豊臣秀吉でさえ攻略できなかった忍城!その秘密は何?

豊臣秀吉でさえ攻略できなかった忍城!その秘密は何?

今回、忍城についてお話していきます。
忍城とは、埼玉県行田市にある城で「関東7名城のひとつ」に数えられています。
現在では、「続日本100名城(2017年に定めた名城の一覧)」のひとつにもなっています。
建物も、明治維新の際に取り壊されたものを再建したものですから、見に行くことができます。

この忍城は、歴史の中でも有名なお城だそうです。
どんな歴史が詰まっているのか、これから説明していきます。

城主

忍城を築いたのは、現在の熊谷市上之を本拠地としていた武蔵武士・成田氏です。
築城当時の城主は成田顕泰(あきやす)です。
(他にも、顕泰の養父の正等・しょうとうが城主という説もあります)

築城された年は15世紀後期で、室町時代の中期ごろでした。

その後の城主は、成田氏はもちろん、松平氏や阿部氏というときもありました。
しかし、とりわけ成田氏が4代にわたって城主を務めていました。(顕泰→親泰→長泰→氏長)

白い家の模型と、そこに住む家庭の家系図

歴史

西暦 出来事
1478年 成田氏が忍城を築く
1479年 扇谷上杉氏が忍城を攻めるが、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が和睦を仲介して、和解する
1559年 関東管領(かんれい)・上杉謙信が関東に侵攻し、成田氏も恭順を示す
1561年 上杉謙信が小田原城を攻撃。成田氏(当主は長泰)も従軍するが、後に離反する
1563年 成田氏の離反が理由で、謙信によって忍城が攻撃される。長泰降伏
1574年 後継の成田氏長が、再び上杉に離反したため包囲される。上杉勢が城下に放火するが、忍城は持ちこたえる
1590年 豊臣秀吉の関東平定の際、成田氏は小田原城にて籠城。石田三成らの軍勢に包囲され、水攻めされたが、当時の「城代・成田長親」を中心に持ちこたえた
1592年 徳川家康の四男・松平忠吉が忍城に入り、統治を始める
1600年 「関ヶ原の戦い」後、忍藩(現在の埼玉県行田市あたり)は徳川直轄領となり、代わって代官の伊奈忠次らが統治を始める(松平忠吉は移封)
1633年 松平信綱が忍城に3万石を与えられて城に入る
1639年 老中の阿部忠秋が5万石で忍城に入る
1694年 阿部正武のときに忍藩は10万石となる
1702年 御三階櫓(おさんがいやぐら)が完成し、忍城の縄張りもこの頃に完成する
1823年 奥平松平氏が城に入る。(阿部氏は白河に移る)
1853年 浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。忍藩は品川砲台の第三台場の警備を担当する
1867年 将軍・徳川慶喜が大政奉還を行う
1869年 忍藩は版籍奉還後に五代藩主・忠敬が知藩事を拝命
1871年 7月の廃藩置県で忍藩とともに忍城も廃される
1949年 10月、本丸跡に行田市本丸球場が造られる
1988年 行田市本丸球場が移転した跡地に、行田市郷土博物館が開館し、御三階櫓が再建される

そして、2017年には「続日本100名城」に選定されました。

日本城郭検定について

建築(築城した人物)

忍城が建てられたのは、15世紀後期で、室町時代の中期ごろでした。
築城したのは成田正等(しょうとう)顕泰父子です。2人は養父・養子の関係です。

成田正等(しょうとう)

成田正等は室町時代後期の武蔵国の国人領主でした。

岩槻城にあった裏門となっていた黒門

当時の成田氏は関東管領である上杉氏に従っていましたが、1478年ごろ、扇谷上杉家に属する忍氏を滅ぼしました。
そのときに忍城も築かれました。

こちらは、北は群馬県との境になっている利根川、南は荒川に挟まれた低湿地帯でした。
そのため、この2つの河川や支流によって作られた自然堤防や、伏流水が湧き出て集まった沼地に残る島や高地を利用して建てられました。

忍城を造った後に、関東管領上杉氏の有力家臣である・長尾景春の乱に加担しますが敗北します。
よって、忍城を上杉氏に攻められますが、太田道灌の仲裁により降伏が許されます。
そのとき、景春と対立関係にあった長尾忠景(ただかげ)の子・顕泰を養子に迎えました。

成田顕泰(あきやす)

成田顕泰は室町時代後期から戦国時代にかけて活躍した武将です。
総社・長尾氏の5代当主・長尾忠景の3男として誕生しますが、1479年頃に成田正等の養子となります。
1480年、養父である正等が隠居したのを機に家督を継ぎました。

太田道灌を含む太田氏が勢力を振るっていたので、1509年に顕泰は忍城に移りました。

成田顕泰は戦国時代初期の永正年間に、関東・北陸地方で発生した「永正の乱」に参加しています。
彼は甥の長尾顕方らを伴って、関東管領である上杉顕実側に付きましたが、敗北してしまいます。

成田顕泰が死去したのは、1524年といわれています。

忍城の構造について

曇りの空でも、どっしり建っている忍城忍城は湿地帯を利用した平城です。
地下水や湧水が非常に豊富な地域でした。

もともと沼地だったところに島が点在する地形でしたが、それらの沼を埋め立てませんでした。
独立した島を曲輪(くるわ・城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域)として活かして、橋を渡す形で城を築きました。

当初は櫓(やぐら)を立てず、本丸も空き地としました。
城主の住む御殿や役所などは、二の丸や三の丸を利用していました。

そのような構造だったため、攻めにくく、守りやすい城であったとされています。

エピソード(関連する出来事)

忍城では「豊臣秀吉でさえ、落城しなかった城」といわれています。
その理由やいきさつをご説明しましょう。

1590年からの出来事でした。
当時、豊臣秀吉は天下統一を果たすために、関東を統治していた北条氏の拠点である小田原へ出陣します。
このとき、忍城も北条氏の支城だったため、豊臣軍の標的となってしまいます。

紙で標的の状態を表している図秀吉は、忍城を攻略するために石田三成を向かわせます。
石田三成側の軍は、総勢2万~5万人だったといわれています。

一方、当時の忍城の城主は「成田氏長」でした。
しかし、彼は主力部隊を引き連れて小田原に向かっていましたから、カラになった忍城には成田泰季(やすすえ)が城代として務めました。

泰季は戦いに備えました。
ありったけの食糧を確保し、兵や領民を城の要所に配置して、籠城戦に備えました。
しかし、泰季は開戦前に病死してしまいます。
このため、代わりに泰季の息子の「成田長親(ながちか)」が総大将となったのです。

1590年6月から、石田三成の攻撃が始まります。
三成はたくさんの兵を使って、忍城を攻略しようとしましたが、沼地に足を取られたり、自然の要塞に阻まれたりして、なかなか陥落できませんでした。

そのような三成を見て、豊臣秀吉は「水攻め」を思いついて、三成に命じました。

3つの?の四角形とひらめいた様子の虫眼鏡

水攻めとは、川をせき止めて、その水を敵の城の周囲に導入して孤立させる手法です。
秀吉がその方法を提案したのは、関東の武将たちに自分をアピールするためでもありました。
水攻めには莫大な費用と膨大な人員がかかりますので、それらを関東の武将たちに見せつけて秀吉に対するイメージを変えようとしました。

秀吉に命じられた三成は、約1週間という短期間で、「石田堤」とも呼ばれる総延長28kmにわたる大きな堤防を築いて、利根川の水を引き入れました。

利根川につながる水路

しかし、忍城は周りの土地に比べて標高が高かったため、それだけでは水没までには至りませんでした。

さらに、三成は水量を増やすため、荒川もせき止める措置を取ります。
それでも、城の本丸部分は水没しませんでした。

そうしたところに、大雨が降ります。

自然豊かな土地に降り続く大雨

あろうことか、石田堤は大雨を受けて決壊してしまいました。(これは成田長親が堤防破壊のために、兵をひそかに堤防に向かわせた説もあります)
流れ出た濁流は城内ではなく、石田軍を飲み込みます。
その後は水がはけた忍城周辺が泥沼化し、厳しい戦闘状態になっていったので、水攻めは失敗に終わりました。

結果的に、北条氏の小田原城は降伏します。
しかし、この時点で、関東はもちろん全国で最後まで抵抗を続けていたのは、忍城のみとなっていました。

忍城が持ちこたえられた環境
石田三成が造った堤防は28㎞にも及びました。
そのような長い堤防をある程度の速さで構築したわけですので、造りも雑になっていたのではないかと考えられています。
しかも、堤防が長いと監視の目も行き届かなくなります。
こうした点が重なり、忍城側は堤防を破壊することができたともいわれています。

やむなく忍城も開城となりますが、「豊臣秀吉ですら、落城できなかった城」としての功績は、現代でも伝説として伝えられています。

このエピソードは、後々映画になった『のぼうの城』のモデルとなっています。

アクセス

忍城は石田三成らによる水攻めにも耐えることができたことから「浮き城」とも呼ばれています。
現在では郷土博物館として、訪れることができます。
最上階からは行田市が一望できます。

忍城の最上階の部分を写した写真

  • 観光スポット名:忍城址・行田市郷土博物館
  • 所在地:埼玉県行田市本丸17-23
  • 電話番号:048-554-5911(行田市郷土博物館)

入館情報

【営業時間】:忍城址は終日営業、郷土博物館は9時~16時30分

【定休日】:忍城址は定休日なし/郷土博物館は、月曜日(祝日・休日の場合は開館)、祝日の翌日(土日の場合は開館)、毎月第4金曜日(企画展中の場合は開館)、年末年始

【料金】:忍城址は無料

[郷土博物館の入館料]

  • 個人/一般200円、大学・高校生100円、中学・小学生50円
  • 団体(20名以上)/一般160円、大学・高校生80円、中学・小学生40円

※全て税込金額

アクセス

公共交通機関

○JR高崎線行田駅(東口)から
・市内循環バス西循環コース(右回り)「忍城址・郷土博物館前」下車すぐ
・市内循環バス西循環コース(左回り)「行田市バスターミナル」下車徒歩約5分
・市内循環バス観光拠点循環コース「行田市バスターミナル」下車徒歩約5分

○JR高崎線吹上駅(北口)から
・行田折返し場・行田市駅・総合教育センターゆき朝日バス(前谷経由)「忍城」下車すぐ
・行田折返し場・総合教育センター・工業団地ゆき朝日バス(佐間経由)「新町1丁目」下車西へ徒歩約10分

○秩父鉄道「行田市駅」(南口)から徒歩約15分

自動車

・東北自動車道「羽生」ICより約25分
・関越自動車道「東松山」ICより約40分
・圏央道「桶川北本」ICより約30分

その他

行田市郷土博物館内の展示物の案内は、音声ガイド機により英語中国語韓国語、スペイン語、ポルトガル語で対応しています。

全国通訳案内士について

まとめ

今回は、埼玉県行田市にある忍城について、調べました。
歴史を調べてみると、いろいろな戦乱の苦難が詰まっていました。
しかし、どれだけ攻められても、落城しなかったことですから、築城した成田正等・顕泰父子はすごいなと思います。

行田市では、忍城の頑丈さにあやかって「落ちないお守り」というものが人気です。

受験用のお守りと桜とダルマ

このお守りには「人気が落ちない」「上昇運が落ちない」「成績が落ちない」「業績が落ちない」「試験に落ちない」などのご利益があります。

忍城の伝説は、現代の行田市でも大切に受け継がれています。
みなさんも「続日本100名城」の一つともなっている忍城を、見に行きませんか?

 

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