近代日本史に、多大なる影響を及ぼした夏目漱石。
現在においても、彼が残した作品達は、数多くの人を魅了しています。
そんな夏目漱石の人生について、人物像や逸話などもふまえてご紹介します。
概説
「夏目漱石」こと金之助は、江戸時代後期にあたる、慶応3年(1867年)に産れました。
教科書や課題図書で、誰でも一度は目にしたことがある人物です。
今日、通用する「言文一致の現代書き言葉」を作った近代日本文学の文豪のうちの一人です。
また、紙幣にも採用されるなど私達も身近に感じる、作家の一人です。
人物像・逸話
産まれは、1867年(慶応3年)2月9日、現在の東京都新宿区喜久井町です。
家族構成は、その当時に町名主で権力者の「夏目小兵衛直克」と母親の「千枝」の間に、8人兄弟の末っ子として産まれました。
幼少き頃は、夏目漱石にとって波乱でした。
4か月で里子に出されたり、また養子に出されたりと複数の家をたらい回しされたそうです。
両親共に、高齢であった為(父は50歳、母は41歳)、母親の千代が次の言葉を残したと言います。
「こんな年齢(とし)をして懐妊するのは面目ない」というエピソードがあります。
夏目漱石は、俳句を生涯で2400近く読んでいます。
その中でも、母親について読んだ俳句は4つしかありません。
どの句も、母親から与えられなかった、愛情を強く渇望している句ばかりです。
ところで、何度も転校を余儀なくされた夏目漱石ですが、大学予備門への入学を目標としたものでした。
12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の都立日比谷高校)に入学しました。
そして、1884年に念願の大学予備門学科に入学します。
1886年に虫垂炎を患ったことで進級試験が受けられず落第してしまうものの、私立学校で教師などをして生活し、学業に励んだとされています。
どの教科も優秀で、主席だったそうです。
特に、英語については他の人より、ずば抜けて良かったそうです。
1889年に同窓生として生涯の親友となる、正岡子規と出会います。
正岡子規はすでに俳人として活動をしていて、彼のペンネームの1つ「漱石」を譲り受けたことで「夏目漱石」と名乗るようになります。
正岡子規との出会いで、今後の人生を変える大きなきっかけとなりました。
ここで、自由奔放な正岡子規と真面目だった夏目漱石のエピソードを、いくつかご紹介します。
先ずは、出会いのエピソードをご紹介します。
同じ年に生まれ、親友だった俳人・正岡子規と、小説「坊っちゃん」を書き残した文豪・夏目漱石。
彼らは、互いにその才能を認め合い、友情を育み、やがて日本の近代文学に大きな足跡を残しました。
特に、正岡子規は夏目漱石に対し、英語に限らず、漢文にも抜群の才能があることに驚き「君は千万人中の一人なり」と褒めたたえました。
そして、それぞれの道を歩むふたりに、再会の時が来ます。
明治28年(1895)年8月、松山に赴任していた漱石の下宿「愚陀仏庵」に、帰省した子規が身を寄せ、52日間のふたりの共同生活が始まります。
ふたりのもとには、柳原極堂をはじめとする松山の俳句結社「松風会」の会員たちが連日のように押しかけたと言われています。
漱石もまた、子規から熱心に俳句を学ぶようになり、俳号を「愚陀仏」とししました。
ふたりは、芝居や道後温泉へ出かけるなど、松山生活を楽しみ友情を深めたのでした。
その後、子規は、松山で新しい俳句についての考えをまとめ、漱石と極堂は子規の俳句革新運動を支えました。
この52日間に及ぶ2人の精力的な活動は、後の近代文学に多大なる影響を与えました。
・行く我に とどまる汝に 秋二つ (子規)
【意味】
漱石は、子規が愚陀仏庵を去り上京する折に「気を付けて行ってらっしゃい」と送別の句を送りました。
子規は「二人二様のそれぞれの秋を過ごす事になるだろう」と、漱石の句に応えています。
子規が愚陀仏庵で夏目漱石と同居して頻繁に句会を開いていた頃、昼頃になると子規は勝手に蒲焼きなどを取り寄せて食べていました。
そして東京に帰る事になった時、見送りに来た漱石に対して「悪いが、今までの昼食代のツケを払っておいてくれ」と告げます。
さらに子規は「ついでに、十円ほど金を貸してくれないか?」と言い出し、漱石は半ば呆れてしまいました。
数日後、奈良にいる子規から漱石宛に一通の手紙が届きます。
「恩借の金子は当地にて遣い果たし候」
【意味】
”恩借の金子は当地において、まさに遣い果たし候とか何とか書いてあり、恐らく一晩で遣ってしまったものであろう。”
この手紙を受けとった、夏目漱石はホトホト呆れ返ったと思われますが、正岡子規らしいと思ったに違いません。
正岡子規が、松山を発って、上京途中に奈良を立ち寄った際に詠んだ句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」はあまりにも有名ですね。
活躍した時代
夏目漱石が生まれたのは、1867年で大政奉還の年です。
漱石が生きた時代に、日本は、日清戦争、日露戦争に勝利し、第一次世界大戦へと進んでいきました。
また、彼は、戦争、明治維新、近代化、西欧化という激動の時代を生きた人です。
波乱の人生だったと言えます。
創設間もなかった帝国大学(現在の東京大学)英文科を卒業しました。
それから、愛媛県尋常中学校へ英語の教師として赴任したり、熊本の高等学校教師などを歴任したりしました。
1900年(明治33年)に国の命により、イギリスへ留学をしています。
が、留学中にひどい神経衰弱に陥った夏目漱石は、日本に急遽、志し半ばでの帰国せざるをえませんでした。
その後、母校である東京帝国大学(現在の東京大学)の講師や、朝日新聞の社員として働くなどしていました。
そのような中、当時子規の遺志を継いで『ホトトギス』を経営していた高浜虚子が気分転換に小説を書くようにすすめました。
『吾輩は猫である』の第一回は、明治38年(1905)1月発行の雑誌『ホ トトギス』第8巻第4号に掲載されました。
漱石は、一回限りのつもりで書きましたが、大きな反響を呼び第十回まで同誌に断続的に掲載されたそうです。
「猫」の目を通して人間を風刺的に描いた作品で、ユーモアもありますが、当時の社会、当時の人間の生き方に対する厳しい批判が描かれています。
漱石は、その頃には自然派が主流であったのに対し、余裕派と呼ばれました。
- 余裕派とは、人生に対して余裕を持って望み、高踏的な見方で物事を捉える事。
- 自然派は、日露戦争前後に盛んになったもので、人間の内面をえぐり出すような作風。
自然派の代表作としては、島崎藤村の 『破戒』 があります。
その頃から、夏目漱石は作家として生きていく事を望むようになりました。
その後も、精力的に執筆活動をし始め、夏目漱石前期三部作を発表します。
それが、『三四郎』、『それから』、『門』の3作品です。
それに対し後期三部作は『彼岸過迄』、『行人』、『こころ』の3作品です。
この中でも、特に有名なのが高校の教科書にも掲載されている『こころ』です。
人間の心の深奥に迫る読み応えのある作品で、何度か映画化されています。
しかし、前期3部作のうち、『門』を執筆のさなか、胃潰瘍を患ってしまいます。
この胃潰瘍が大変酷く、800gにも及ぶ大吐血を起こし、漱石は危篤状態に陥ったそうです。
「修善寺の大患」と呼ばれる事件で、彼にとってこの体験は、それ以降の作品に大きな影響をもたらします。
1916年(大正5年)、5月『明暗』を『朝日新聞』に連載します。( – 12月)
しかし、同年12月9日 – 午後7時前、胃潰瘍により死去しました。
戒名・文献院古道漱石居士。
死後、遺体は解剖され、脳と胃は寄贈されました。
今現在は、脳は東京大学医学部にホルマリン漬けされた状態で保管されています。
年譜
年 | 漱石の年 | 出来事 |
1867年 | 0歳 | 現在の東京都にて生まれる。本名は「夏目金之助」。 |
1868年 | 1歳 | 父親の知人であった塩原昌之助の養子となる。 |
1876年 | 9歳 | 養父母の離婚。夏目家に戻る。 |
1879年 | 12歳 | 東京にあった第一中学校正則科に入学、以後、英語を学ぶために学校を転々とす。 |
1884年 | 17歳 | 大学予備門(後の第一高等学校)に入学 |
1889年頃 | 22歳 | 俳句を作ったことで知られる正岡子規と交流を開始。 |
1890年 | 23歳 | 帝国大学(後の東京帝国大学)の英文科に入学して英語を学ぶ。 |
1893年 | 26歳 | 帝国大学卒業。学校の先生になる。 |
1900年 | 33歳 | イギリスに留学する。 |
1905年 | 38歳 | 雑誌『ホトトギス』に処女作『吾輩は猫である』を発表。 |
1907年 | 40歳 | 東京朝日新聞に入社。職業作家となる。自身初の新聞連載小説『虞美人草』を執筆。 |
1910年 | 43歳 | 胃潰瘍を患い、伊豆・修善寺で意識不明となる。 |
1916年 | 49歳 | 胃潰瘍のため亡くなる。漱石の死により、連載小説『明暗』は未完成のまま終了。 |
まとめ
ここまで、夏目漱石の生い立ちから、どのようにして近代文学史に残る作家になったのかご紹介しました。
幼少期から、不遇であった夏目漱石。
当時の大学予備門で、生涯の友であった正岡子規に出会った事で、大きな人生の転換期に恵まれます。
彼に触発を受け、精力的に活動します。
ただ、正岡子規と同じく闘病しながらの壮絶な人生を歩みます。
互いを高め合い、尊敬する事を忘れなかった、夏目漱石と松岡子規。
幕末の時代に産れ、近代史に大きな革命を残した、代表する人物でした。
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どの句も、とても切ないものばかりですね。