姫路城は、1993年に奈良の法隆寺と同時に、世界文化遺産に登録されました。姫路城はその美しさから、シラサギが羽を広げたように見立てられています。
その姿から呼ばれるようになった白鷺城(はくろじょう)の愛称は、有名かと思います。
奈良の法隆寺と兵庫の姫路城は、日本では初の世界文化遺産です。
世界遺産に登録されているものは他には、フランスのベルサイユ宮殿や中国の万里の長城などがあります。
Contents
- 1 城主
- 1.1 池田輝政:慶長5年:1600年
- 1.2 池田利隆:慶長18年:1613年
- 1.3 池田光政:元和2年:1616年
- 1.4 本多忠政:元和3年:1617年
- 1.5 本多政朝:寛永8年:1631年
- 1.6 本多政勝:寛永15年:1638年
- 1.7 松平忠明:寛永16年:1639年
- 1.8 松平忠弘:正保1年:1644年
- 1.9 松平直基:慶安1年:1648年
- 1.10 松平直矩(なおのり):慶安1年:1648年
- 1.11 榊原忠次:慶安2年:1649年
- 1.12 榊原政房:寛文5年:1665年
- 1.13 松平直矩(なおのり):寛文7年:1667年
- 1.14 本多忠国:天和2年:1682年
- 1.15 本多忠孝:宝永1年:1704年
- 1.16 榊原政邦:宝永1年:1704年
- 1.17 榊原政祐:享保11年:1726年
- 1.18 榊原政岑(まさみね):享保17年:1732年
- 1.19 榊原政永:寛保1年:1741年
- 1.20 松平明矩(あきのり):寛保1年:1741年
- 1.21 松平朝矩(とものり):寛延1年:1748年
- 1.22 酒井忠恭(ただいずみ):寛延2年:1749年
- 1.23 酒井忠以(ただざね):安永1年:1772年
- 1.24 酒井忠道:寛政2年:1790年
- 1.25 酒井忠実(ただみつ):文化11年:1814年
- 1.26 酒井忠学(ただのり):天保6年:1835年
- 1.27 酒井忠宝(ただとみ):弘化1年:1844年
- 1.28 酒井忠顕(ただてる):嘉永6年:1853年
- 1.29 酒井忠績(ただしげ):万延1年:1860年
- 1.30 酒井忠惇(ただとし):慶応3年:1867年
- 1.31 酒井忠邦:明治1年:1868年
- 2 歴史
- 3 建築(築城した人物)
- 4 エピソードや関連する出来事
- 5 イベント
- 6 アクセス
- 7 まとめ
城主
歴代の姫路城の城主は、次の通りです。
池田輝政:慶長5年:1600年
織田信長の重臣である池田恒興の次男。母方の伯父である荒尾善久の養子となって、木田城主となります。花熊城の戦いで荒木軍の武士5,6名を討ち取る戦果を挙げています。
池田利隆:慶長18年:1613年
江戸時代の前期の大名です。兵農分離を行っています。兵農分離とは、武士階級とそれ以外の階級との身分的分離政策です。病死。享年33。
池田光政:元和2年:1616年
学問好きの人物。幼児期から非凡なところがありました。徳川家康にもその才能を認められました。武芸では弓矢を好んでいました。病の床に臥しているときも、常に弓の弦の音を聞いていました。
本多忠政:元和3年:1617年
播磨国姫路藩の初代藩主。正室は、家康の孫の熊姫。
小田原征伐に初陣。武蔵岩槻城攻めでは功を立てました。
薄田軍との合戦には勝利しますが、毛利軍との戦いでは敗北しました。この合戦で、忠政は292の敵首をとりました。
享年57。
本多政朝:寛永8年:1631年
播磨姫路藩の第2代藩主。叔父である本多忠朝が大坂夏の陣で討死すると、幼少だった忠朝の子に代わって大多喜藩を相続します。1626年に兄の本多忠刻が病死し、宗家の嫡子となります。父の死去によって家督を相続し、姫路藩主となります。相続前に所有していた5万石は、弟の本多忠義と、従兄弟の本多政勝に分与します。
1638年死去。跡を継いだのは本多政勝です。
本多政勝:寛永15年:1638年
「鬼内記」「大内記」といった異名がある豪勇の士であったといいます。
本多忠朝が病に倒れたときに、本多家には幼少の子を当主にしない掟があったので、従兄弟であった政勝に本家の家督が譲られます。
松平忠明:寛永16年:1639年
徳川家の重臣の奥平信昌の四男として生まれます。母は徳川家康の長女。家康の外孫。
1583年に家康の養子となって、松平姓を許されます。伯父の徳川秀忠から忠の字を受けて忠明と名乗ります。関ヶ原の戦いでは、父と共に徳川方で参加します。享年62。
松平忠弘:正保1年:1644年
松平忠明の長男として生まれます。父の死去で、12歳で姫路藩18万石の家督を相続して直後に弟に3万石を分地します。4年後に年少という理由で山形に転封(幕府の命令で大名の領地を替えること。国替えともいう。)を命じられます。その後に宇都宮に転封。これは宇都宮藩の前任の渦中不祥事によります。忠弘の非はなかったようです。
松平直基:慶安1年:1648年
結城秀康の五男として北庄城に生まれます。寛永3年(1626年)に従四位下(大和守)となって、結城を改めて松平を名乗ります。これは、結城氏の場合は外様扱いとなるので、親藩・譜代としての扱いを受けるべくの対応です。
慶安元年(1648年)に姫路城に移ります。同年8月15日に江戸で死去。45歳。
松平直矩(なおのり):慶安1年:1648年
江戸時代前期の大名。越前国大野藩主の松平直基の長男として誕生します。直矩は5歳で家督を相続しましたが、姫路は幕府にとって西国の抑えの要地だったため、幼少の直矩では務まらないと判断され、1649年に越後国村上藩に移されます。成人後の1667年に姫路に復帰。
榊原忠次:慶安2年:1649年
母親が徳川家康の姪。そのため、忠次1代だけ終身松平姓を認められる。
父の死で、3歳で祖母の生家の大須賀家を相続します。その後に、叔父である榊原家当主の榊原康勝に子供がいなく、断絶しそうであったところ、家康の指令で忠次が10歳で榊原氏館林藩の10万石を相続します。忠次自身の希望で、榊原家を相続したという説もあります。
姫路で、新田開発を指揮。和歌、百人一首を嗜む。
榊原政房:寛文5年:1665年
1665年に父の死によって家督を相続。
1667年に死去。享年27。
松平直矩(なおのり):寛文7年:1667年
松平直基の長男。17歳から、死去する54歳まで自身が残した大和守日記には、藩主としての仕事だけでなく、お家騒動、鷹狩り、観劇などについて記されています。
本多忠国:天和2年:1682年
水戸藩初代藩主である徳川頼房の孫。大和国郡山藩主・本多政長の養子となります。
政長の死後、家督を相続して福島15万石に転封します。
本多忠孝:宝永1年:1704年
本多忠国の3男。父の死によって家督を相続します。しかし、姫路は要の場所であることから、幼少を理由に越後村上藩に移封します。移封とは、大名などを他の領地へ移すことです。1709年に12歳で死去。
榊原政邦:宝永1年:1704年
江戸時代の前期から中期の大名。1,000石の榊原勝直の長男。
若くして没した榊原本家の政倫の養嗣子(跡取り)となります。
榊原政祐:享保11年:1726年
父の死により家督を相続。1732年に28歳で死去。家督を継いだのは養嗣子の政岑。
榊原政岑(まさみね):享保17年:1732年
父の遺命により、榊原氏ゆかりの大須賀の姓の大須賀高胤と名乗ります。家督を継いでいた兄の死去を受けて、兄の養子として家督を継いで「榊原勝岑」となります。
将棋、三味線などに堪能で遊び好きとして知られています。
榊原政永:寛保1年:1741年
江戸時代中期の大名。越後国高田藩の初代藩主。榊原家の9代当主。
ただし、9代当主の異母兄の榊原政純の身代わりとして擁立されました。公式には同一人物とされています。
松平明矩(あきのり):寛保1年:1741年
陸奥国白河新田藩初代藩主である松平知清の長男として生まれます。1721年に父の死によって新田藩主となります。ただし、本家白河藩に子がいなかったので、伯父にあたる松平基知の養子となります。1729年に白河藩を相続しますが、1741年に姫路に国替えされます。
9代将軍の徳川家重が将軍となると、直後に来日した朝鮮通信使の接待役を命じられます。
費用がないために、臨時の御用金を課したところ、大一揆が発生します。
その最中に36歳で死去。家督は幼少の長男である朝矩が継ぎます。
松平朝矩(とものり):寛延1年:1748年
11歳の時に父の明矩が死去。翌月に姫路藩15石を継ぎますが、大規模な農民一揆が発生していました。
幼少の朝矩には姫路藩主は相応しくないとされ、1749年にかねて姫路転封を狙っていた幕閣の重鎮である酒井忠恭と交代するかたちで前橋15万石への転封を命じられます。
前橋藩は、利根川の洪水の被害がある難所です。本来は、利根川を利用した攻められにくい地でありましたが、その利根川の激流によって浸食を受け、城郭の破壊が進みます。朝矩の代には本丸まで浸水したようです。ですが、財政難もあって城の再建を諦めます。幕府の許可を得て居城を前橋から川越へ移します。
酒井忠恭(ただいずみ):寛延2年:1749年
江戸時代中期の大名。老中首座。1749年に姫路への転封とともに老中を辞任します。
酒井家の前橋藩は財政が悪化していました。酒井家の格式を維持する費用や、幕閣での勤めのためにかかる費用、放漫な財政運用に加えて前橋藩領内は利根川の氾濫が相次ぐので財政が脆弱します。
姫路領内を台風が襲った際は川が決壊します。
家老は独断で避難民を姫路城に収容して、米蔵から備蓄米を被災者に与えます。この時の死者と行方不明者は400人以上だったそうです。次の月にも再び台風が襲い、領民3000人あまりがさらに死亡する被害を受けます。にもかかわらず、まともな年貢収入が期待出来ず、財政が悪化してしまいます。
酒井忠以(ただざね):安永1年:1772年
酒井忠仰の長男。江戸に生まれる。父が病弱だったため、祖父の忠恭の養嗣子となって18歳で姫路藩の家督を継ぎます。
絵画や茶道、能に非凡な才能でした。石州流茶道皆伝を受けて、将来は流派を担うとまでいわれていました。
弟に江戸琳派(りんぱ)の絵師となった酒井抱一がいます。自身も絵に親しみ、殿様芸を超えた作品を残します。享年36。
酒井忠道:寛政2年:1790年
江戸時代の中期から後期の大名。12歳で父の死により家督を継ぐ。
38歳で弟の忠実に家督を譲る。そして、隠居。61歳で死去。
登用した道臣が木綿やサトウキビの栽培を奨励していました。木綿の専売などによって、姫路藩の借金を全て弁済するだけでなく、新たな蓄えを築きます。
酒井忠実(ただみつ):文化11年:1814年
酒井忠以の次男。兄の忠道が隠居した後に家督を継ぎ、20年以上藩政をとります。1835年、57歳で隠居。
その後の家督は先代の忠道の八男である忠学(忠実の甥)に継がせました。
酒井忠学(ただのり):天保6年:1835年
酒井忠道の八男。叔父であり、第4代藩主を継いだ忠実の養嗣子となって、その家督を継ぎます。正室に迎えたのは、第11代将軍の徳川家斉の娘である喜代姫です。
37歳で死去。家督は娘婿であり、養父の忠実の孫の忠宝が継ぎました。
酒井忠宝(ただとみ):弘化1年:1844年
江戸時代の後期から末期の大名。酒井忠讜の長男。本家に男子がおらず、先々代の忠実の孫にあたる理由から第5代藩主の忠学の婿養子となります。忠学の死去により家督を継ぎますが、25歳で死去します。
跡を従弟で養子である忠顕が継ぎます。
酒井忠顕(ただてる):嘉永6年:1853年
三河田原藩主である三宅康直の長男。忠宝の養女の文子と結婚して養嗣子となり、1853年に18歳で家督を相続しますが、こちらも25歳で死去します。跡を養子の忠績が継ぎます。
酒井忠績(ただしげ):万延1年:1860年
江戸時代末期の大名、老中、大老。播磨姫路藩の第8代藩主である。江戸幕府最後の大老。
1895年(明治28年)死去。享年68。
酒井忠惇(ただとし):慶応3年:1867年
酒井忠績の弟。江戸幕府の老中でした。
1867年、兄の隠居により姫路藩主となりますが、1868年1月に始まった戊辰戦争で徳川慶喜ら幕府側に与したので老中を罷免され、官位を剥奪されます。入京も禁止となってしまいます。
酒井忠邦:明治1年:1868年
版籍奉還や郡県制を提案し、慶応大学で学んだ後に米国へ留学。姫路藩の潘知事に任命されます。
版籍奉還とは、明治維新で各藩の領地(版)と領民(籍)を朝廷へ返すことです。
その版籍奉還の2年後に、廃藩置県で姫路藩は姫路県となります。その後、飾磨県となり、兵庫県に合併します。
廃藩置県で、知藩事は東京への移住が命じられ、忠邦も姫路を離れます。
26歳で死去。
歴史
西暦 | 和暦 | 起こったこと |
1333年 | 元弘3年 | 赤松則村(あかまつのりむら)が護良親王の指令で挙兵する。京に進兵する途中に、姫山に砦を築く。 |
1346年 | 正平元年 | 赤松貞範(さだのり)が姫山に築城する。 |
1441年 | 嘉吉元年 | 嘉吉の乱が起こる。嘉吉の乱とは、室町幕府の6第将軍である足利義教を討って、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れるまでの騒乱のこと。姫路城を山名持豊が治める。 |
1467年 | 応仁元年 | 応仁の乱が始まる。1477年までの11年間の内乱。赤松政則が姫路城を陥落する。領国を回復する。本丸の鶴見丸を築く。その後に、一族の小寺氏の重臣である黒田氏が姫路城を引き受ける。 |
1580年 | 天正8年 | 羽柴秀吉の中国攻略のために、黒田孝高が城を秀吉に献上する。秀吉、城に3層の天守閣を築く。翌年に完成する。 |
1585年 | 天正13年 | 木下家定が姫路城の城主となる。その後、16年間治める。 |
1600年 | 慶長5年 | 「関ヶ原の戦」の後、池田輝政が姫路城主となる。 |
1601年 | 慶長6年 | 池田輝政が城の大改築をはじめる。5重7階の連立式天守完成したのが、1609年。つまり慶長14年である。 |
1617年 | 元和3年 | 池田光政が鳥取城へ移る。本多忠政が姫路城主になる。三の丸と西の丸、そのほかを増築する。 |
1639年 | 寛永16年 | 松平忠明が姫路城主となる。 |
1649年 | 慶安2年 | 榊原忠次が姫路城主に。各氏が城主になる。 |
1749年 | 寛延2年 | 酒井忠恭が前橋から姫路へ。明治維新まで城を収めたのが酒井氏。 |
1869年 | 明治2年 | 酒井忠邦が版籍を奉還する。姫路城が国有となる。 |
1931年 | 昭和6年 | 姫路城天守閣が国宝に指定される。 |
1951年 | 昭和26年 | 新国宝に指定される。 |
1956年 | 昭和31年 | 天守閣が国費で8か年計画で解体修理着工。昭和の大修理。 |
1964年 | 昭和39年 | 天守閣群の全工事完了する。 |
1993年 | 平成5年 | ユネスコの世界文化遺産に登録される。 |
2009年 | 平成21年 | 大天守保存修理工事着工。平成の修理。 |
2015年 | 平成27年 | 姫路城グランドオープン。 |
2023年 | 令和5年 | 世界遺産登録30周年。 |
建築(築城した人物)
姫路城は、1346年に赤松貞範(あかまつさだのり)による築城とする説が有力です。
赤松貞範とは、鎌倉時代の後期から南北朝時代にかけての武将、守護大名です。
棟梁は桜井源兵衛です。
池田輝政に命じられて、9年間築城に勤しんで姫路城を完成させました。
しかし、棟と梁の桜井源兵衛には、天守閣が東南の方向に少し傾いているように思えました。
妻を伴って天守に登ると「お城は立派ですが、惜しいことに少し傾いていますね」と指摘されます。
そこで、自分が計った寸法が狂っていたに違いないと思い、ノミをくわえて飛び降りたといわれています。
そのせいで、桜井源兵衛は亡くなってしまいます。
エピソードや関連する出来事
姫路城は、優美な姿がシラサギが羽根を広げた状態に見立てられて、白鷺城(はくろじょう)の愛称で親しまれています。
江戸時代以前からあるお城で、現在天守が残っているのは12城だけです。
姫路城は、その中の1城です。
昭和20年までは、国内に18の天守が残っていました。
しかし、6つの天守は戦争中にアメリカ軍の空襲で焼失しています。
本当は、姫路城もそうなっていた可能性が高かったです。
実際に、姫路城天守はB29が投下した焼夷弾の直撃を受けています。
しかし、焼夷弾は不発。職員たちが決死の覚悟で、爆弾を城外へ運び出して炎上を免れています。
イベント
姫路市では、「世界遺産姫路城マラソン2024」が開かれています。
主催:姫路市、(一般財団法人)兵庫陸上競技協会
- マラソン42.195km
- ファンラン(1km、1.5km、2km、5km)
種目 | 定員 | 制限時間 | 参加料金 |
マラソン | 9,000人 | 6時間 | 10,000円 |
ファンラン(1km)ファミリー満4~6歳の未就学児と18歳以上のペア | 400組(800人) | 10分 | 4,000円(1組あたり) |
ファンラン(1.5km)小学校1~3年生男女 | 各200人 | 15分 | 2,000円(1人あたり) |
ファンラン(2km)小学校4~6年生男女 | 各200人 | 20分 | 2,000円(1人あたり) |
ファンラン(5km)中学生以上 | 1,000人 | 40分 | 3,000円(1人あたり) |
申し込みはインターネットのみです。定員を超えた場合は、抽選で参加者を決定します。
アクセス
最初に、JR姫路駅から姫路城までの道のりからご説明します。
まず、姫路駅の姫路城口(北口)から外に出ます。
バスも出ていますが、姫路駅から姫路城までは徒歩で10分ほどです。
姫路城口を出てから、まっすぐ歩いていくと、正面に姫路城が見えてきます。
あとは、大手通りを直進するだけです。
駅の出口のところには、観光案内所があり、パンフレットなどが置いてあります。
山陽電気鉄道本線の山陽姫路駅なら、JRの姫路駅より若干姫路城に近いです。
姫路駅から姫路城まで歩く途中に、山陽姫路駅はあります。
また、バスを使う方法もあります。バスの場合は、姫路駅北口から神姫バスを利用します。
姫路駅北口から乗車して、大手門前で下車します。そこから、歩いて5分ほどで姫路城登閣口に到着します。
まとめ
姫路城についてでした。姫路城はその美しさから人気の高いお城でもあります。
こちらは1993年に世界文化遺産に登録されています。
世界遺産に登録されている日本のお城は他には、二条城、首里城、今帰仁城、中城城、座喜味城、勝連城があります。
姫路城は日本100名城などにも選定されています。
周辺では、マラソンなどの走るイベントが例年開催されています。
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城が東南に傾いていたのは、解体修理で実際に確かめられています。
しかし、その原因は設計ミスではなく、盛り土の土固めが不十分だったために、石垣が地盤沈下を起こしたためでした。
昭和の大修理によって、原因だった盛り土が取り去られて、コンクリートの基礎を築くことで、傾きは解消されています。