倒幕のために活躍した坂本龍馬、その人生は波乱万丈だった!

倒幕のために活躍した坂本龍馬、その人生は波乱万丈だった!

坂本龍馬は混沌とした時代の中、倒幕の為に動いていた人物で、世間ではヒーローのように称えられています。
龍馬は日本各地を駆け回り、人脈を作りながら着々と大政奉還への道を開いていきました。
また、龍馬は日本初の株式会社を作ったことで有名です。
龍馬はどのように大政奉還への道へ向かっていったか、記していきます。

概説

黒船来航

龍馬は土佐藩で生まれ、江戸に修業中に黒船が来航してきました。
黒船側は幕府に圧力をかけてきた末、日本は開国しました。
幕府の弱腰姿勢に腹に据えかねた龍馬は尊王攘夷を考えましたが、後に色々な有識者から外国情勢を聞いていくうちに倒幕へと考えを改めていきました。

そして、外国と対等に付き合うには、海軍が大事と考えた龍馬は海軍を育成する組織を作り、国力を高めようとしました。

また、外国と商売を行い、武器を輸入し、それを薩摩と長州に武器を流して、倒幕の手助けをしました。
その時に、思想の違いで仲が悪かった薩摩と長州を仲直りさせたのは有名です。
しかし、潜伏中に京都の近江屋で何者かに暗殺されて生涯を閉じました。

人物像・逸話

幼少期は泣き虫のひ弱で根性がなく、深夜に一人で厠(かわや)に行けなかった程でした。
しかし、姉・乙女の熱心な教育により、性格は強くなって、たくましくなりました。
乙女への尊敬と愛情を強く感じていて、手紙を16通送っていた記録があります。

コミュニケーション

龍馬自身のコミュニケーション能力が高く、人脈を作るのが上手かったようです。

龍馬は当初攘夷志士であり、ペリー来航時に手紙で、家族に「戦争になれば外国人は斬る」とも話していました。

しかし、勝海舟に会ったことで考えが変わり、海舟の弟子になり、開国論者に変わりました。
勝海舟を殺そうとしたとの説がありますが、松平春嶽(まつだいら しゅんがく)からの紹介状を持っていたことから元々殺す意図はなかったとも言われています。
下関戦争や当時の幕府の外国への行動を見て、姉の乙女に「日本を今一度洗濯いたし申し候う」と話したと言われています。

龍馬は拳銃を愛用していました。
高杉晋作から拳銃を貰い、護身用に肌身離さず持っていました。
寺田屋事件の際に捕縛人に発砲しましたが、その時に拳銃を紛失してしまったので、その後、新たに拳銃を買い求めました。

坂本龍馬と長岡慎太郎像

坂本龍馬が薩摩と長州の仲を取り持つために、活躍したことは有名な話です。
桂小五郎は西郷隆盛が会談の約束を破ったことに怒って、帰ろうとしました。
そこを諫めて、龍馬と中岡慎太郎の仲立ちの元で、長州と薩摩の話を取りまとめて「薩長同盟」の成功まで漕ぎ着けました。

コラム
日露戦争開戦前、明治天皇の皇后の夢に龍馬が出て「私は坂本龍馬で、海軍を守護します。」と話した逸話があります。
皇后が側近から、龍馬の写真を取り寄せると”この人が夢に出た”と話していました。
その時の話は、当時の新聞に出たほどでした。

活躍した時代

坂本龍馬は江戸時代幕末に活躍した人物で、外国と商売をしつつ、倒幕に尽力を尽くした人物です。

嘉永6年(1853年)に、ペリーが黒船で浦賀近海に来航してきました。


嘉永7年(1854年)アメリカと日米和親条約を結んだことで、日本の鎖国体制が崩壊し、日本は開国の道をたどります。
欧米列強の脅威を感じた幕府は、数々の諸外国と条約を結びました。

日本の非常事態に江戸幕府大老の井伊直弼は強硬的に開国をしたり、将軍を決めたりしましたが、諸藩や家老から反対にあったので、彼は反対派を処断したり、弾圧する「安政の大獄」を起こしたりしました。
しかし、安政の大獄の報復として水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士から、井伊直弼は桜田門の前で暗殺されました。

当時の状況は倒幕に傾いており、佐幕派への幕府組織の天誅や幕府の要人暗殺などの人斬り行為が、横行していました。
混沌としていた時代に、龍馬は倒幕に力を注ぎ、日本中を奔走して人生を捧げました。

幕府公認の神戸海軍操練所を開設し、勝海舟の下で航海術や砲術を学びましたが、海軍操練所の学生が長州側として「禁門の変」に参加していたことから、倒幕色が強いのを危惧した幕府によって閉鎖されました。

龍馬は代わりの海軍育成組織として、日本初の株式会社である亀山社中を結成しました。
薩摩藩がスポンサーになりました。
龍馬は資金援助しつつ、外国から武器を購入しながら、海軍の育成をしながら国を変えようとしていました。
海軍はのちに海援隊になり、土佐藩の外郭組織の扱いで倒幕運動の要になる働きをしました。

龍馬は海軍に力を入れており、海援隊の組織を利用して活動し、砲術や航海術を高めることを重視しました。

長州は幕府から朝敵と見なされていました。
幕府は長州を滅ぼすべく、幕府の戦力を使い、たびたび争いが起きていました。

薩摩は当時、幕府軍の側で朝廷と幕府を合わせた公武合体派で、討幕派の長州とは「禁門の変」や「長州征伐」などの戦で敵対していました。
しかし、薩英戦争でイギリスの軍事力を知った薩摩は、倒幕へと考えを改めました。

そこで、龍馬は両藩の利害が一致して倒幕に向かうように話し合いをもちかけました。
それをやり遂げ、「薩長同盟」が結ばれました。

「薩長同盟」で薩摩は不足していた米を長州から買い、グラバー商会やイギリスと武器の取引をします。
そうした武器を薩摩が買い上げて、長州に流したことで戦力が整いました。
そして、第二次長州征伐では幕府軍が旧式の兵器だったのに対し、長州は諸外国の新型の兵器を使用したので長州側が勝ちました。
これによって、幕府の求心力が低下していきました。

龍馬は兵庫へ移動中に船の中で今後の日本の在り方を記すため、船中八策を考えていました。
それを長岡兼吉に記させ、幕府が滅んだ時に新設する新政府の今後の新法を考えていました
このことが、後の「五箇条の御誓文」の元になったと言われています。

龍馬が暗殺された年、大政奉還により、長く続いた江戸時代は終焉を迎えましたが、旧幕府側の抵抗があり、新政府と旧幕府との間で戊辰戦争が起こりました。
だけれども、新政府軍が勝ったことで明治の時代となりました。

年譜

天保6年(1835年)11月15日に土佐で生まれ、家は郷士(ごうし)の身分でした。
商人から分家した身分で、才谷屋から多額の財産をもらっていて、郷士の中では裕福な家系でした。

龍馬は日根野弁治の道場で小栗流を5年間修行して目録をもらい、嘉永6年(1853年)には武術修行の為に土佐藩から一年間、江戸に出ることを認められました。
龍馬が修行に出たと同時期に黒船が来航して、江戸幕府は日本を開国しました。
龍馬は尊王攘夷を推進する為に、西洋砲術に興味を持ちました。
オランダ語で書かれた西洋砲術に関する本を読むにはオランダ語の知識が必要だったため、佐久間象山の塾に入学して蘭学などの学問を学びました。

文久元年(1861年)に、遠縁の武市半平太たちと共に土佐勤王党を結成しました。
尊王攘夷を掲げることで、藩主体となって尊王攘夷を行うことを目標としました。
文久2年に土佐藩を脱藩して自由に活動をしていましたが、土佐勤王党の武市半平太とは過激なやり方が容認できず、脱退しました。

同年の12月9日、松平春嶽の紹介で勝海舟に会いにいき、考えに共感しました。
これがきっかけで弟子になり、海軍の必要性を重視し、龍馬も神戸海軍操練所を開設して、海軍の育成に尽力を注ぎました。
その時に土佐藩主である山内容堂への勝海舟の助言もあり、龍馬の脱藩は許され、罰もお咎めなしになりました。

元治元年(1864年)、龍馬は土佐藩に帰国延期を申し込みましたが、拒否されたので、神戸海軍操練所の仕事を続けるために帰藩命令を無視して再度の脱藩をしました。
しかし、「禁門の変」などで神戸海軍操練所の塾生が参加していたことが理由で、慶応元年(1865年)に幕府により閉鎖されてしまいました。

閉鎖後、同年に龍馬は日本初の株式会社・亀山社中を開設して、海軍の育成と外国との商取引を行いました。
外国との武器取引により、長州や薩摩に近代兵器が揃ったことで戦力が整いました。
のちに、海援隊と名を変え、土佐藩直属の組織になり、龍馬も土佐に復藩しました。

慶応2年(1866年)に「寺田屋事件」が発生しました。
龍馬は奉行所に襲われましたが、お竜の助けで彼らの接近に気付きました。
そして、奉行所の捕り方(罪人をとらえる役人)を銃で発砲して応戦し、無事に逃げおおせました。

その後、薩摩藩で湯治をして、襲撃の際に出来た傷を癒やしました。
その時にお竜と結婚して、一緒に旅行に行ったのが日本初の新婚旅行だと言われています。

長州と薩摩の間の仲立ちをしたおかげで、両藩の思惑は一致し、薩長同盟を結ぶのに成功しました。

慶応3年、薩摩と土佐で密約を交わし、倒幕することを目的としました。
同時期に幕府は大政奉還の宣言により、江戸時代は終焉を迎えました。

しかし、同年の11月15日、龍馬は新時代を見ることなく、近江屋で暗殺されました。

龍馬を暗殺したのは、いろは丸沈没事故の賠償金支払いの報復の紀州藩の犯行や、新選組の犯行との説がありますが、元見廻組の今井信郎の証言から、見廻組の犯行という説が有力です。

まとめ

日本の開国に貢献した坂本龍馬ですが、幼少期から世話になった姉の乙女に頭が上がらず、手紙をたくさん書いていたそうです。
このことから、姉への尊敬ぶりが分かります。手紙を何通も送るほどの情を持っていました。

当初は攘夷派でしたが、外国事情を知るにつれ、攘夷の無謀さを痛感したため、攘夷は諦めました。
倒幕派と幕府側で激しい争いが繰り広げられましたが、龍馬は討幕派として活動し、海軍の育成や武器取引などで日本の戦力を整えました。
そして、薩摩藩と長州藩の仲を取り持ち、薩長同盟を結ばせたことで倒幕への道が加速していきます。

龍馬は大政奉還前に暗殺されましたが、明治時代の礎を築いた一人と言えるでしょう。


坂本龍馬は新時代を作るために激動の中、日本を動きまわり、活動していた一人と言えるのではないでしょうか。

 

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