西暦2024年の新紙幣札に選ばれた、渋沢栄一。
一万円といえば、福沢諭吉がおおよそ40年間ほど使用されていたので、久々のモデルチェンジですね。
その功績は、あまりにも凄く「日本資本主義の父」や「実業界の父」と称されています。
渋沢栄一の生涯に触れてみましょう。
概説
「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一は、天保11(1840)年、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の深谷市血洗島)の農家に生まれました。
彼は江戸時代末期から明治期にかけ、日本の近代化に大きく貢献しました。
明治から大正の時代に経済の世界で活躍した渋沢栄一は、およそ500以上の企業の設立や運営に関わったとされたと言われています。
彼は、とても柔軟な考え方と幼き頃に学んだ、「論語」の影響を強く受けたのだと思いました。
(論語については、後ほど触れます)
また、フランス万博や欧州の文化に触れたのも大きいと思います。
ところが、1909年(明治42年)、70歳を迎えた渋沢栄一は、金融業以外の60社もの事業・団体の役職をすべて辞任することになります。
さらに、1916年(大正5年)には、創設から長年携わってきた「第一銀行」:現在の「みずほ銀行」(東京都千代田区)の頭取も辞め、喜寿(きじゅ:77歳)を機に、実業界から引退しました。
これ以降の渋沢栄一は、社会貢献活動に尽力していくこととなります。
そのなかでも、渋沢栄一が特に力を入れていた活動が、東京の「養育院」(よういくいん):現在の「東京都健康長寿医療センター」(東京都板橋区)の運営でした。
養育院は、1872年(明治5年)に、東京の生活困窮者などを支援するために設立された施設です。
渋沢栄一は、まだ大蔵官僚だった1874年(明治7年)から、養育院の運営していました。
そして、事業で得た財産を、養育院を通して、病人や孤児などの弱者を救済することに活用しています。
それ以降も、亡くなるまで尽力を尽くしました。
人物像・逸話
天保11年(1840年)武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の深谷市血洗島)の農家に生まれました。
大地主であった実家では、家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)からも本格的に「論語」などを学びます。
藍玉とはタデ科植物の藍からつくる染料で、地域は武州藍染の原料供給地でした。
その他にも、質の良い藍玉を買い付けるなど、幅広く仕事をしておりましたので、渋沢栄一自身も幼い頃から家業を手伝っていました。
彼の実家は一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められていきました。
父と共に信州や上州まで製品の藍玉を売り歩くほか、原料の藍葉の仕入れ調達にも携わります。
14歳の時には、単身で買い付けもしていました。
その様な環境において、自然と”ビジネスのいろは”を身につけていったのでした。
渋沢栄一の青年期は、幕臣として欧州諸国を見聞しましたので、その経験が、より一層、官尊民卑打破という考えに向かいました。
そして、合本組織による事業経営という考えに行き着きました。
欧州への視察では、フランス万博や欧州所諸外国への偵察もあり、そこで渋沢栄一は銀行のシステムに興味を持ちます。
滞在を世話した銀行家ポール・フリュリ=エラール(1836-1913)から、資本主義経済の仕組みを学びました。
特に、フリュリ=エラールが軍人と対等に接するのを見て、身分や職業が違っていても平等な関係の社会作りを行うことの重要性を強く感じたのです。
だからこそ、のち官僚となった渋沢栄一は、実際に四民平等や士族の解体を進め、身分解放の実施に動きます。
ここで逸話を、3つご紹介したいと思います。
14歳の頃の話
まず、まだ渋沢栄一が14歳の頃の逸話をご紹介します。
上記にも触れていますが、14歳の時に父の代わりに藍の葉を買いに行った時です。
周りは、未だ幼かった彼を何も知らないだろうと舐めていました。
が、鋭い視点かつ合理的な考えで、周囲の大人達を驚かせたのでした。
その頃から、人間の心を掴む大事さや、反骨精神が身についたと言えますね。
ノーベル平和賞に2回ノミネート
次に、渋沢栄一がノーベル平和賞に2回ノミネートされたエピソードについてをご紹介します。
これは、1906年(明治39年)に発生したサンフランシスコ大地震の際のことです。
当時渋沢栄一が頭取をしていた第一銀行より、当時の価格で1万円を寄付しました。
最終的に、渋沢栄一の呼びかけもあり、総額17万円まで寄付出来ました。
単純に2万倍すると、2億円となります。
概算になるので、一概には言い切れませんが、その当時の17万円がどれ程凄いかが分かりますね。
渋沢栄一と新紙幣
渋沢栄一は2024年から新紙幣の一万円札の顔となります。
実は、何度か新紙幣の候補になっていたそうです。
それが意外な理由を元に断念されていたのです。
偽造防止の理由で、より難しい技術が必要でした。
しかし、現代では紙幣の製造技術も進み、髭のない渋沢栄一も問題なく紙幣に使えると判断されたのか、見事採用されています。
新紙幣が楽しみですね。
活躍した時代
渋沢栄一が活躍した時代は、江戸時代終盤から大正時代です。
特に「日本資本主義の父」と言われる所以は、1973年6月に現在のみずほ銀行の前身である「第一国立銀行」を日本で初めて設立したからです。
しかし、これより前(1878年)に、「東京株式取引所」を設立していました。
現在の東京証券取引所となる、日本初の公的取引所です。
この設立は、人々が株式を用いてスムーズな資金を調達できるようにするためでした。
この様に、日本経済の発展に大きく影響を与えた事により、「日本資本主義の父」と呼ばれるようになりました。
銀行を拠点に企業の創設・育成に力を入れて、生涯に約500もの企業に関わり、約600の社会公共事業・教育機関の支援や民間外交に尽力しました。
彼には核となる名言があります。
「論語と算盤とは一致しなければならない」
これは、”道徳を無視すれば利益は得られない”という考えのもと、渋沢栄一が「道徳と利益は共に追求出来るものである」と考えたことです。
簡単に言うと、道徳と利益の追求は相反するものではなく、「利益を生んで豊かになれば社会がより道徳的になり、人々は精神的にも健やかに暮らせるようになる」ということです。
現在も渋沢栄一の名言は、多くの経営者から支持されています。
彼は経済だけではなく、社会奉仕にも力を注ぎました。
特に、社会のインフラ整備に(産業や生活の基盤)は、フランス万博や欧州での視察が、役立っていると思われます。
フランス万博で見た、水道管やガス管が地下に埋めてあり、水道・ガス灯として便利に運用されていることに関心を示したそうです。
その様な光景を目にしたため、社会インフラが整備されることにより、より多くの人が豊かになって欲しいと思ったのでした。
その他に、渋沢栄一は教育事業にも積極的に取り組んでいます。
現在の一橋大学(旧商法講習所)や日本経済大学(旧大倉商業学校)を設立しました。
「女子に学問は不要」とされてきた時代に、彼は女子教育にも注力しました。
日本女子大学校や東京女学館の創立にも関与しました。
年譜
年 | 出来事 |
1840年(0歳) | 2月13日、渋沢栄一誕生 |
1863年(23歳) | 高崎城乗っ取りを計画するが、暴挙は中止となり、幕府の追手を避けるために京都へ行く |
1864年(24歳) | 一橋家の家来になる |
1865年(25歳) | 歩兵取立人選御用を命じられる |
1867年(27歳) | 徳川昭武(のちの民部公子)に従い、フランスへ随行する |
1868年(28歳) | 帰朝 |
1869年(29歳) | 静岡にて実業の仕事を始める。 明治政府に召し出され、民部省租税正に任ぜられる。 |
1873年(33歳) | 大蔵省を辞める。第一国立銀行開業・総監役となる。 |
1875年(35歳) | 森有礼(もり ありのり)とともに商法講習所(一橋大学の始まり)を創立する |
1876年(36歳) | 東京府養育院事務長になる |
1878年(38歳) | 東京商法会議所創立・会頭になる |
1879年(39歳) | 大阪紡績会社の設立に尽力する グラント将軍(元第18代米国大統領)の歓迎会を開く |
1884年(44歳) | 日本鉄道会社理事委員(後に取締役)になる |
1885年(45歳) | 日本郵船会社を創立(後に取締役に就任) 東京瓦斯会社を創立(創立委員長、後に取締役会長に就任) |
1896年(56歳) | 第一国立銀行が株式会社第一銀行となり、その頭取となる。 京釜鉄道会社の設立に尽力する。 |
1900年(60歳) | 男爵を授けられる |
1901年(61歳) | 日本女子大学校が開校し、会計監督となる。以来同校の発展に尽力する |
1906年(66歳) | 東京電力会社創立。京阪電気鉄道会社を創立し、創立委員長(後に相談役)になる |
1907年(67歳) | 社団法人東京慈恵会を設立し、理事・副会長として尽力する |
1911年(71歳) | 勲一等に叙し、瑞宝章を授与される |
1912年(72歳) | 帰一協会を成立する |
1916年(76歳) | 喜寿を機に実業界を引退する |
1920年(80歳) | 国際連盟協会を創立し、会長就任。子爵を授けられる |
1923年(83歳) | 大震災善後会創立・副会長に就任 |
1926年(86歳) | 11月11日の平和記念日にラジオ放送を通じて、平和への訴えを行う (以降恒例となる)ノーベル平和賞候補となる(翌年も同候補となる) |
1927年(87歳) | 日本国際児童親善会創立・会長就任 日米親善人形歓迎会を主催する |
1931年(91歳) | 11月10日正二位に叙せられる 11月11日永眠 |
まとめ
ここまで、渋沢栄一の生涯を辿ってみましたが、如何でしたか。
NHK大河ドラマの『青天を衝け(せいてんをつけ)』で、ご存じの方も多いと思います。
渋沢栄一は、1931年(昭和6年)11月11日に家族に看取られながら、91歳の生涯を終えました。
最期は、安らかに息を引きとったそうです。
江戸時代の末期から昭和初期を駆け抜けた渋沢栄一。
彼は、常に儲けのみを追求するのでは無く、世の為・人の為に働く事によって、皆が豊かになる世を目指しました。
それが、時を越えて令和の時代にも浸透しています。
当時の明治時代に、こんな世を作りたいと思って、実行した事は凄い事だと思います。
また、学問に対する渋沢栄一の捉え方も新しい考えだったと思います。
明治時代では「女性に学問不要」と言われる中で、時代に先駆けて学校を設立しました。
渋沢栄一の葬儀には、飛鳥山の渋沢の家から青山の葬儀場まで並んだ見送りの数は、数万人とされています。
霊柩車の通る道沿いのそこかしこに、学校その他の諸団体が整列していました。
最後の告別式への参加者も、4万人を超えたとされています。
誰かが動員したわけではなく、皆、お世話になったという感謝の気持ちで見送っているんですね。
「ただただお世話になった」との気持ちで、集まったんだと思います。
最期を迎えた時でも、渋沢栄一は多くの人々に影響を与え続けた人生でした。
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自然主義文学の先駆者である「国木田独歩」の生涯とは
彼は製造者達に競争心をあおることで、藍玉の品質は向上していくと考えました。
そこで、弟と一緒になり、藍の葉について調べてあげて、ランキング付けをし、その結果に基づいてご馳走を振舞ったそうです。