太宰治の本名は、津島修治(つしましゅうじ)です。
沢山の小説を残している太宰治について、取り上げさせていただきます。
Contents
- 1 概説
- 2 人物像・逸話
- 3 活躍した時代
- 4 年譜
- 4.1 明治四十二年:1909年:0歳
- 4.2 大正五年:1916年:7歳
- 4.3 大正十一年:1922年:13歳
- 4.4 大正十二年:1923年:14歳
- 4.5 大正十四年:1925年:16歳
- 4.6 昭和二年:1927年:18歳
- 4.7 昭和三~五年:1928年~1930年:19歳~21歳
- 4.8 昭和四年:1929年:20歳
- 4.9 昭和五年:1930年:21歳
- 4.10 昭和六年:1931年:22歳
- 4.11 昭和七年:1932年:22歳から23歳
- 4.12 昭和八年:1933年:23歳から24歳
- 4.13 昭和十年:1935年:25歳から26歳
- 4.14 昭和十一年:1936年:26歳から27歳
- 4.15 昭和十二年:1937年:27歳から28歳
- 4.16 昭和十三年:1938年:28歳から29歳
- 4.17 昭和十四年:1939年:29歳から30歳
- 4.18 昭和十五年:1940年:31歳
- 4.19 昭和十六年:1941年:31歳から32歳
- 4.20 昭和十七年:1942年:32歳から33歳
- 4.21 昭和十八年:1943年:33歳から34歳
- 4.22 昭和十九年:1944年:34歳から35歳
- 4.23 昭和二十年:1945年:35歳から36歳
- 4.24 昭和二十一年:1946年:36歳から37歳
- 4.25 昭和二十二年:1947年:37歳から38歳
- 4.26 昭和二十三年:1948年:38歳から39歳
- 5 まとめ
概説
太宰治は300作近い作品を残しています。
走れメロスは、1950年代後半から現在まで、中学校の国語の教科書で取り上げられています。
人物像・逸話
太宰治という人物は、暗い性格であったといわれています。
感受性が強くて情緒不安定なことが多く、他人を信用せずに、人を恐れているようなところがあったようです。
何度も自殺や心中をしています。
最後の心中でも、入水したあとで死ぬまいとして、河原に下駄でこすったような跡が残っていたといわれています。
・人生で何度も自殺未遂、心中未遂事件を起こす。
・「芥川賞ください」という4メートルもある手紙を送る。
・自身の作品を川端康成に酷評されたことに腹を立て、「川端康成へ」と、名ざしの恨み節文章を雑誌に掲載。
・バルザックに憧れる。太宰治は、人間の多様性や複雑さ、社会的な側面を描いたバルザックに関心を示しています。ちなみに、オノレ・ド・バルザックの「ド」は貴族を気取ったバルザックの自称である。
活躍した時代
太宰治は昭和初期の文豪です。
同じ時代の小説家には、井伏鱒二、川端康成、三島由紀夫などがいます。
また、太宰治は芥川龍之介に憧れていた作家だったといわれています。
芥川龍之介の作品に書き手として憧れていただけでなく、端正な顔立ちにも憧れていました。
作風として芥川龍之介に憧れていたのは、さりげなく人間観察を書き入れるところといわれています。
その深い人間理解、洗練された文体から影響を受けています。
太宰治は、1909年生まれで1948年に亡くなっていますが、同じ時代に何があったかを並べさせていただきます。
1909年
伊藤博文、暗殺される。
1912年
タイタニック号沈没。
日本が初めてオリンピックに参加する。
明治天皇崩御。大正に改元される。
1914年
第一次世界大戦
1921年
日本でメートル法が公布される。
原敬首相が東京駅で暗殺される。
1923年
関東大震災が起きる。
1926年
大正天皇崩御。昭和に改元される。
1933年
蟹工船の小説家、小林多喜二が虐殺される。
日本が国際連盟から脱退する。
1935年
第1回芥川賞・直木賞
1939年
第二次世界大戦が勃発する。
1941年
1945年
東京大空襲。広島・長崎に原爆投下。
太平洋戦争が終結する。
1947年
労働基準法が公布される。
独占禁止法が公布される。
第一回選挙が実施される。
日本国憲法が施行される。
最高裁判所が発足される。
戦後初の国会が開催される。
1948年
ガンジーが暗殺される。
民主自由党が結党する。
イスラエル共和国、成立宣言。
太宰治入水。死去。死亡推定月日:6月14日午前零時
年譜
和暦:西暦:太宰治の年齢
明治四十二年:1909年:0歳
太宰治は、6月19日に青森県北津軽郡金木村大字金木字朝日山(現在の五所川原市)414番地に生まれます。
本名は津島修治です。
六男であるけれども、二兄は、早世します。兄が三人、姉が四人です。
両親から生まれた子が11人いる中で、太宰治は10番目の子です。
その他に、曾祖母、祖母、叔母とその娘が四人いる大所帯でした。
父は衆議院議員、貴族院議員(多額納税による議員)を歴任します。
長兄の文治は、戦後民選の青森県知事を四期務めました。
大正五年:1916年:7歳
太宰治は金木町立尋常小学校に入学します。
尋常小学校とは、ここでは第二次世界大戦前の小学校の一種です。
1886年(明治19年)の小学校令で、小学校を尋常小学校4年、高等小学校4年としました。
さらに、1907年(明治40年)では尋常小学校6年、高等小学校2年として、1941年までこの制度が続いていました。
大正十一年:1922年:13歳
やがて、太宰は金木町他合同立の明治高等小学校に入学します。
大正十二年:1923年:14歳
太宰の父が亡くなります。当時、父は貴族院の議員でした。
長兄の文治が津島家を相続します。
4月に太宰は県立青森中学校に入学します。青森市内に下宿していました。
大正十四年:1925年:16歳
青森中学校交友会誌、同人誌などに、練習で小説・戯曲を書き始めます。
昭和二年:1927年:18歳
旧制弘前高等学校文科に入学します。この頃は弘前市内に下宿します。
7月に芥川龍之介の死に衝撃を受けます。
9月に小山初代との出会いがありました。
小山初代は、後の太宰治の内縁の妻です。
太宰治の小説の「姥捨」や「東京八景」などに登場する人物のモデルになったといわれています。
昭和三~五年:1928年~1930年:19歳~21歳
同人誌、弘高新聞や校友会誌などに、練習した作品としてコント風の作品が掲載されました。
昭和四年:1929年:20歳
12月に自殺未遂を起こします。
昭和五年:1930年:21歳
4月、東京帝国大学仏文科に入学します。
当時、仏文科は不人気で無試験でした。
それを当て込んで仏文科に出願しますが、たまたま1930年には仏文科でもフランス語の入試がありました。
そこで当てが外れたので、他の志願者とともに試験場で手を挙げて、試験官に事情を話して特別の配慮で入学を認められます。
しかし、入学したものの、講義についていけずに、美学科や美術史科へ転科を検討します。
当時は東京戸塚に下宿していて、5月に井伏鱒二と出会います。小説家になるために、彼に弟子入りもします。
ですが、このあたりから、非合法運動に参加するようになります。
他にも、小山初代が家出して、太宰のもとへ行ったのもこの年でした。
彼は一旦、帰郷しますが、11月に初代の件で実家から分家させられます。
ですが、太宰は同月に田部あつみと心中未遂をします。田部あつみのみ死亡しました。
田部あつみは、銀座のカフェで働いているときに、太宰治と知り合った人です。
田部あつみという名前は、銀座のカフェで働いているときの仮名です。本名は田部シメ子です。
三度しか会っていない太宰と共に鎌倉へ行き、心中を図ります。
昭和六年:1931年:22歳
2月に初代が上京します。初代との新居を品川区五反田にしましたが、夏には住まいを神田同朋町にします。
そして、11月には神田和泉に転居します。
この年に、工藤永蔵からの要請で再び非合法活動を始めます。
小説を書かないに近い状況の中で、俳諧に関心を示します。
昭和七年:1932年:22歳から23歳
「思い出」や「ねこ」といった小説を書きます。
この頃も、非合法活動のため、淀橋や日本橋などを転居します。
(淀橋区は、現在では新宿区の西部で、現在では、地名としては残っていません。)
やがて、兄の勧めで青森警察署に自首し、左翼との関係を絶ちます。
9月に芝白金三光町に転居。
12月に青森検事局に出頭する。
昭和八年:1933年:23歳から24歳
2月に、太宰治をペンネームとした最初の小説「列車」を執筆します。
3月に「魚服記」、4、6、7月に「思い出」を発表し、雑誌に掲載されます。
昭和十年:1935年:25歳から26歳
3月、東大の落第が決定します。都新聞社入社試験にも失敗します。
そうしたことが重なり、鎌倉で自殺未遂をします。
それとは別に、4月に盲腸炎のため入院し、腹膜炎を併発して重体となります。
麻薬性鎮痛剤であるパビナールを多用し、以後その中毒で苦しみます。
7月には千葉県船橋へ転居します。
8月には「逆行」が第一回芥川賞次席となります。
やがて、東大を除籍します。
昭和十一年:1936年:26歳から27歳
2月にパビナール中毒により、入院します。
8月に第三回芥川賞に選ばれず、衝撃を受けます。
10月にパビナール中毒が激しく、再び入院します。
11月に退院し、執筆を開始します。
同月に熱海温泉に行き、その間に「二十二世紀旗手」を脱稿します。
しかし、この頃、初代は太宰の義弟と関係を持っていました。
12月、太宰は金を使い果たして、友人の檀一雄を置いて一人で帰京します。
昭和十二年:1937年:27歳から28歳
太宰に初代と義弟との関係が明らかになります。
3月、太宰は初代と水上温泉へ行き、心中未遂をします。
やがて初代とは離婚し、彼女は青森へ帰ります。
6月に、太宰は杉並区へ転居します。
昭和十三年:1938年:28歳から29歳
9月、石原美知子と甲府石原方で見合いをします。11月には彼女と婚約します。
昭和十四年:1939年:29歳から30歳
1月8日、美知子と結婚式を挙げます。
甲府市に住みますが、9月には三鷹村に転居します。
昭和十五年:1940年:31歳
「走れメロス」などを刊行します。
昭和十六年:1941年:31歳から32歳
6月、長女が誕生。8月には10年ぶりに故郷に帰省します。
この頃文士徴用令書(徴兵)を受けますが、胸部疾患を理由に免除されます。
昭和十七年:1942年:32歳から33歳
初代は青島(チンタオ)で亡くなります。
10月には、太宰の母も死去します。
昭和十八年:1943年:33歳から34歳
1月、亡き母の法要のために妻子を伴い、帰郷します。
「雲雀の声」が完成しましたが、小山書店から検閲不許可のおそれありと出版を中止されます。
戦後に、「パンドラの匣」と改題・改作して出版します。
昭和十九年:1944年:34歳から35歳
文学報国会から大東亜五大宣言の小説化を依頼されて、「惜別」の執筆を考えます。
5月から6月には小山書店から「津軽」を依頼されて、津軽旅行をします。
8月には長男が誕生します。
他には「佳日」が「四つの結婚」と題して映画化されます。
昭和二十年:1945年:35歳から36歳
東京大空襲が理由で3月末に妻子が甲府に疎開します。4月2日に罹災したため、太宰も同月に甲府へ疎開します。
7月「お伽草紙」が完成します。7月7日に甲府も空襲に遭い、石原家が全焼します。
7月末に妻子と津軽へ再疎開します。
8月15日、日本は敗戦を迎えます。
昭和二十一年:1946年:36歳から37歳
太宰一家は三鷹に帰ります。
この頃、祖母のいしが死去します。
昭和二十二年:1947年:37歳から38歳
3月に次女の里子が誕生します。
5月に「青の枯葉」が伊馬春部の脚色演出で、NHKからラジオ放送されます。
12月に、単行本「斜陽」が出版されます。
にもかかわらず、同月に太宰は睡眠薬の大量摂取をしています。
当時、太宰には家族や愛人との問題がありました。
昭和二十三年:1948年:38歳から39歳
太宰は6月13日に、山崎富栄とともに玉川上水に入水します。
山崎富栄(28歳没)は美容師で太宰治の愛人の一人です。
同月19日に遺体が発見されます。
7月18日に、三鷹禅林寺に埋葬されます。
法名:綵院大猷治通居士(ぶんさんいんだいゆうじつうこじ)
回数は定かではないところがありますが、太宰治は未遂も含めれば何度も自殺をしたといわれています。
そのうち、心中も何度かありました。
自殺を試みた回数は、8回ほどと思われます。
最後の1回で、心中を遂げています。
ただし、最後の1回も、相手である山崎富栄による無理心中だったという説もあります。
1998年に遺族らが公開した太宰治の遺書からは、「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と動機が綴られていました。
太宰治の自殺は、太宰治が憧れていた芥川龍之介が自殺しているので、その影響も大きくあったと思われています。
まとめ
昭和の文豪・太宰治について取り上げさせて頂きました。
太宰治は、300近くの作品を遺しています。
「人間失格」などの人気の高い作品もありますし、中学校の教科書に取り上げられている「走れメロス」といった作品も遺しているので、著名な作家であると思われます。
ただ、自殺、心中を何度もしています。
そこには憧れていた芥川龍之介の自殺の影響が大きかったと考えられています。
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