農業と仏教を愛した「宮沢賢治」、その短い生涯の中で込められた作風の特徴

農業と仏教を愛した「宮沢賢治」、その短い生涯の中で込められた作風の特徴

これを書き始めたのは2023年9月21日でした。調べてみて分かったのですが、この日は宮沢賢治の没後90年の年と知りました。
宮沢賢治は1896年に岩手県花巻市に誕生し、その地の自然や法華経信仰を基にした価値観は、その後の多くの人の心に響いています。
代表作としては、『銀河鉄道の夜』、『注文の多い料理店』などがあり、その他にも数多くの作品を残しています。

概説

イーハトーブ

彼は小説の中に登場する、彼の理想郷として岩手県の生活した村を「イーハトーヴ」と名付けました。
生前に作品の出版はほとんどされませんでしたが、その行動から社会から注目を集め、一定の評価も受けていました。
現在は彼の作品を愛する人は世界中にいます。
そんな彼の夢の世界を実行しようとするバイタリティーは、どこから来たのかを少し見ていきたいと思います。

人物像・逸話

現代において、彼を考える場合に幼年期や影響を与えた人や団体について、見ていきたいと思います。

尋常小学校時代

友情の握手

尋常小学校の時に赤シャツを着た同級生が、皆からからかわれていたので、賢治は「おれも赤シャツを着てくるからいじめるならおれをいじめてくれ」と言ったそうです。他にも逸話は残っていて、友達をとても大切にしていたようです。

鉱物愛好家

幼少期に石を収集するのが趣味だったようで、11歳の頃からは「石コ賢さん」と呼ばれていました。

音楽

ベートーヴェンやドヴォルザークの曲を、よく聴いていたようでした。
レコードもよく買っていたようです。
そのため、レコード店の売り上げが伸び、レコード店はレコード会社から感謝状が贈られました。
農学校教員時代には、賢治自身による、作詞・作曲もしていたようです。

愛情

宮沢賢治は生涯独身を通しました。一部の方々の間では童貞だったと言われています。
保阪嘉内さんとは、恋人と呼び合うほど親しい間柄だったようです。
ただこれは恋人というよりも、親しい友人に対しての敬愛からきているようです。
保阪嘉内さんは『銀河鉄道の夜』に登場するカムパネルラだったとする説もあります。

執筆活動

執筆活動

生前に発行されたのは、詩集の『春と修羅』と、『童話集の注文の多い料理店』の2冊だけです。
雑誌・新聞に投稿・寄稿した作品もありました。
その中の『愛国夫人』に投稿した童話の「雪渡り」のみが、賢治が生前受け取った唯一の原稿料と考えられております。その収入は当時の金額で5円だったそうです。

宮沢トシ

賢治の2歳差の妹です。歳が近かったため、特に仲が良かったと言われています。
24歳でトシが亡くなった直後に、賢治は押入れに頭を入れて「トシ子、トシ子」号泣し、トシの乱れた髪を火箸で何度もすいたとされます。

『春と修羅』に収録されている、「永訣の朝」「青森挽歌」「オホーツク挽歌」がトシの亡くなった悲しみを詠んだ詩として良く知られています。

「永訣の朝」は、これらの詩の中で最初に詠まれたものです。
この詩は妹が今日中に死んでいくものと感じている、妹からのお願いです。
妹が最後に兄にお願いしたのは「みぞれをとってきて欲しい」とのことでした。

賢治はトシのために、すぐに外に出てみると、暗い雲からみぞれが降ってきます。
賢治はトシの考えたことを察しました。

トシは暗い空を見て、真っ白でキレイな雪が降ってくるところを見て、「賢治を明るくしたいため」だと思ったのです。
賢治は思います、まっすぐな気持ちで生きたいと。
また、その天上を見上げることで、「天上の世界は恐ろしくはないのでは」とも考えます。

輪廻転生

信仰していた法華経の本では「輪廻転生」すると書かれていたようなので、トシがこれからどんな世の中に生まれてくるのか不安でした。
妹の話したその一説に、賢治はいずれは別の世界でも一緒になれると考えたようです。

そして賢治は取ってきたみぞれが、まるでアイスクリームとなり、そのアイスクリームが人類に貢献できる食べ物になる事を思うのでした。

この詩を原文で詠んだとき、賢治独特の感性で書かれているので頭では理解できませんでしたが、心に響くものがありました。

羅須地人協会(らすちじんきょうかい)

宮沢賢治は1926年に農学校の教員を退職します。
その理由は「農民になれ」と生徒に言いながら、自身は給与を頂いている矛盾からだと言われています。

この年の4月から別宅で一人で自炊生活を始め、8月16日に「羅須地人協会」を設立し、周囲の若い農民を集めました。
そして、5月から、子供向け童話の朗読会・レコード鑑賞会などを始めていました。

田畑で農作業をし、11月からは農民講座を実施して、科学知識による農業を教えました。
「農民芸術概論綱要」を執筆し、農民芸術の講義も実施しました。
この概論綱要の中に、有名言葉である「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。」が含まれていました。

年譜を見て頂ければわかりますが、「羅須地人協会」の集会は不定期となった後も、別宅で農業指導を続けました。
しかし、1928年夏の猛暑の中、農業指導をしていて健康を害してしまいます。
実家に戻ることになり、質素な自炊生活が終わります。

ちなみに、羅須地人協会の頃の賢治は粗食でした。
病に倒れてからも「生き物の命を取るくらいならおれは死んだほうがいい」と言って、最後まで菜食主義を続けました。

「羅須地人協会」の建物は、花巻農業高等学校地内に移築復元されました。
訪問するときは、冬季12月から3月までは休業しており、開館は9時から16時ですから、問い合わせてみて下さい。
駐車場もあります。

連絡先
県立花巻農業高等学校
〒025-0004 岩手県花巻市葛1-68
TEL:0198-26-3131
FAX:0198-26-1220

活躍した時代

賢治が活躍したのは残念ながら死後になりますが、その生い立ちを見てみると生前から注目は浴びていました。
1933年から1944年に作品の一部が全集として出版されています。
戦争中は「雨ニモマケズ」が自分を犠牲にして国のために働くと受け取られました。

戦後、賢治の生き方・作品から聖化していき、「雨ニモマケズ」も再評価されます。
農民芸術概論綱要には「永久に未完成これ完成である」という記述も見られます。
多くの作品が未定稿のままだったこともあり、次々に書き換えられて別の作品になってしまうこともありました。

宮沢賢治全集
1973年から1977年に、それらの原稿を整理して『校本 宮沢賢治全集』が刊行されました。
1982年には、「花巻市立宮沢賢治記念館」がオープンしています。

賢治の作品には、裕福な賢治が悲惨な生活をしている農民たちへの、自己犠牲的な愛情を感じられます。
賢治は幼いころから仏教と深く関わっていましたから、生き方に影響したのだと思います。
実際、彼の作品には軍国主義や民族主義的なものは殆どなく、むしろ世界主義的な作風が見受けられます。

年譜

賢治の年齢 出来事
1896年8月27日 0歳 質・古着商を営む父・宮沢政次郎22歳、母・イチ19歳の長男として現在の花巻市に誕生
1896年 三陸大津波・大洪水・陸羽大地震・豪雨にみまわれる。
1898年11月5日 2歳 妹の長女・トシが誕生
  • 1903年4月
  • 1903年
7歳 町立花巻川口尋常高等小学校に入学
東北地方飢饉
1904年2月 8歳 日露戦争始まる
1905年 9最 東北地方大凶作
1909年4月 13歳 県立盛岡中学校に入学、寄宿舎自彊寮に入寮
1914年 18歳 第一次世界大戦始まる
1915年4月 19歳 盛岡高等農林学校農学科第2部に首席で入学、寄宿舎自啓寮に入寮
  • 1918年12月26日
  • 1918年
22歳 東京でトシが肺炎で入院、母と一緒に上京
米価暴騰 米騒動
  • 1919年3月3日
  • 1919年
23歳 トシが退院し、一緒に帰郷
岩手県で豊作
1920年5月20日 24歳 盛岡高等農林学校研修生を卒業、国柱会信行部に入会
  • 1921年1月23日
  • 8月
  • 12月3日
25歳 無断で上京、国柱会本部を訪問。同会の奉仕活動をしながら数多くの童話を執筆、本郷菊坂町に間借り
トシの病気のため帰郷
稗貫郡立稗貫農学校の教諭になる
1922年11月27日 26歳 療養中のトシが結核で死亡
1924年4月 28歳 心象スケッチの『春と修羅』を1,000部自費出版
  • 1926年3月31日
  • 4月1日
30歳 稗貫郡立稗貫農学校から校名を変更した「花巻農学校」を依願退職
「羅須地人協会」という私塾を造る
  • 1927年2月1日
  • 1927年
31歳 夕刊で活動が紹介されるが、社会主義教育だと疑われ警察に聴取を受ける。
このため「羅須地人協会」の集会は不定期となる
夏は天候不順
1928年12月 32歳 急性肺炎になる
  • 1931年2月21日
  • 9月
  • 11月
  • 1931年
35歳 東北砕石工場技師になり、炭酸石灰の宣伝販売
再び病状が悪化
「雨ニモマケズ」を手帳に記する
満州事変始まる、岩手県は冷害豪雨のため凶作
  • 1933年9月21日
  • 1933年
37歳 急性肺炎で死亡
東北地方豊作

まとめ

農機具や化学肥料の発達などにより、現在の農民の生活は昔に比べると、はるかに豊かになりました。
きつい仕事には変わりはないけれど、賢治がもし現在の農村を見たら夢が現実になったと喜ぶことと思います。
時々思うのですが、賢治の本や仕事は生前は認められずにいたことを、賢治はどう思っていたかということです。

賢治は数々の失意を経験し落胆し、それは大変だったと思います。
しかし、僕は作風から前向きな気持ちを常に持っていたように感じられますので、彼もいつも充実感を感じていたと考えます。

晴れ晴れな気持ちあなたの宮沢賢治への思いは何ですか?
考えるきっかけになれれば嬉しいです。

最後まで読んで頂きありがとうございます。

 

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