琉球文化がたくさん詰まった「首里城」、その歴史は激動的だった!

琉球文化がたくさん詰まった「首里城」、その歴史は激動的だった!

沖縄にある色鮮やかな首里城は皆さんご存じだと思います。
2019年に火災があり、燃えてしまったのは大きなニュースとなりました。
2026年に正殿の復元完成を目指しています。
今回は首里城について迫っていきます。

城主

首里城の城主は長く続いています。

歴代城主

第一尚氏となる尚巴志-尚忠-尚志達-(省略)から始まり、第二尚氏となる尚円-尚宣威-尚真-(省略)-尚育-尚泰

と続きます。

そして、現在は球国王・尚泰(しょう たい)の玄孫で、尚本家23代当主の尚衞(しょう まもる)氏が2020年10月31日の段階で歴史に連なっています。

歴史

空から見た那覇市の町並み首里城は、沖縄県那覇市に位置する歴史的な建造物であり、琉球王国の王宮として機能していました。
その歴史は古く、琉球の王朝の栄華と衰退、日本との交流、そして近代の復元まで様々な出来事に彩られています。

尚巴志王の時代

1422年、琉球王国の初代国王として知られる尚巴志王(しょう はしおう)が即位し、首里城を築城しました。
尚巴志王は強力な統治者であり、首里城は彼の統治の中心となりました。
城内には彼の居城としての機能だけでなく、琉球文化の発展に寄与する多くの施設が建設されました。

琉球王国の栄華

琉球王国は首里城を拠点に栄え、15世紀から17世紀にかけてはアジアとの交易の中継地として繁栄しました。
マラッカ (マレーシア)、 シャム(タイ)、ルソン (フィリピン)、ジャワ(イ ンドネシア)などから象牙や香辛料、染料を仕入れ、明(中国) と朝貢貿易を行っていました。

日本国とそれ以外のアジア圏の国旗

日本との交流

17世紀末、琉球王国は徳川幕府との間で安土桃山時代以来の朱印船貿易を行い、日本との交流が始まりました。首里城はその中心地として外交使節を迎え入れ、交易の拠点としての役割を果たしました。
この時期の文化の交流は、琉球文化に日本の影響を与える一因となりました。

円覚寺焼失と再建

琉球王国の中でも随一の寺院で円覚寺は、火災により焼失しました。

メラメラと燃え上がる炎この出来事は琉球の文化に大きな打撃を与えましたが、それでも首里城は復興の道を歩み続けました。
復興作業は時間をかけ、手を加えられながらも、再び城がその姿を取り戻すこととなりました。

日本統治時代

1879年、琉球王国は日本に併合され、首里城も日本の管理下に入りました。
日本統治時代には、首里城は琉球総督府の庁舎として使用され、一部は改築や改修が行われました。
しかし、その歴史的な価値は継続的に認識され、保存活動も進められました。

空襲と焼失

第二次世界大戦末期、1945年、首里城は激しい空襲の影響を受け、焼失しました。
この時の火災で多くの文化財が失われ、首里城は戦禍の犠牲となりました。
その後、戦後の混乱期を経て、首里城はその存在感を失いました。

モノクロで写る敗戦後の沖縄の海底

世界遺産登録

戦後、首里城の復元が求められ、1960年代から復元事業が進められました。
建物や庭園、文化財の再建が進む中、2000年12月、首里城は世界遺産に登録されます。

世界遺産検定について

現代の首里城

1992年以降、首里城は観光地としても一般に開放され、多くの観光客が訪れています。
歴史の中で何度も焼失し、再建された首里城は、琉球の歴史や文化、復元の歩みを伝える貴重な場所となっています。

また、歴史的背景や文化的意義を考慮し、訪れる人々に琉球王国時代の面影を感じさせるような展示イベントも行われています。

まとめると

首里城の歴史は、琉球王国の栄華、日本との交流、戦禍、そしてその後の復元といった激動の出来事が織り交ぜられています。
現在、首里城はその歴史的な価値を守り、訪れる人々に琉球の歴史と文化を伝える役割を果たしています。

建築(築城した人物)

首里城は、沖縄本島の中央に位置する那覇市にある歴史的な城です。
その建設に携わった主要な人物は、琉球王国の尚巴志王(しょう はしおう)でした。
尚巴志王の統治時代である15世紀末から16世紀初頭にかけて、首里城はその建設が始まり、琉球文化や歴史の中で重要な存在となりました。

琉球王国・尚巴志王のモニュメント
尚巴志王は、尚巴志(しょうはし)としても知られ、1416年から1469年まで琉球王国を統治しました。
彼は琉球王国の統一を成し遂げ、首里城の建設においてもその決断力とリーダーシップを発揮しました。

首里城の建設は、当時の琉球王国が外部の侵略に備えるための要塞として計画されました。
尚巴志王は、中国明朝との外交関係を構築し、琉球の安全を確保するために首里城を築く必要性を認識しました。
彼は優れた戦略家として知られ、建設計画を着実に進め、首里城を琉球王国の政治・文化の中心地とすることを決断しました。

首里城の建設は、木造や石材を用いた伝統的な琉球建築の技術が結集され、独自の様式である「琉球式建築」が展開されたことでも注目されます。
尚巴志王は、琉球の文化や歴史を反映させながら、同時に中国の文化とも調和させる独自性を持つ建築様式を追求しました。

首里城の建築様式となっている柱や門彼の統治下で築かれた首里城は、琉球文化の発展と繁栄を象徴する存在となり、琉球王国の中心地としての役割を果たしました。
その後も首里城は幾度かの修復や拡張が行われ、琉球王国の歴史とともに歩んできました。

尚巴志王の先見の明リーダーシップによって築かれた首里城は、今日でもその壮大な姿と歴史的な価値によって多くの人々に称賛されています。
琉球王国の栄光を今に伝える首里城は、尚巴志王が築いた堅固な基盤の上に成り立っています。

エピソードや関連する出来事

1853年に浦賀に来港したペリーは、徳川幕府の鎖国という歴史に幕を下ろしました。
実は日本の浦賀を来航する前に琉球へ訪れ、さらに首里城を訪れています。
来航したペリーは首里城訪問を、今後の交渉を今後有利に行うため強く求めました。
王府は偽の機関を設けますが、強行的なペリーに負けてしまい首里城訪問を許してしまいます。

…となるはずが、実はここに小話があります。
それは偽の機関を設けることで首里城の最も重要な場所である正殿、琉球王国の中枢部を守り抜いたということです。

ほかにも豆知識があります。

琉球赤瓦の美学

首里城の特徴ともいえる赤い屋根瓦首里城の建物は、伝統的な琉球赤瓦で覆われています。
これは琉球特有の赤い屋根瓦で、美しい色調と風格を持っています。
この赤瓦は、琉球文化や歴史に根ざした建築様式の一部として愛されています。

石垣の技術

首里城周辺には、見事な石垣が築かれています。
琉球独自の石垣は、その精巧な技術と堅牢な構造で知られています。
これは、尚巴志王時代に始まる琉球独自の建築技術の一環として、首里城周辺に広く見られます。

正殿の特徴

首里城の正殿首里城の正殿は、日本や中国の正殿には見られない木造の二層三階建てで首里城独特の形式です。
中には王座があり「御差床(うさすか)」と呼ばれています。

戦国時代の影響

首里城の建設は、15世紀末から16世紀初頭にかけて行われました。
この時期は日本本土では戦国時代にあたりますが琉球では比較的安定した時期であり、文化や芸術が栄えた時期でもあります。

アクセス

では、魅力が詰まった首里城へのアクセスもご紹介します。

車、レンタカーの場合

那覇空港から国道331号線へ出て、那覇市内中心部へ
国道58号線に入り、泊交差点を右折
県道29号線を直進して首里方面へ

那覇空港自動車道「豊見城・名嘉地IC」を使う場合は 、「南風原北IC」を降りて一般道路(国道329号線)を使います。

ゆいレール(モノレール)の場合

沖縄県のゆいレール那覇空港駅から「ゆいレール」に乗車。
首里駅にて下車。 徒歩約15分で守礼門に到着。

首里駅からは首里駅前バス停より、路線バスも出ています。
首里城前バス停にて下車。徒歩1分で守礼門に到着。

空港からの運賃
  • 大人 340円
  • 小児 170円

路線バスの場合

  • 首里駅前バス停で市内線(1、14)番、市外線(346)番に乗車し、首里城公園入口バス停にて下車。徒歩約5分で守礼門に到着
  • 首里城下町線(7、8)番に乗車し、首里城前バス停にて下車。徒歩1分で守礼門前に到着
  • 市内線(9、13)番、市外線(25、97、125)番に乗車し、山川バス停にて下車。徒歩約15分で守礼門に到着

タクシーの場合

何台か停まっているワゴンタイプの黒いタクシー

  • 那覇空港から 約10km 約40分~60分
  • 那覇市内(国際通り 那覇市ぶんかテンブス館) 約4km 約15分~25分
  • 識名園から 約3km 約10分~20分

まとめ

いかがだったでしょうか。
歴史ある城である首里城に興味がわき、行きたくなったのではないですか?

もしこの記事を読んで、足を運びたいと思っていただければ幸いです。

 

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