってあげていました。
また、独歩は香水も常につけていて、死の床でさえも上等の香水を大切に使っていたといわれています。

食べ物や嗜好品などに関しても、「どこそこのではないと~」とこだわっていたそうです。

活躍した時代

彼の活動が重なった時代は、日本が大きな変革を遂げた時期でした。

国木田独歩が生きていた時期は1871年~1908年でした。

彼が生まれた1871年は、日本が江戸時代から続いた鎖国政策を終え、明治時代へと突入した時期でした。
明治維新が起き、廃藩置県や郵便制度が始まりました。

明治維新と日本の国旗を掲げた、たくさんの人形この年は西洋の文明を取り入れるために、伊藤博文や大久保利通らを伴った岩倉使節団が欧米に渡りました。

国木田独歩が生きた時代は明治時代の大半を占めます。
明治政府が発足しても混乱はたくさんありました。
先ほどの岩倉使節団が外遊している間に、留守を任されていたのは西郷隆盛や大隈重信、板垣退助らでした。
彼らは大久保利通から大規模な政治改革を行わないようにと釘を刺されていたにも関わらず、次々と改革(学制の公布、徴兵令の発令、太陽暦の採用、司法制度の整備など)を推進していきました。

けれども、岩倉使節団が帰国後、彼らと対立し、西郷や板垣らは政府を去ります。
後に、板垣は「愛国公党」を設立し、国会開設を要求しました。
いわゆる自由民権運動の始まりです。

一方、西郷は大久保利通が公布した「廃刀令」に反発を抱いた鹿児島士族に担がれ、武力蜂起を行いました。
これが1877年西南戦争の始まりです。
西南戦争は8か月続き、西郷隆盛が自刃するという結末で終わりました。

暗闇に光る横にした剣の刃先

西郷と対立していた大久保利通も翌年、「紀尾井坂の変(きおいざかのへん)」にて暗殺されてしまいましたので、政治の実権は伊藤博文が握りました。

そんな中で、次第に各地で武力ではなく、言論での活動が開始されました。
当時の政府には、国民の意見が反映されていなく、その仕組み自体もなかったため、国会の開設と憲法の制定を要望しました。

この運動の中心人物が、さきほど紹介した「板垣退助」です。
彼は1878年に日本で最初の政治結社である「愛国社」を興しました。
この愛国社の働きによって、全国の国会開設論者が束になり、自由民権運動が始まったのです。

右手を上げている板垣退助の銅像実は、明治政府側の大隈重信や伊藤博文も国会の早期開設を望んでいました。
彼らは大久保利通亡き後、井上馨と3人は熱海で国会開設について合意する会議を行いました。
国会開設は順調には進まなかったものの、1889年に大日本帝国憲法が公布され、翌1890年に第1回衆議院議員選挙が行われました。

当時の国会は、国民の中から選挙によって議員が選ばれる衆議院と、皇族や華族が任命した議員から成る貴族院の二院制で成り立っていました。
しかし、この投票ができたのは国民の中でもわずかでした。

明治時代に日本は二度の戦争にも参加しました。
日清戦争と日露戦争です。
これら異国との戦争に勝利したため、日本は朝鮮や満州といった他国を植民地化し、帝国主義の道へと進んでいきました。

年譜

では、今度は国木田独歩がどんな人生を送ったのか、詳しくみてみましょう。

国木田独歩は千葉県銚子で生まれましたが、幼少期を広島県や山口県で過ごしました。
記事の前半でもお伝えしたように、彼の生い立ちは複雑でした。

山口中学校(今の山口県立山口高等学校)に入学するも、学制改革のために中退しました。
そして、父親の反対を押し切って、1888年に東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学します。
けれども、その学生生活は学生運動に参加したり、キリスト教に傾倒したりと、真っ当なものではなく、退学となりました。
「中退」を表す教師と学生の模型この頃処女作である「アンビシヨン(野望論)」を『女学雑誌』に発表していました。

独歩は一度山口県に帰郷するも、複数回上京します。
1894年に民友社に入り、徳富蘇峰の『国民新聞』の記者となり、日清戦争の従軍記者として活躍しました。

帰国後、独歩は最初の妻になる「佐々城信子」と出逢います。
彼女は日本キリスト教婦人矯風会の幹事:佐々城豊寿の娘でした。
2人は熱烈な恋に落ちましたが、彼女の両親はひどく反対していました。
しかし、独歩は信子を勘当させることに成功し、1895年11月に結婚へと至りました。

2人は逗子にて結婚生活を始めますが、それも長くは続きませんでした。
結婚して5ヶ月後に信子が失踪してしまうのです。
理由は貧しい生活に耐えられなかったといわれています。
2人は翌年に協議離婚をしたので結婚生活が終わったということで、独歩は半狂乱になるほど打撃を受けていました。

はさみで「縁」の紙を切っているモノクロの画像そんな中で生み出した作品が、1897年の「独歩吟客」です。『国民之友』に発表されました。
5月には『源叔父』という小説も書いています。

そうした精神的打撃を受けていた独歩でしたが、1898年に二度目の結婚をします。
相手は下宿していた大家の娘の「榎本治(はる)」でした。

この頃発表されたのが、今も名作といわれている『武蔵野』や『忘れえぬ人々』です。

1899年、生活のために新聞記者として働いていた独歩は、月刊誌の『東洋画報』の編集長に抜擢されます。
その後『東洋画報』は『近事画報』と名を変更されました。

1903年には『運命論者』や『馬上の友』などを発表し、自然主義(自然風景や人間の内面をより写実的に書くこと)を先駆しましたが、当時の文壇では評価されませんでした。

翌年の1904年には日露戦争が勃発します。
この頃編集社では上記の画報を『戦時画報』と誌名を変更し、独歩は有能な編集者ぶりを発揮しました。
戦況をいち早く知らせるために、リアルな写真を掲載したり、紙面を大判化したりするなどの工夫を凝らしたからです。
最盛期には、その誌面は月間10万部も超えていました。

たくさん積み上げられている雑誌たちこの頃が独歩がノリに乗っていたときでしょう。
1906年にはなんと、12種類もの雑誌を刊行していたそうです。

しかし、日露戦争が終わるとこの勢いは衰えていきます。
会社は赤字に陥り、解散へと進みました。

そこで、独歩は独立を決意します。
自ら「独歩社」を創立し、前社を引き継いで『近事画報』など5誌の発行を続けました。
しかし、時代の流れに逆らえず、翌年の1907年には破産してしまいました。

経営者としては失敗しましたが、一方、作家としては変化が訪れます。
なんと前年(1906年)に刊行した『運命』という作品集が高く評価されたのです。
この頃が自然主義文学の最盛期だったといわれています。

ですが、独歩本人はこの頃肺結核に罹ってしまいます。

緑の自然の背景に置かれている小さなベッド模型彼は神奈川県茅ケ崎の療養所で過ごしながら、作品を発表していました。
それが『竹の木戸』『窮死』『節操』などです。
こうした作品も高い評価を得ましたが、独歩の病状はひどくなるばかりでした。

その頃、文学仲間だった田山花袋や二葉亭四迷などが見舞いに訪れていましたが、その甲斐もなく1908年に36歳の若さでこの世を去りました。

彼の葬儀には、多数の文壇関係者が出席しました。

まとめ

国木田独歩(くにきだ どっぽ)は、日本の文学界で名を馳せた重要な文学者の一人です。
彼は明治時代に活躍し、その独自で斬新な文学スタイルで時代の潮流に大きな影響を与えました。

彼は遅咲きで36歳の若さでこの世を去ってしまいますが、その後も彼の文学的な遺産は多くの文学者に影響を与えました。

皆さんも国木田独歩の作品を読んでみませんか。

 

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