森鴎外について
森鴎外と聞くと、誰しも一度は聞き覚えがある人物かと思います。
高校の教科書に森鴎外の処女作であり、また近代史のロマン主義の始まりとなった「舞姫」が多く取り扱われているからです。
自身も、幅広い分野で活躍し日本の近代史に革命を起こした人物です。
それでは、森鴎外の生い立ちから追っていきましょう。
概説
森鷗外は、江戸時代の末期文久2年(1862年)生まれ。
軍医でありながら、ドイツへ留学します。
この経験が、後に森鴎外に大きな影響をもたらしました。
人物像・逸話
森鷗外は、「本名:森 林太郎」と言います。
現在の島根県津和野町で、漢方医の父のもとに長男として生まれました。
優秀だった鴎外は15歳で現在の東京大学医学部に入学、19歳で卒業し、陸軍の軍医となります。
実は、彼は5歳で論語、6歳で孟子を読み、10歳からはドイツ語の学習と多彩な才能の持ち主で、9歳の時には15歳相当の学力と言われていました。
父と一緒に上京し東京医学校予科に入学を希望しましたが、受験資格が14歳と知ると、年齢を2歳多く偽って受験し、合格した逸話があります。
東京医学校とは、現在で言うと東京大学医学部にあたり、鴎外は12歳で予科に合格、15歳で東京大学医学部生となり19才で卒業します。
その後も年齢は、公的年齢より2歳多く過ごしています。
大学卒業後、軍医となり、国より22歳の当時最先端の医学を学ぶ為、ドイツへの留学を命じられます。
4年という月日をドイツで過ごした鴎外は、衛生学はもちろんの事、卓越した語学力でドイツ文学などにも精通しました。
鴎外は、医学だけではなく、華やかな社交界の文化にも触れるなどして、名作「舞姫」が作られたのです。
そうして、小説家という道へ足を向けていくのでした。
ドイツから帰国後、執筆活動を本格的にします。
舞姫は、ベルリンを舞台としたドイツ人女性のエリスと日本人男性の太田豊太郎との恋バナです。
これは、森鴎外自身のドイツ人女性との恋が題材になっていることは有名ですよね。
そこで、「舞姫」とともに帰国後1年以内に執筆されたドイツ三部作とい言われる『うたかたの記』『文づかひ』をご紹介します。
- 『うたかたの記』は、ドレスデンが舞台で留学中の日本画学生の巨勢とマリイの儚い物語です。
- 『文づかひ』という作品は、洋行帰りの将校たちと一緒に自分もその一人としてさる宮様に招かれた小林大尉が、乞われるままにザクセンで経験した風変わりな一件の思い出を語るという内容です。
どれも、4年間のドイツ留学の体験から生まれたものであり、現在では近代日本文化を代表する作品となっています。
格調高く、優美な雅文体とともに、文壇に大きな反響を呼びました。
次は、ドイツから帰国後の鴎外についてお話しします。
鴎外は2度の結婚で、3息子2娘がいたそうです。
自身がドイツ留学中に自身の名前が周りの人から呼びにくいと知り、自分の子供が出来たらグローバルな名前にしようと考えていたそうです。
なので、子供の名前は当時としては非常に珍しい名前になっています。
- 於菟(長男)→おと
- 茉莉(長女)→まり
- 杏奴(次女)→あんぬ
- 不律(二男)→ふりつ
- 類 (三男)→るい
海外でも通じる様、「音」にこだわりを持って名づけたそうです。
活躍した時代
森鴎外が産まれたのは、江戸から明治にかけて激動する時代あった、江戸時代の末期文久2年(1862年)です。
島根県津和野町で藩医をしていた森家の長男として生まれ、稀なる奇才とし幼い頃から期待され、東京大学医学部に入学しました。
若かりし頃の鴎外は学者を志して国費でのドイツ留学を目標とし、優秀な成績を収めていましたが、卒業試験時に体調を崩すなどの不運によって国費留学の夢は叶いませんでした。
そのため、周囲の勧めもあり、鴎外は陸軍軍医の道を歩む事になりました。
そうして、軍医としての実績を積み、鴎外はプロイセン王国(ドイツ北部からポーランド西部)の陸軍衛生制度を調査し『医政全書稿本』としてまとめ上げます。
その実績が認められ、官費留学生として衛生学の調査と研究のため4年間ドイツへ渡ります。
ドイツでの4年間は、ライプツィヒ大学のホフマン教授、ミュンヘン大学のペッテンコーファー教授、ベルリン大学のコッホ教授らについて衛生学を学んでいくのでした。
また、西洋の文化や文学にも触れ、感銘を受けるのでした。
1888年9月に帰国、陸軍軍医学舎(のち学校)教官に任じられ、その職務のかたわら、翌1889年から、医事、文学の両面にわたって旺盛なジャーナリズム活動を開始したのです。
また、1891年(明治24)、「舞姫」を発表、「鴎外」というペンネームを用いて、作家活動をスタートさせました。以後『うたかたの記』や『文づかひ』など数多くの作品を発表しています。
年譜
年 | 出来事 |
1862年(文久2年) | 1月19日津和野藩代々の御典医の家柄(現在の島根県鹿足郡津和野町)に長男として産まれる |
1867年(慶応3年) | 11月村田久兵衛に論語を学ぶ |
1868年(明治元年) | 3月米原綱善に孟子を学ぶ |
1881年(明治14年) | 9月 『読売新聞』に寄稿した「河津金線君に質す」が採用 |
12月 東京陸軍病院課僚を命じられて、陸軍軍医副の任務に就く | |
1882年(明治15年) | 2月 第一軍管区徴兵副医官(中尉相当)になり、従七位の位階を授かる |
5月 陸軍軍医本部課僚になり、プロシア陸軍衛生制度の調査に駆り出される | |
1885年(明治18年) | 5月 陸軍一等軍医(大尉相当)に昇進 |
1888年(明治21年) | 3月 プロシア近衛歩兵第2連隊の軍隊任務に就く |
1889年(明治22年) | 1月 『東京医事新誌』の主筆となる。 |
10月 軍医学校陸軍二等軍医正(中佐相当官)教官心得になる | |
1890年(明治23年) | 1月『医事新論』を創刊 |
8月 『しからみ草紙』に「うたかたの記」を発表 | |
1891年(明治24年) | 1月『文づかひ』を刊行 |
1902年(明治35年) | 1月 大審院判事荒木博臣長女の志げと再婚 |
1911年(明治44年) | 5月 文芸委員会委員になる |
1912年(明治45年) | 1月 文芸委員会に頼まれていた戯曲『ファウスト』の訳を完結させる |
1921年(大正10年) | 6月 臨時国語調査会長に就任 |
1922年(大正11年) | 6月29日 萎縮腎と診断 |
7月9日午前7時死去 |
まとめ
ここまで、森鴎外の人物を紹介してきましたが、如何でしたでしょうか。
今で言う、エリートコースを歩んできた男です。
人から羨ましいと思える人生でも、挫折や困難を乗り越えて勝ち取ったものでした。
まず1回目の挫折は、大学卒業の進路でした。
長年目指して海外留学が叶わなかった為でした。
2度目の挫折は、陸軍で37歳の時でした。
東京から、小倉12師団に左遷されたのです。
この時には、既に鴎外は官僚としても文学者としても認知されているのでした。
また、日露戦争における旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん)の指揮をとり、軍神と呼ばれる乃木希典(のぎ まれすけ)を、森鴎外はとても尊敬していました。
お互いに陸軍に所属しており、戦地で息子二人も失いつつも、忽然と戦地で指揮を取り続ける彼への感動を、後に書に記しています。
鴎外は、色々な顔を持つ人物だったと言えます。
軍医の他に、官僚、小説家、評論家、翻訳家としての活動と多岐にわたります。
森鴎外の弟、木下杢太郎(きのした もくたろう)は、鴎外を「百門の大都」にたとえました。
つまり100の門をもつ都市のように幅広く、どの門から入ってもそれぞれが奥深い「知の巨人」であるというのです。
没する直前まで、精力的に活動していたそうです。
こうして鴎外を読み解いていくと、彼の探究心や知的好奇心が他の人に比べて高かったと言えます。
鴎外の遺言には「余は石見人森林太郎として死せんと欲す」とあり、死に際まで生誕の地、津和野の地のことに思いをはせていたものと思われます。
夏目漱石と併称されることが多く、相並んで明治の精神と倫理を体現した作家でありました。
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