扇谷上杉家から川越藩、現代まで解説!武蔵国の中心地・川越城の歴史

扇谷上杉家から川越藩、現代まで解説!武蔵国の中心地・川越城の歴史

かつて「武蔵国」と呼ばれていた埼玉県。武蔵国の中でも「川越城」は特に長い歴史があり、中世期から近現代にかけて多くのエピソードが存在しています。
本記事では主に歴史に興味があり、初めて学びたい方に向けて川越城を解説します!

次の項目から、川越城の歴史やゆかりのある人物をより詳しくご説明していきます。

城主

川越城の主な城主
・扇谷上杉家(室町時代~戦国時代)
・後北条氏(戦国時代~安土桃山時代)
・結城松平家(江戸時代)
・松井松平家(江戸時代~明治時代初期)

歴史

築城から現代までの大まかな流れを解説します。

川越城(旧称:河越城)は1457年に、扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)の家臣である太田道真・道灌親子によって築城されました。

長きにわたる因縁を持つ古河公方足利成氏(こがくぼうあしかがしげうじ)に対抗するため、扇谷上杉持朝は太田親子に城の建設を命じました。

完成後、扇谷上杉持朝が初代城主になります。
中世期以降も、川越城は武蔵国の重要な拠点として役割を担い続けました。
明治時代初期に一度廃城となったものの、近代から現代にかけて復元計画が進められています。

次は時代ごとにより詳しくご紹介します!

室町時代(扇谷上杉家と古河公方足利成氏の対立、川越城の築城)

川越城 戦
1438年:足利成氏の父である足利持氏が「永享の乱」によって亡くなります。「永享の乱」は第6代室町幕府将軍足利義教と第4代鎌倉公方足利持氏との対立が原因で起こりました。

1454年:第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠(山内上杉家)を暗殺し、「享徳の乱」が起こりました。この事件が発端となり「扇谷上杉家・山内上杉家」対「鎌倉君方足利成氏」の争いが28年間続きます。当時の室町幕府は扇谷上杉家・山内上杉家を支持しています。

1457年:扇谷上杉持朝が太田道真・道灌親子に河越城(川越城)の築城を命じ、上杉持朝が城主となります。また、河越城の他に江戸城も築城され、江戸城は太田道灌が城主を務めています。河越城と江戸城の間には川越街道が整備されました。

1482年:「享徳の乱」の収束により室町幕府と古河公方の双方が和睦を結びました。しかし、争いの終結に貢献した太田道灌を恐れ、扇谷上杉定正(持朝の息子)が道灌を殺害してしまいます。その後、太田家は扇谷上杉家を離反します。

戦国時代(後北条氏の台頭)

1524年:北条氏綱が江戸城(城主:扇谷上杉朝興)と岩槻(扇谷方)を占領します。江戸城を奪われた後、上杉朝興は河越城を拠点として戦況を立て直す事を図ります。

1537年:上杉朝興が亡くなります。朝興の子で若手の「朝定」が跡を継ぎましたが、扇谷上杉家が態勢を整えるよりも先に北条氏綱は河越城を奪取します。これにより武蔵国は北条氏の手中に収まりました。
その後朝定は敗走により松山城を拠点にします。

松山城

1541年:北条氏綱が亡くなり、氏康が新たな北条家当主になります。

1545年:扇谷上杉朝定は河越城を取り戻すべく、山内上杉家・かつての宿敵古河公方足利家と連合軍を結成。
さらに今川義元と武田信玄を味方にし、後北条氏への攻勢を強めます。

1546年:後北条氏家臣北条綱成が籠城し、北条氏康とともに扇谷上杉家連合軍を退けて北条家が武蔵国を完全に掌握します。この戦いは後に日本三大夜戦「河越夜戦」と呼ばれる事になります。
扇谷上杉家は朝定の討死によって滅亡し、古河公方足利家は古河(茨城県)へ、山内上杉家は上野国(群馬県)へと逃れます。

安土桃山時代(後北条氏体制の終わりと幕藩制度のはじまり)

豊臣秀吉像
1590年:豊臣秀吉の小田原征伐にて、河越城の城主である後北条氏家臣の「大道寺政繁」が上野国松井田に出陣し、防衛するものの降伏します。
小田原征伐後、政繁は豊臣方に加わります。また、同年8月に川越藩が立藩されます。

江戸時代(結城松平家と松井松平家)

1767年:川越藩が結城松平家の所領になります。
結城松平家の本来の居城は上野国の前橋城でしたが、洪水による破損のため修復する必要がありました。再建までの間は川越城を居城とします。

1867年:前橋城が再建されます。結城松平家が前橋藩へ戻り、川越藩は松井松平家の所領になります。

明治時代~現代(廃城、そして復元計画へ)

1868年:明治政府へ恭順の意向を示すため、松井松平康英によって川越城の堀が埋められます。

1869年:廃城となり、川越城の老朽化した建物が取り壊されます。

1873年:建物等の入札や売却がされます。

1924年:川越城の跡地が「埼玉県指定史跡」になります。

1967年:本丸御殿が「県指定有形文化財」になります。

1989年:「初雁公園整備基本構想」と呼ばれる川越城の一部を復元し、城址公園を拡張する計画が立てられます。ただし、経済事情により当時は実現せず、2017年で改めて行われる事になります。

2006年:日本100名城の19番に選定されます。

2017年:1989年の「初雁公園基本構想」に一部変更が加えられ、再開されます。
城址公園の拡張と初雁球場の移転が発表されました。

建築(築城した人物)

太田道真(おおたどうしん)とは
扇谷上杉家の家宰を務め、山内上杉家家宰の長尾景仲とともに「関東不双の案者」として名を轟かせました。
詩歌にも秀で、連歌会「河越千句」を催した事で有名です。
越生町とゆかりがあり、隠居中は越生で暮らしています。
太田道灌(おおたどうかん)とは
幼少期から学問を志し、文武両道で知られています。
父の道真とともに「享徳の乱」の終結に至るまで扇谷上杉家に貢献し続けました。
しかし、皮肉な事に道灌の才能と武勲を主君の上杉定正に危険視されてしまい、悲劇的な最期を迎えてしまいます。
「当方滅亡(自分が死ぬと上杉家が滅ぶ)」と言葉を残し、扇谷上杉家も最終的に後北条氏によって滅亡しました。

エピソード(関連する出来事)

川越城は旧称:河越城で、別名:霧隠城、初雁城とも呼ばれます。

扇谷上杉家の宿敵、古河公方足利成氏とは

足利成氏は第4代鎌倉公方である足利持氏の息子です。
父の持氏が1438年に起きた「永享の乱」で亡くなった後、鎌倉府の再興に携わりました。
1454年に上杉憲忠を暗殺し、扇谷上杉家・山内上杉家と対立します。

鎌倉府とは

室町幕府が南北朝時代に関東を統治する目的で作った組織です。
鎌倉公方(足利氏)と関東管領(上杉家)の2つの派閥があります。
室町幕府が関東管領を優遇した故に鎌倉公方と関東管領は不仲であり、この関係性が「永享の乱」につながります。

川越街道(歴史街道)とは

室町時代

川越街道
起点が江戸・日本橋で、終点が川越・江戸町・西大手門です。江戸城と川越城を結ぶ古道であり、古河公方との戦いでは扇谷上杉家の防衛の要として機能しました。

江戸時代

川越藩主の松平信綱・輝綱親子によって、中山道の脇往還(五街道以外の主要な街道)として整備されました。
中山道の川の氾濫による影響で人通りが非常に多く、交易路及び参勤交代路として重要な役割を果たしています。
川越街道には6つの宿場があり、明治時代以降も深い関わりを持っています

6つの宿場とは
・上板橋(東京都板橋区)
・下練馬(東京都練馬区)
・白子(埼玉県和光市)
・膝折(埼玉県朝霞市)
・大和田(埼玉県新座市)
・大井(埼玉県ふじみ野市)

近現代

川越駅 看板
1914年に東上鉄道(東武鉄道東上本線)が開通し、川越街道に沿う形で池袋駅から田面沢駅まで運行されます。また、昭和時代では自動車の普及に伴って川越街道にも自動車道が整備されました。

埼玉県川越市について

アクセス

公共交通機関
◎東武バス「川越駅」乗車→「札の辻」降車徒歩約8分
◎東武バス「本川越駅」乗車→東武バス「札の辻」降車徒歩約8分

観光向けバス
◎小江戸巡回バス「川越駅西口2番のりば」乗車→「本丸御殿」で降車すぐ
◎小江戸名所めぐりバス「川越駅東口3番のりば」乗車→「博物館・美術館前」で降車すぐ

自動車
◎関越自動車道「川越」ICより約15分 無料駐車場あり

まとめ

川越城 親子愛
筆者自身も川越城について詳しく学んだのは初めてです。
特に川越城築城から「享徳の乱」の収束まで多くの功績を残し、時に理不尽な事が起きても、最後まで扇谷上杉家に忠義を尽くし続けた太田親子の人間ドラマが印象的でした。

本記事が、川越城の魅力を広める事に少しでも貢献できれば幸いです。
最後までご覧くださり、ありがとうございました!

 

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