謎に満ちた平安の女流随筆家・清少納言の人生と『枕草子』

謎に満ちた平安の女流随筆家・清少納言の人生と『枕草子』

華やかな時代を生き抜いた清少納言。
「春は、あけぼの—」で始まる随筆『枕草子』は平安文学の代表作の一つで、ご存知の方も多いかと思います。
平安時代を代表する歌人・作家・女房であった清少納言について、数々のエピソードを元に調べてみましょう。

概説

生没年不詳。
平安中期の女流随筆家・歌人です。
歌人清原元輔 の娘。紫式部と並び称せられた才女で、一条天皇の中宮定子に仕えました。
著書に『枕草子』などがあります。

人物像・逸話

清少納言は、康保3年頃(966年頃)父は歌人であった清原元輔の元に産れました。
母親は、不明となっています。
清少納言は、981年ごろ、橘則光と結婚し、翌年に則長を産みました。
993年に離婚し、一条天皇の中宮 (皇后ではない、天皇のきさき)定子に仕えることとなります。

緑を基調とした十二単女房としての主な仕事は、ご主人である上流貴族の女性のお世話はもちろん、話し相手や、家庭教師もしたりする事でした。
高い教養が求められ、その時代では超エリート職だったのです。

父親であり、歌人でもあった清原元輔は漢(当時の中国)について、造詣が高いこともあり、幼い頃から清少納言自身も和漢の教養を受けていました。
特に漢詩については、誰にも負けないレベルまで達していたと言われています。

清少納言は、仕えていた定子との仲も非常に良かったそうです。

何故、枕草子というのか?

それにつきましては諸説ありますが、とある日に仕えていた定子が、内大臣からもらった上質な紙に「何を書こうかしら?」と清少納言に相談をしました。
「一条天皇は史記を書き写してるようだけれど……」と定子は言います。
それに対して清少納言が、「それなら枕(書物のこと)でございましょう」と答えたのです。

開いている1冊の古い書物その当時は大変貴重だった紙を作って出来た冊子を、その答えを聞いた定子が、大変気に入り、清少納言に与えたとされています。
それをきっかけに、随筆活動を始めるきっかけになったと説があります。

「香炉峰の雪」のエピソード

定子が清少納言に問うた和歌をご紹介します。
『枕草子』 第299段の「香炉峰の雪」のエピソードは、白居易の『白氏文集』の詩をもとにしたエピソードです。

「香炉峰の雪」
「雪のいと高う降りたるを例ならず御格子まゐりて、炭櫃に火おこして、物語などして集まりさぶらう」に、
「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ。」
と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせたまふ。

【意訳】:雪が高く降り積もっている日のこと、お仕えする中宮・藤原定子様(のちの一条天皇の皇后)が、たくさんの侍女がいる中で私を指名して、
「清少納言よ、香炉峰の雪はどうでしょう?」と問いかけなさる。
私が簾(すだれ)を高く上げると、定子様は満足気に微笑みなさる。

上は大体の意訳ですが、この話はしばしば清少納言の教養と機転を表す話として紹介されます。
というのも、中宮・藤原定子が清少納言に問いかけたこのなぞなぞは、中国の詩人・白居易の「香炉峰下新卜山居」の詩を知らないと解けないからです。

二人の間に共通の教養があって、しかもそれが異国の有名な詩人の一節って凄いですね!
さらに行動に移して、正解するという清少納言の機転は流石です。

聡明で理知的なエピソード

また、『枕草子』では、自身の聡明かつ理知的な部分・繊細さ思いやりを見せる場面が、何ヶ所も見受けられます。

まずは、聡明で理知的なエピソードをご紹介したいと思います。
「中納言参り給ひて」の段です。

「中納言参り給ひて」の段
定子の弟である中納言・隆家(たかいえ)が、「誰も見たことのない立派な骨だ」と扇(おうぎ)の骨を自慢します。
すると清少納言は、「(誰も見たことのない、つまり骨のない)くじらの骨ですね」とジョークで切り返し、隆家や定子を大笑いさせたとあります。

現在でも十分通じるジョークですね。

繊細で思いやりのあるエピソード

これまでは、教養面のエピソードを見てきましたが、今度は繊細で思いやりのあるエピソードにも目を向けていきましょう。

清少納言は初めての宮仕えのときは、緊張で泣きそうになり、定子の前に出て物かげに隠れました。
コンプレックスのくせ毛も見えそうで気が気でなかったようです。
平安時代は、黒髪の癖の無いストレートヘアが美しいとされていた様なので、このエピソードは、勝ち気な清少納言から見ると意外ですね。

また、得意な分野にも関わらず和歌を詠むのは苦手とも『枕草子』には書かれていますので、実はナイーブな気質だったのかもしれません。

思いやりの部分では、『枕草子』の時代背景が関係してきます。
仕えていた定子が、宮廷でのうしろ盾を失い、不遇におちいった時期とされています。
そんな定子のために清少納言は『枕草子』に明るく楽しい日々を書きつづり、つらい話には極力ふれませんでした。

大好きだった定子へ捧げての一冊だったのかもしれません。
『枕草子』は、清少納言の想いが込められた随筆集なのです。

紫式部との関係

紫の十二単を着た女性の胴体よく同時代を生きた紫式部とはライバル関係だったとされていますが、2人には接点は無いようです。
しかし、年齢や中宮入りの時期を見ても明らかなように、紫式部は『紫式部日記』で痛烈に批判をしています。

「清少納言は、自慢げで偉そうにしている人。
すごく賢いアピールしてるくせに、漢字はよく見ると間違うし。
こんな風に自信家な性格だと絶対見劣りして、ひどい未来が待っていますよ。」

以下、省略いたしますが、清少納言には、特に当たりが強かったようです。

きっとそれは、自分を押し殺して生活してきた紫式部の、思うがままに言いたいことを言ってしまう清少納言に対する憧れがあったのかもしれません。

活躍した時代

清少納言が生き抜いた時代は、平安時代中期です。
生年月日は諸説ありますが、996年(康保3年)頃に産れ、1025年(万寿2年)頃に、没されたとしています。

父親は、歌人で三十六鵜歌仙の一員かつ小倉百人一首にも自身が詠んだ歌が選ばれたという、恵まれた環境で育ちました。
清少納言も幼い頃から、教養のある人の中で才能を開花させていったのです。

981年頃、15歳前後で陸奥守の橘則光と結婚し、翌年には則長を産みます。
しかし、則光は無骨な性格だったようで、教養深い清少納言とそりが合わず、10年程で離婚しています。
それでも、離婚した後も2人は仲が良いので、噂には何度も上がったそうです。

993年の27歳頃に、関白・藤原道隆から娘の定子の女房として出仕を、命じられます。
当時は藤原家が権力を握りつつあった時代です。

平安貴族の足元と様子道隆は定子を一条天皇に嫁がせました。
定子が一条天皇の子を産めば、道隆の権力はさらに高まります。
なので、美しくて教養のある女性になって欲しいという意味も込められて、清少納言が女房役に選ばれたのです。

清少納言が定子に仕えていた頃は、道隆の家系は隆盛を誇っていましたが、995年に死去すると、急速に勢力を失いはじめました。
道隆の弟である藤原道長が朝廷で力を持つようになると、道隆派は朝廷内で没落していきます。
清少納言も「道長と通じている」と噂を流され、中宮を去らざるをえませんでした。

年譜

出来事
996年頃 清少納言誕生
981年 橘則光と結婚。翌年に則長誕生
991年 則光と離婚(その後も宮廷で関わりあり)
993年 藤原道隆の要請で定子の女房となる
995年 道隆死去。翌年に定子の兄弟が左遷、この頃に定子も清少納言も宮廷から退く。
997年 定子の還俗に伴い、出仕を再開
1000年 定子死去に伴い宮廷から退く。後に藤原棟世と結婚し、娘・小馬命婦(こまのみょうぶ)誕生
1008年?頃まで 『枕草子』を執筆する
1025年頃 死去

 

まとめ

桜が咲いた季節の日の出前の風景ここまで、清少納言についてお話してきましたが如何でしょうか。
彼女の代表作でもある『枕草子』は、春はあけぼの…から始まる随筆ですが、これは、現在の美的感覚に近いものと思われます。
目の前に、この景色が思い浮かべられ様です。
いまでは「をかし(趣がある様、特に感動や美に関する表現)」の文学ともたとえられる作品ですね。

これまで、清少納言も生い立ち~中宮での生活~『枕草子』の執筆~紫式部との関係をメインに、色々調べてまいりましたが、如何でしたか。
筆者は、『枕草子』の出来た時代背景に惹かれました。
何故かと問われると、清少納言が仕えていた定子との楽しかった日々や、きらびやかな中宮生活など、辛い思い出にはほとんど触れずに書き上げた作品だからです。
清少納言の教養の高さだけでは無く、人間としての思いやりが伝わってきます。

紫式部はもともと身分の低い貴族出身だったので、同僚からの嫌がらせもあった様なので、身分の高い清少納言に嫉妬したのかも?
そうだとすると、人間味が感じられて面白いですね。

2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』では、通説とは異なる清少納言と紫式部のやり取りがあって興味深い脚本になっています。

この記事を読んで、少しでも古典文化に興味を持って頂けたら幸いです。
今の時代が、遙か彼方へ過ぎてしまったとしても、平安の時代と同じく、来世に生きる人々に影響を与えられる様、祈っています。

 

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