塙保己一(はなわ ほきいち)についてお伝えします。
彼は江戸時代の盲目の国学者です。
武蔵国児玉郡保木野村、現在の埼玉県本庄市に生まれています。
概説
江戸時代には、徹底した盲人保護政策がありました。
盲人たちを4段階に分けますと、検校(けんぎょう)、勾当(こうとう)、座頭(ざとう)、市(いち)です。
一番上の「検校」だと、社会的に大名の位の待遇を受けたと言われています。
塙保己一は、1821年に盲人の最高位の「総検校」になります。
しかし、同年9月12日に亡くなっています。
人物像・逸話
塙保己一は江戸時代後期の全盲の学者です。
鍼、灸、あん摩などを習い、音曲(おんぎょく)の修行も始めましたが、不器用で上達せず、座頭金(盲人が幕府の監督を受けて貸し付けた庶民金融)の取り立ても出来ませんでした。
やがて、江戸の旗本・松平乗尹(まつだいら のりただ)のもとで古典を多く学びました。
古典は入手したり、借用した書物を知り合いに読んでもらったりして、その全てを記憶していきます。
保己一の書庫には書籍が6万冊ほどあったといわれていて、その全てを記憶したといわれています。
保己一は集中力を高めるために、般若心経を毎日100回唱えるなどしていたという話が残っています。
やがて、努力が幕府にも認められ、将軍に直接面会が許されるほどになりました。
彼は大文献集『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』だけでなく、散逸のおそれがあった貴重な文献の校正をして、次々と出版しています。
『群書類従』、『続・群書類従』の編さんには41年かけています。
正編で666冊、続編は1185冊あり、現在の日本の文学や歴史などを研究するのに欠かせない資料となっています。
また、塙保己一は現在の大学のようなところである、和学講談所(わがくこうだんしょ)を創設して弟子を多く育てています。
それが48歳の時です。
彼は生涯をかけて、自分と同じように障害のある人たちの、社会的地位の向上を目指していました。
1937年にヘレン・ケラーが来日した際には、塙保己一の『群書類従』の版木や、塙保己一の小さなブロンズ像に触れています。
活躍した時代
塙保己一が活躍したのは、江戸時代後期になります。
彼は国学者、平曲家です。平曲家とは、琵琶の伴奏によって平家物語を語る人です。
現在、埼玉県では障害がありながらも社会的に顕著な活躍をしている人、障害のある人のために貢献している人・団体に「塙保己一賞」を贈呈しています。
埼玉県にある「塙保己一学園」
「埼玉県立特別支援学校 塙保己一学園」という学校が埼玉県川越市にあります。
視覚に障害のある幼児や児童、生徒のための学校です。
点字や拡大文字を使い、幼稚園、小学校、中学校、高等学校段階の教育を行っているところです。
対象者は、両目の視力がおおむね0.3未満の人や、それ以上であっても医師の診断により盲学校での教育を受けることが適切と判断された人です。
視力以外の視機能障害が高度な人で、拡大鏡といったものを使っても通常の文字や図形が見えない、または非常に見えにくい人も対象です。
幼稚部は3歳以上です。
高等部には普通科と専攻科があり、専攻科には保健理療科と理療科があります。
専攻科では、職業教育を行います。
- 保健理療科は、あん摩、マッサージ、指圧師養成コースとなっています。
卒業すると、それぞれの受験資格を得られます。 - 理療科は、あん摩、マッサージ、指圧師、はり師、きゅう師養成コースとなっています。
卒業すると、それぞれの受験資格を得られます。
こちらの学校では、視覚の障害だけでなくて、他の障害も併せ持つ人に対しては、重複障害学級で教育を行っています。
歩行や点字、パソコン、生活訓練など、視覚に障害があるために生じる困難に対して、個人に合わせた自立活動という特別な指導をしています。
塙保己一学園の生徒の実習先
話はそれますが、今度は塙保己一学園の生徒の実習先の一例を挙げさせていただきます。
日本点字図書館
点字図書や録音図書、録音雑誌などを国内や海外の視覚障害者に郵送で無料貸し出ししているところです。
また、点字図書や録音図書の情報提供など、図書に関する問い合わせの返答をしているところです。
国立障害者リハビリテーションセンター学院:視覚障害学科
埼玉県所沢市にある、障害のある人が自立した生活を行って、社会参加することを支援するために運営されているところです。
障害の種類や、どんな訓練が必要かによって利用の仕方は違います。
ここでは、視覚障害の利用者について少し取り上げさせていただきます。
年譜
こちらでは、年齢ごとの塙 保己一について記述させていただきます。
年齢は数え年です。数え年とは、生まれた時点を1歳として、以降の1月1日を迎えるたびに1歳加えていくという方法です。
1746年:延享3年:1歳
武蔵国児玉群保木野村に生まれます。現在の埼玉県本庄市児玉町保木野です。
幼名は生まれ年の干支から、寅之助と称されました。百姓であった荻野宇兵衛の長男です。
1752年:宝暦2年:7歳
彼は生まれつき身体が丈夫ではなく、肝の病がもととなって失明してしまいます。
修験者の勧めで、名を辰之助と替えます。
1760年:宝暦10年:15歳
江戸に出て、雨富須賀一(あめとみ すがいち)の門人となります。雨富須賀一とは、江戸時代後期の検校です。
1757年(宝暦7年)に母を病気で亡くし、失意の中で江戸に出る決意をします。
再び、名を千弥と改めます。
1761年:宝暦11年:16歳
雨富検校に学問の道に入ることを許されます。歌学や神道を学びます。
1763年:宝暦13年:18歳
衆分となります。衆分とは、学問をする僧をいくつかの階級に分けた一番下の級です。
今度は名を「保木野一」に変えます。
1775年:安永4年:30歳
勾当に昇進します。
そして、雨富検校の本姓の塙を称することを許されます。ここから「塙保己一」と名乗ります。
1779年:安永8年:34歳
『群書類従』の出版を決意します。
その理由は「各地に散らばっている貴重な書を取り集め、後の世の国学びする人のよき助けとなるように」とのことでした。
1782年:天明3年:38歳
検校に昇進します。
1786年:天明6年:41歳
『群書類従』の出版計画を実行し始めます。
1789年:寛政元年:44歳
水戸藩による、大日本史の構成に加わります。
1793年:寛政5年:48歳
日本最初の国学の専門機関である「和学講談所」を設立します。
松平定信から、温故堂の名をつけてもらいます。
1819年:文政2年:74歳
『群書類従』を完成させます。
1821年:文政4年:75歳
総検校になります。同年9月12日に死去します。
塙保己一ゆかりの地には、生家・記念館・墓があります。
生家・記念館は埼玉県本庄市にあります。
一方、お墓は、東京都新宿区の、四谷三丁目駅から徒歩9分のところにあります。
墓所は最初、安楽寺という寺にありましたが、明治30年(1897)に廃寺となったため、愛染院(あいぜんいん)に移されました。
まとめ
江戸時代の盲目の国学者である塙保己一について、取り上げさせていただきました。
塙保己一は、現在の学校にあたるところである、和学講談所を創設して弟子を多く育てました。
自分と同じように、障害のある人たちの社会的地位の向上に努めました。
亡くなる前に、盲人としての最高位の総検校になっています。
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