北海道にあるお城をご紹介します。
こちらは日本式築城としては最後のお城だと考えられており、渡島半島の南西部に位置します。
このお城も他のお城と同様に激動の時代を生きてきましたが、今は愛される観光地となっています。
桜の名称としても有名な松前公園は4月下旬から5月下旬がお花見に最適で、250種の1万本の色々な桜を楽しめます。
松前で誕生した桜も約100種類あり、南殿の「血脈桜(けちみゃくざくら)」は有名です。
当時の面影を再現した城下町は日本最北のものとなり、天守は「松前城資料館」となっています。
Contents
城主
松前慶広(よしひろ)
1548年10月4日に三男として生まれましたが、長男、次男が姉に毒殺されたため、家を継ぎます。
1590年に蝦夷に渡り、1591年同地で独立を果たし、豊臣秀吉に仕えます。
アイヌ人を集めて、蝦夷で税金を集めることに成功しました。
秀吉が亡くなると、徳川家康に蝦夷地図を差し出し、従います。
家康の支配下で、彼はアイヌとの交易を実施し、初代藩主となり、1616年11月20日に亡くなっています。
松前崇広(たかひろ)
1829年12月10日に六男として生まれ、西洋通で馬術が得意でした。
彼は外様大名でしたが、12代藩主として老中にまでなりました。
江戸時代は徳川に気に入られた人しか出世できませんでしたので、本来、徳川と仲の悪い外様大名が老中になることはありませんでした。
当時の幕府は西洋の脅威に対応するため、西洋通であった彼を出世させたのでしたが、彼の失脚も早かったのです。
1865年にイギリス・アメリカ・フランス・オランダは兵庫を開港することを求めましたが、朝廷からは許可がまだ下りていませんでした。
そこで、武力行使も辞さないという姿勢であった4か国に、崇広はもう一人の老中とともに朝廷に無断で開港を決定してしまったのです。
その後、朝廷から老中の資格を取り上げられてしまいました。
1866年に蝦夷に戻りますが、腹膜炎で38歳で亡くなります。
松前徳広(のりひろ)
1844年3月14日に長男として生まれましたが、肺結核を患い、精神病もありました。
それでも、1866年に第13代藩主となっています。江戸時代最後の大名です。
しかし、病気の影響で、仕事は家臣に任せっきりでしたので、家臣の不満が溜まっていきます。
1868年に新政府と連携した人々に、新政府への転向を求められ、承諾してしまったので、新政府派と佐幕派の人で城内は混乱します。
そんな中で箱館戦争が起きます。
徳広は津軽に逃れ、1869年1月11日に自殺をしました。
歴史
築城や落城の経緯については他の項目で紹介していますので、ここではその後の歴史について述べたいと思います。
明治
1872年、財政難から城内建物の一部を売却します。
1874年、旧藩士の反乱を防ぐために松前城を解体することにしましたので、堀を埋めることにしました。
1875年、石垣を利用して松前波止場を造られました。現代においても石垣の再利用が高く評価されています。
1892年、波止場の大規模工事が行われ、船着き場と使用されました。
昭和
昭和初期には利用価値もなく、修理続きで批判も相次ぎました。
1935年6月7日、城跡が史跡となります。
1941年5月8日、天守、本丸などが国宝になりました。
1944年6月、第二次世界大戦中に敵の標的となるのを防止するため、天守に網をかぶせます。しかし、戦後にこの網を除くと、網の重さで城は骨があらわとなった悲惨な状態になっていました。
1949年6月5日、火事にて天守とその他の部分を全焼してしまい、町民は成す術もなく城を見送っていました。
1950年、火災を逃れた本丸御門は修理をし、重要文化財となります。
1957年、松前城の再建のための募金活動を行った結果、5,792万円が集まり、7,000万円の工事費で実施されました。工事費の差額は町費を使用しました。
1960年、外観工事で天守が鉄筋コンクリートで復元されます。
1976年、建築規制をしてこなかったため、違法建築箇所が多数見つかり、この年から修復を開始しました。
平成
価値を見出されたお城は様々な調査をすることで、歴史的な品々を発見します。
2001年、北海道遺産になります。
2006年、日本100名城の3番目に選定されます。
2007年6月、日本100名城スタンプラリーが開始されます。
建築(築城した人物)
松前慶広
松前城の前身の「福山館」を建設し、1606年に完成しました。
福山館の主御殿やその他の一部の施設は、予算の関係から松前城にそのまま利用されました。
本丸・二ノ丸・北ノ丸・櫓・堀・石垣がありましたが、彼は城主大名とは認められていないため、お城とは呼ばれませんでした。
松前崇広
アメリカはこの頃に、捕鯨を盛んに行っていました。
ですが、北大西洋ではクジラは絶滅してしまっていたため、日本近郊に新たな漁場を求めたのです。
ロシアでも、冬の間は港が凍ってしまうため、暖かい地方に港を探していました。
「福山館」の建設から200年以上経ちました。
渡来船の脅威を感じた江戸幕府は、ロシアやアメリカなどへの北方警備のために、1849年彼に北海道での城造りを命じました。
この城は「福山館」を建て替えることに決まりましたが、一番の問題は建設にかかる費用でした。
この問題には増税をし、家臣に給料の一部を献上させ、商人からは献金、町民からは献金と城建設のための労働をさせました。
1855年に城の工事は終了します。
総面積は約69,700㎡で、三重櫓・二重櫓・太鼓櫓などが新たに建てられました。
幕府の目的は沿岸の防衛強化だったため、海岸に砲台・33門も造られました。
市川一学
江戸時代後期の儒学者です。儒学者とは儒学や兵学を学び、研究や教えたりする人のことです。
一学はお城の建設の時には77歳になっていて、息子の十郎とともにこの仕事をしました。
お城には最新式の西洋の築城方法や兵学を取り入れ、城壁を曲げて複雑にしました。
松前内蔵廣当
家老。総奉行として工事の担当をしました。
エピソード(関連する出来事)
この戦争は旧政府軍が蝦夷に独立した政権をつくろうとしたもので、箱館戦争とも呼ばれます。
1868年11月旧幕府軍の元新選組・土方歳三が700名ほどで松前城を攻撃します。
松前藩の兵士は攻防をしたものの、旧政府軍に北の丸を占拠されたため、彼らは城に火を放ち逃げました。
結果、残された資料から再建可能となり、2035年完成予定で建築計画が立てられました。
アクセス
【住所】北海道松前郡松前町字松城144
【電話】0139-42-2216
【開城期間】4月10日から12月10日
【開城時間】9時から17時
【休館日】12月11日から4月9日(冬季閉館)
・小・中学生240円
・幼児無料
【行き方】
- 鉄道:北海道新幹線木古内駅から函館バスで松前行きに約1時間29分間乗車し、松城で下車し、徒歩10分程度です。
- 自家用車:函館から国道228号線を南西に約2時間、道央道八雲ICから約130kmで約2時間40分です。
まとめ
北海道のお城と言えば、五稜郭を思い浮かべる方も多いと思います。
五稜郭はフランスの書物を参考にして建てられた西洋式のお城で、銃などを使用したときに死角を生まないために5つの尖った形をしているのが特徴です。
その意味でいうと、日本式のお城は北海道では松前城のみと言っていいでしょう。
この二つのお城の共通点は、北海道にある事と実戦経験をしている事です。
松前城については上記に述べた通りです。新政府軍は松前城を攻撃した後に、五稜郭を攻撃して降伏させています。
二つのお城には悲惨な歴史がありますが、今は北海道の有数の観光地として人々を楽しませています。
近年、お城めぐりを趣味にされている方も多いので、そんな方がこの記事を読んでいるかもしれません。
そんなお城めぐりの参考になれば幸いです。
読んで頂きありがとうございました。
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