服部半蔵といえば、小説や時代劇、ゲームなどで「伊賀忍者」として一度は名前を聞いたことがあるかと思います。
その背景として、
・国内外で忍者を取り扱った作品が人気
・忍者として思い浮かべるのは伊賀と甲賀
・服部半蔵は伊賀を統括していた
などが挙げられます。
その一方で、何かと謎の多い人物でもあります。
そこで今回は服部半蔵について調べてみました。
Contents
概説
冒頭でも記した通り、多くの方が服部半蔵は一人の忍者であると認識しています。筆者も調べるまでそのように思っていました。
服部家は代々伊賀忍者の家系なので間違いではないのですが、補足があります。
まず、服部半蔵という名は、戦国時代から江戸時代にかけて徳川家に仕え、12代続いた服部家の当主が名乗る通称です。
また意外にも、初代服部半蔵保長以外は「忍術使いではなかった」とされています。
服部家の中で最も歴史に名を残したのが、2代目の「服部半蔵正成」です。
正成は徳川家康に仕え、16歳で初陣を遂げて以降、数々の合戦において功績を挙げていった武将です。
とりわけ「本能寺の変」の後、徳川家康の伊賀越えに貢献した逸話は有名です。
揺るぎない忠誠心と卓越した戦いぶりから、家康からの信頼も厚く、家康が東京に移った際には江戸城裏門の警備を任されたほどです。
長年の功績が称えられ、徳川十六神将の一人に挙げられています。
これ以降は、2代目の服部半蔵正成に焦点を当てていきます。
人物像・逸話
徳川家に仕えるようになった経緯
正成の父であり初代服部半蔵の保長は、上忍三家「千賀地(せかち)」の出身です。
伊賀国花垣村(三重県伊賀市)で忍者の頭領でしたが、伊賀を離れて上京し、室町幕府の12代将軍・足利義晴に仕官するようになりました。
その後、室町幕府に見切りをつけた保長は三河に赴き、徳川家康の祖父である松平清康に仕えるようになります。
それ以降服部半蔵は徳川家に仕えるようになり、息子である正成も徳川家康に従いました。
槍の名手
正成は槍の名手として知られています。
服部半蔵と伊賀忍者について
伊賀忍者は日本で最も有名な忍者流派の一つです。火術や呪術を得意としていました。
火術は火薬を使用したもの、一方呪術では九字護身法が伊賀忍者の代表的な技でした。
また、物語では甲賀とはライバル関係であるとされていますが、実際は協力関係にありました。
「本能寺の変」の後、徳川家康が無事に三河へ到着できたのは、この協力関係があったことが要因に挙げられます。
松尾芭蕉との関係
松尾芭蕉は江戸時代の俳人です。日本各地を巡り、『おくのほそ道』を書き記しました。
なぜここで松尾芭蕉の名が出てきたかというと、
『服部半蔵と松尾芭蕉は同一人物の可能性がある!?』
という説を耳にしたことがあるからです。
・伊賀出身である
・『奥の細道』で46歳という年齢にも関わらず、毎日約40kmもの距離を歩き続ける体力があった
などの理由から、そのような説がささやかれるようになったようです。
松尾芭蕉の生きた時代を考慮すると、正成が当てはまるのではと予想されます。
とはいえ、正成と松尾芭蕉は時代が異なりますし、証拠となる文献は現在まで発表されていないので、現時点で同一人物とするのはさすがに無理がありそうですね。
それでも、二人とも伊賀に関連していることから、何かしら関係性がある可能性は一概に否定できません。筆者個人的には、このような説はロマンがあって面白いと思います。
活躍した時代
服部半蔵正成が生きた時代は戦国時代・安土桃山時代です。
大名同士は軍を率いて合戦を行い、同時に農民たちによる一揆も頻発していました。
現代でいう「内戦状態」が約140年もの間続く、大変な時代でした。
ところで、「腹が減っては戦はできぬ」と言われますが、戦において食事は非常に重要でした。また、食事にありつくために戦に参加する武士や農民も少なくなかったそうです。
では戦国大名は戦の際、どのようなものを食していたのでしょうか。代表的なものを数点挙げていきます。
握り飯
これは現代でも定番の携帯食です。ご飯は現代では白米が主流ですが、当時は玄米や麦飯でした。
兵糧丸
兵糧丸は大名や武士たちが戦中に携帯していた保存食です。
元々、忍術秘伝書にレシピが掲載されていたことから忍者の食べ物というイメージがありますが、戦国武将たちの必需品でもあります。
他にも、焼みそを丸めた「味噌玉」や、サトイモの茎を縄状にして、味噌や酒、鰹節で煮込んで乾燥させた「芋がら縄」などがあります。
現代人はビタミンやミネラルが不足していると言われています。今の食事にも取り入れたい食材がたくさん含まれていますね。
年譜
主な年譜は以下の通りです。
・1542年:三河国伊賀(現在の愛知県岡崎市)で生誕する。父親は初代服部半蔵である服部保長。
・1557年:初陣。三河宇土城を夜討ちし、戦功をあげる。
この一件が家康から評価され、槍を賜る。
・1570年:「姉川の戦い」において一番槍の功名を上げる。
・1572年:「三方ヶ原の戦い」において、一番槍の功名を上げる。
その褒美として、徳川家康から槍を賜り、伊賀集150人を預けられる。
・1582年:本能寺の変が起きる。このとき堺にいた徳川家康一行を無事に三河に送り届ける(神君伊賀越え)。
その後、警護役に当たった忍者たちは家康の隠密団となり、正成にその統率を命じた。
・1582年~1590年:「天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)」や「小牧・長久手の戦い」をはじめ、様々な合戦に忍者集団を率いて参戦する。
・1590年:小田原討伐後、徳川家康は関東に移封。
歴戦の戦果から、この頃には、正成は遠江に8000石を与えられ、伊賀同心200人を支配していた。
さらに、家康から江戸城麹町口 (こうじまちぐち) 門外に組屋敷 (くみやしき) を拝領し、江戸城の裏門の警備に当たる。そこが現在の「半蔵門」である(名の由来は諸説あり)。
・1596年:死去 ※1597年という説もあり
まとめ
服部半蔵は一人の人物名ではなく、服部家の当主が名乗る通称です。
また、代々忍びの家系であるため忍者と認識されがちですが、実際に忍者だったのは初代服部半蔵保長のみと言われています。
皆さんが良く知る服部半蔵は、2代目の服部半蔵正成です。
正成は家康に従い、多くの戦で手柄を立てます。そのため、家康からの信頼は厚く、江戸麹町口の門外に組屋敷を拝領し、江戸城の警備に当たりました。
そこは今、半蔵門と呼ばれています(名の由来は諸説あり)。
徳川家康は戦乱の世に終止符を打ち、初代征夷大将軍となった人物です。そのような人物に生涯付き従った正成には、やはり先見の明があったように思えます。
それも忍びの家系に生まれた彼の能力なのでしょうか。
以上服部半蔵についてお伝えしました。
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〇炭水化物として:米やそば粉、玄米など
〇脂質・タンパク質・ミネラルとして:そば粉、きな粉、穀物、野菜、豆類、胡麻など
これらに加え、漢方薬も入っており栄養満点です。少量でも腹が満たせるため、とりわけ遠征などで食されていました。