皆さんは、早ければ小学生時代には芥川龍之介の名前を聞くと思います。
「羅生門」で有名な彼を知らない人はいないでしょう。
今回は数々の名作を残し、最期は自殺してしまった芥川龍之介の人生に迫ってみます。
Contents
概説
芥川龍之介といえば、「羅生門」「鼻」「地獄変」「歯車」などを執筆した作者として知られています。
芥川龍之介は現在の東京都中央区明石町の牛乳製造販売をやっていた、父・新原敏三と母・フクの長男として生まれました。
生まれて7か月がたったころに、母のフクが精神に異常をきたしてしまい、現在の東京都墨田区両国のフクの実家に預けられます。
預けられたものの、11歳になるころには母のフクが亡くなってしまいます。
その翌年に、母のフクの実兄である叔父の芥川道章の養子となりました。
そして、名前も芥川姓を名乗ることになりました。
芥川家は江戸時代に代々徳川家に仕えていたとされ、芸術や演芸を愛していたとされています。
芥川龍之介は、1998年には尋常小学校に入学します。(これは現在の墨田区立両国小学校のことです)
そして、東京府立第三中学校を卒業する際には、成績が優秀である「多年成績優等者」の賞状を受けるのです。
1910年には第一高等学校第一部乙類英文科に入学します。
中学時代に成績が優秀であったため、なんと無試験入学の範囲に入っていたのでした。
1913年には、難関大学である東京帝国大学文科大学英文学科へ進学します。
在学中の1914年2月には、クラスメイトとともに同人誌である「新思潮」を出します。
この新思潮が10月に廃刊となるころには、同人誌上の中に処女作である「老年」を出します。
これが芥川龍之介作家活動の始まりとなりました。
そして、1915年10月には、あの有名な「羅生門」」を芥川龍之介の名前で発表したのでした。
1916年に第4次新思潮を出す際、そこに載せた「鼻」がなんと夏目漱石に絶賛されます。
大学を卒業し、海軍機関学校の嘱託教官になるとともに、傍らで創作を続け、短編集である「羅生門」を世に出します。
1919年3月、海軍機関学校の教職を退職し、大阪毎日新聞社に入社します。創作に専念するとのことでした。
1919年3月12日、友人の山本喜誉司の姉の娘である塚本文と結婚をします。
1920年の3月30日には、長男である芥川比呂志が生まれました。
そして1921年3月、海外視察員として中国の北京を訪れます。
胡適と検閲の問題などについて語り合い、7月には日本に帰国します。この時『上海遊記』以下の紀行文を書いたとされています。
アメリカに留学し、帰国後に中国の新文化運動の旗手を担っていた胡適は、当時北京大学で教鞭をとっていました。
この旅行の後に、芥川龍之介は心身が衰えたとされています。
1925年のあたりには、文化学院文学部講師に就任します。
しかしながらも、1926年には胃潰瘍と神経衰弱、不眠症を患い療養します。
1927年の1月に、義兄である西川豊が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられてしまい、自殺してしまいます。
芥川龍之介には、西川が遺した借金や家族の面倒を見る必要がありました。
大変な中で執筆はしていたものの、7月24日には大量の睡眠薬を飲んでしまい、自殺してしまいます。
人物像・逸話
彼の家族は教育熱心であり、幼少期から文学や漢詩などの教養を身につける機会に恵まれました。
しかし、母親が亡くなり預けられた芥川龍之介は、常に「良い子でいなければ見捨てられてしまう」という気持ちを持っていました。
幼少期から精神的な葛藤や孤独感を抱えており、これは後に彼の作品にもしばしば反映されることになります。
彼の初期の作品は、西洋の文学や哲学からの影響を強く受けており、その後の彼の作風にも大きな影響を与えました。
彼の代表作には、「蜘蛛の糸」や「羅生門」などがあります。
これらの作品は、人間の心理や道徳、善悪の観念を巧みに描写しており、芥川の独創性と文学的才能を示すものとされています。
また、彼の作品にはしばしば神秘主義的な要素や象徴的な意味が込められており、その解釈には多くの議論がなされています。
しかし、芥川の生涯は作品のみならず、彼自身の苦悩や葛藤も含まれています。
彼は精神的な不安定さや自己否定に苦しむ一方で、文学界での成功や賞賛も受けていました。
この葛藤は彼の作品にも反映され、その作品にはしばしば暗いテーマや不安定な心理状態が表現されています。
1927年、芥川は自らの人生に終止符を打ち、自殺を遂げました。
芥川龍之介の親友の菊池寛は葬儀の際に、弔辞を読む途中からは涙が止まらなかったとされています。
彼の死は文学界に衝撃を与え、彼の作品と人物像に新たな関心をもたらしました。
その後も彼の作品は多くの読者に愛され続け、その文学的遺産は今日でも色褪せることはありません。
活躍した時代
芥川龍之介は、20世紀初頭に活躍した日本の作家であり、その文学的才能と独創性によって、日本の文学史に深い足跡を残しました。
彼の活躍した時代は、日本が急速な近代化と文化の変革を遂げる中で、新しい文学の潮流が生まれる時代であり、芥川はその中心的な存在として輝きました。
芥川の活躍した時代は、明治時代末期から大正時代にかけての期間に当たります。
この時代は、日本が西洋の文化や思想との交流を深め、急速な近代化を遂げる時期でした。
特に文学界では、新しい表現やテーマが求められ、様々な文学運動が展開されました。
芥川が文壇に登場したのは、まさにこの時代でした。
彼は西洋の文学や哲学に深い関心を持ち、その影響を受けながらも独自の作風を築いていきました。
彼の初期の作品は、ドストエフスキーやフロイトの思想からの影響が見られますが、それらを日本の環境や文化に織り交ぜて独自の世界を構築しました。
芥川の作品は、その当時の日本社会や文化の転換期を反映しています。
彼の作品には、伝統と現代性、倫理と道徳の対立、個人と社会の葛藤など、当時の日本社会が直面していた問題が鋭く描写されています。
特に彼の代表作の一つである「羅生門」は、そのような社会的混乱や人間の心理を巧みに描き出した作品として知られています。
また、芥川の活躍した時代は、文学界だけでなく、政治や社会の動きも激しく変化していました。
大正デモクラシーの台頭や社会主義運動の盛り上がりなど、社会的な不安定さや変革の波が日本を席巻していました。
これらの動きは、芥川の作品にも影響を与え、彼の作品には時代の息吹や社会的な矛盾が反映されています。
芥川の作品は、その後の日本文学に深い影響を与えました。
彼の独創的な作風や複雑な心理描写は多くの後続の作家に影響を与え、彼の作品は今なお多くの読者に愛され続けています。
そのため、芥川の活躍した時代は、日本文学史においても特筆すべき時期とされています。
総括すると、芥川龍之介の活躍した時代は、日本が急速な近代化と文化の変革を遂げる中で、新しい文学の潮流が生まれる時代でした。
彼はその中心的な存在として、西洋の文学や哲学からの影響を受けながらも独自の作風を築き上げ、日本の文学史に不朽の名作を残しました。
年譜
1892年
東京市京橋区入船町で牛乳店の長男として生まれる
生後7ヵ月で母が精神に異常をきたし、母の実家・芥川家に預けられる
1898年
江東尋常小学校に入学する
1903年
母フクが死去
1904年
叔父・道章の養子となり、芥川姓を名乗る
1910年
第一高等学校第一部乙類に入学する
1913年
東京帝国大学文科大学英文学科に入学する
1914年
友人らと同人誌「新思潮」を刊行
1915年
「芥川龍之介」名で「帝国文学」に「羅生門」を発表する
鈴木三重吉の紹介で夏目漱石の門下に入る
1916年
第四次「新思潮」の創刊号に掲載した「鼻」が夏目漱石に絶賛される
東京帝国大学文科大学英文学科を卒業
海軍機関学校の嘱託英語教官となる
1917年
海軍機関学校の教職を辞して、大阪毎日新聞社に入社
1919年
塚本文と結婚する
1920年
海外視察員となり、中国を訪れる
日本に帰国、心身が衰えはじめ神経衰弱、腸カタルなどを病む
長男・比呂志が誕生
1922年
次男・多加志が誕生
1923年
湯河原町へ湯治に赴く
1925年
文化学院・文学部講師に就任
三男・也寸志が誕生
1927年
西川豊が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられしまい、鉄道自殺する
谷崎潤一郎との文芸論争
自身の秘書の平松麻素子と帝国ホテルで心中未遂
それとは別に、7月24日致死量の睡眠薬を飲んで自殺
まとめ
いかがだったでしょうか?
幼少時代から取り巻く環境や、芥川龍之介の繊細さなどを感じていただけたら幸いです。
この記事を見て、芥川龍之介の作品を読みたい!となったら是非読んでみてくださいね。
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