美しい石垣の史跡である盛岡城跡

美しい石垣の史跡である盛岡城跡

日本の100名城にも選ばれている、盛岡城について取り上げさせて頂きました。
盛岡城は、日本100名城に選ばれています。

日本100名城とは、平成18年に発表されたものです。
現在スタンプラリーが設定されています。ルールは各県1城以上、5城以内となっています。日本の全ての都道府県に1城以上あります。
盛岡城のスタンプ設置場所は、プラザおでって2F観光文化情報プラザ、もりおか歴史文化館です。

城主

まずは南部信直(なんぶ・のぶなお)の話をしていきます。
彼は盛岡藩の初代藩主で、南部家26代当主です。

盛岡城の築城は2代目藩主である、嫡男の利直を総奉行に手掛けています。
政治力に優れていて、早くから豊臣家や徳川家友好関係を結んでいたと伝えられています。

友好関係の握手
南部氏24代当主の南部晴政に男児がいなかったので、信直は晴政の長女の婿となりました。

しかし、晴政と妾の間に「男児・晴継」が生まれ、信直は晴政から疎まれるようになります。
やがて晴政の長女が早世し、関係がさらに悪化したため、信直は相続を辞退します。

その後に、晴継が第25代目となるも若くして死去したので、相続問題が起きます。
後継者を巡って、大評定が行われました。
南部家の古い慣習では、相続人がいない場合は八戸家から養子を迎えることになっていました。
しかし、当時の八戸家にその余裕はなく、八戸家は一族である新田家から幼い養子を迎えて相続している状況でした。

有力候補としては、他には晴政の次女の夫である九戸実親を推す声もありました。
しかし、一門の人物が信直を推すと、結果として26代当主として信直を三戸城に迎えます。

豊臣秀吉の家臣である浅野長政から「三戸城は山に囲まれていて豊穣の地にはなりがたい。不来方(現在の盛岡)は城を築くのにいい」と勧められて、自らもその考えを持っていた信直は、盛岡城築城を依頼します。
しかし、豊臣秀吉が朝鮮に侵略した戦争である「文禄・慶長の役」の影響もあって、正式な認可がなかなか下りません。
その後、いつ認可が下りたかははっきりしませんが、慶長3年に盛岡城の築城がはじめられました。
その翌年に信直は逝去しましたが、跡継ぎの利直によって盛岡城は建設・完成されました。

慶長3年(1598年)に盛岡城の築城の着手をしますが、盛岡城が完成したのは、子の利直(としなお)、更にその子の重直(しげなお)までかかって、寛永10年(1633)とされています。

そして、南部重直が盛岡城へ入城します。これより歴代藩主居城となります。
重直は、祖父である信直の時代に築城を着工した盛岡城を完成させています。
盛岡藩の基盤固めに専念しましたが、苛烈な性格であったと伝えられています。

参勤交代に10日遅参して、徳川家光の勘気に触れて翌年まで蟄居(ちっきょ)処分を受けます。

蟄居(ちっきょ)とは
蟄居とは、閉門の上、自宅の一室に謹慎させられる処分。前年から開始された初の参勤交代での出来事。

盛岡城跡 参勤交代
盛岡城の城主は、歴代藩主である南部家であると思われますが、詳しいことはわかっていません。

ですが、幕末の盛岡藩主・南部利祥(としなが)の話は残っています。
彼は日露戦争に従軍しました。
満州の最前線に行き、中尉となって小隊長を命じられました。
最前線で指揮を執りましたが、「井口嶺の戦い」で銃弾を浴びて戦死しています。(享年23歳)

その際に、同じく従軍していた皇族であり、軍人の竹田宮恒久王の盾となって戦死したという逸話が伝わっています。
しかし、実際には利祥が戦死した日には竹田宮恒久王は日本に帰国しているので、この話は事実ではないと考えられます。

満州の井口嶺で戦死し、盛岡城内に大きな銅像が立っていましたが、昭和19年(1944年)に太平洋戦争の軍需資材として献納されて、現在は台座のみが残されています。

歴史

南部氏は、室町・戦国時代に勢力を伸ばし、奥州北部の有力大名となります。
1588年に斯波氏を滅ぼすと、1590年に豊臣秀吉から南部七郡の領有が認められます。

南部信直は、翌1591年に豊臣秀吉の重臣である浅野長政からの助言で、三戸(さんのへ)から不来方(こずかた)に居城を移すことを決定します。

南部氏が盛岡藩を立藩してから、約230年間に50回ほども飢饉に見舞われています。

盛岡城跡4 餓死 
その中でも、天明の飢饉(てんめいのききん)の被害が大きく、人口が30万人ほどのうち、おおよそ7万5,000人が餓死しています。
割合として、盛岡藩の人口の4分の1ほどが餓死していることになります。

江戸四大飢饉とは
天明の飢饉は、江戸時代中期の1782年から1788年にかけて発生した飢饉です。
江戸四大飢饉の1つで、他に「天保の大飢饉」「享保の大飢饉」「寛永の大飢饉」があります。
近世の日本では最大の飢饉とされています。

東北地方で、1770年代から農作物の収穫が激減しました。これは悪天候や冷害が原因とされています。
1782年(天明2年)から3年ほど、冬に異様に暖かい日が続きました。

道も田畑も乾いてしまう状況の中、1783年(天明3年)には岩木山と浅間山が噴火します。
それによって、各地に火山灰が降り注いだだけでなく、成層圏に達した火山噴出物が原因で日射量が低下し、冷害を悪化させます。
そうして農作物に壊滅的な被害があり、深刻な飢饉となりました。

1870年に、盛岡藩は他藩に先駆けて廃藩置県を願い出ます。これは廃藩置県の布告を待たずしてです。廃藩置県を願い出た理由は、借金返済が不可能になったからです。
その願いは新政府に受理され、盛岡藩は廃止されました。
同年7月に盛岡県が成立します。その後、盛岡県は岩手県に改称しています。

盛岡もの織り検定について

建築(築城した人物)

盛岡城の築城は、慶長3年(1598年)に南部信直によって着手されて、南部利直、南部重直を経て寛永10年(1633年)に完成しています。

南部利直

前田利家を烏帽子親として元服します。烏帽子親とは、元服儀式のときに加冠を行う者のことです。
その際に、利家から利の一字を授与され、利正と名乗ります。その後に利直に改名します。

豊臣秀吉の死去後は、父の信直と共に徳川家康へ接近します。
慶長4年(1599年)に父が死去すると、家督を継いで南部家当主となります。
元和元年(1615年)には盛岡城を築城しながら城下町を形成します。三戸城の市民も盛岡へ移します。
利直は盛岡藩初代藩主になりました。
寛永9年(1632年)に死去し、跡を三男の重直が継ぎます。

南部重直

盛岡藩2代目藩主。南部利直の三男として江戸桜田屋敷に生まれます。
その後、父の死去により家督を継ぐと、盛岡城の築城工事を完成させます。
盛岡藩の基礎固めに専念しましたが、苛烈な性格といわれています。実子はいません。
寛文4年(1664年)に江戸で死去しました。享年は59歳でした。

盛岡城の構造

盛岡城跡 花崗岩
盛岡城跡は、各所に美しい石垣が見られる史跡として知られています。
盛岡城跡のすべての石垣には、白い花崗岩が使用されています。
その花崗岩は、城内や周辺で産出したものが使われています。

また、石垣の場所や、その石垣が作られた時期によって様々な技法が用いられています。そういった理由から、各所で多様な組み方の石垣が見られます。

さらに、本丸東側の石垣が、城内最古の石垣として見どころになっています。
その石垣には、「野面積」(のづらづみ)という技法が用いられています。野面積は、自然石を積み上げて間に間詰石を詰めて安定させる、古い城郭に多くみられる技法です。

他には、整形した石を積み上げる「打込接」(うちこみはぎ)には、石の大きい物や小さい物を不規則に並べる「乱積」(らんづみ)と、四角形に規則正しく加工した石をレンガのように横目地を揃えて積む「布積」(ぬのづみ)があります。それらは盛岡城跡にもあります。
三の丸西側にある石垣では「乱積」が、西の丸の石垣では「布積」の技法が見られます。

エピソード(関連する出来事)

別名は不来方城(こずかたじょう)であると一般に誤認されていますが、厳密には不来方城は盛岡城の前身であり、両者は別の城郭です。

盛岡城には、主要建造物の遺構は残っていません。
しかし、花崗岩を加工した見事な石垣が残っていて、会津若松城と小峰城とともに、東北の石垣造の三名城として名高いです。

城全体に石垣が用いられています。そういった城を「総石垣の城」といいますが、東北地方では数少ないです。
東北地方で総石垣の城は、盛岡城以外では福島県の会津若松城と、同じく福島県の白河小峰城だけです。
東北に石垣の城が少ないのは、残っていないのではなくて、もともと存在していないからといわれています。

盛岡城は、日本100名城東北三名城岩手県三名城のバッジに登録されています。

日本100名城とは

財団法人日本城郭協会が定めた日本の名城一覧です。各都道府県に、少なくとも1つ以上の城が選ばれています。
知名度や、文化財や歴史上の重要性であったり、復元の正確性などが基準にされています。

東北三名城とは

盛岡城、会津若松城、白河小峰城が東北三名城に選ばれています。

岩手県三名城とは

九戸城、盛岡城、志波城が岩手県三名城に選ばれています。

エピソード

盛岡城が築かれる前は、盛岡のその地域は不来方と呼ばれていました。
不来方城は盛岡の地に、盛岡城より前にあったお城です。

石川啄木 像
岩手県出身の石川啄木の短歌「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし 十五の心」は有名で、盛岡城跡公園に石川啄木歌碑も残されています。

盛岡城の見どころ

盛岡城には、主要建造物の遺構は残っていません。ただし、先述の通り石垣は見どころです。
現在の敷地内の見どころを、次に示します。

・彦御蔵:腰曲輪のそばに移築された土蔵です。城内に唯一残る藩政時代の建造物です。
・堀跡:城がある丘陵地は良質な花崗岩が多いです。二の丸南側は石切場でした。
・腰曲輪の石垣:粗く加工された打込接の石垣は高さ12mもあります。城内をていねいに見ていくと、築城時の野面積(のづらづみ)の石垣も所々に残っていて、時代による変遷が楽しめます。
岩手名物わんこそばの始まり
歴代城主の南部利直に関する余談ですが、「岩手名物わんこそば」は南部利直がきっかけといわれています。
利直が江戸へ向かうときに、花巻城に寄って食事を所望しました。
郷土料理のお蕎麦を、お殿様に対して庶民と同じ丼で差し上げると失礼という発想から、山海の幸を共にして漆器のお椀に一口だけのおそばを試しに出したところ、利直公はそれを大変気に入って、何度も何度もお代わりをした、ということが起源となっている説があります。

岩手の方言で、語尾にコをつけることから、お椀を「お椀コ」と呼び、お椀コで食べるから「お椀コそば」→「わんこそば」と呼ぶようになったというものです。

アクセス

盛岡城跡公園 入口
盛岡城跡公園は、入園自由。無料です。

盛岡駅からバスで10分ほどです。
盛岡駅から徒歩だと、15分ほどです。

盛岡駅:JR東北本線、JR田沢湖線、JR山田線、JR東北新幹線、JR秋田新幹線、IGRいわて銀河鉄道「盛岡駅」が盛岡駅を通ります。

車で行く場合:道路は、国道106号線が盛岡城跡公園のそばを通ります。大きな国道では、国道4号が公園から遠くない地点で国道106号線と交差しています。

まとめ

結びの言葉
美しい石垣の残る、盛岡城跡について取り上げさせて頂きました。
岩手県盛岡市にあったお城ですが、現在は城内の建造物が取り壊されて、石垣と水堀の一部が遺るだけです。
日本100名城や、東北三名城などに選ばれています。
歴代城主ははっきりとはわかっていませんが、盛岡藩の歴代藩主が盛岡城の歴代城主であったと考えられています。

石川啄木の短歌でも有名な地かもしれません。
歌人、詩人の石川啄木は岩手県南岩手郡日戸村(ひのとむら)生まれです。
日戸村は現在の盛岡市日戸にあたります。

 

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