鶴ヶ城の過去から現在に至るまで~白虎隊の悲劇も

鶴ヶ城の過去から現在に至るまで~白虎隊の悲劇も

福島県の会津に存在する城です。
譜代大名の会津松平氏が住んでいた城で、室町時代に築城されて、城主もたびたび変わりました。
戦国時代から幕末・明治時代の動乱の中で激しい攻撃を受けても、落城しないほどの堅牢さでした。

どのようなルーツがあり、現代まで会津の地に根付いていたか、解説します。

城主

1.葦名直盛(葦名氏)

室町時代に葦名直盛(あしななおもり)が会津地方を治めて、鶴ヶ城の土地に館を建築したのが最初です。
足利尊氏に敗れて、会津に敗走してそこに土着し始めました。

2.蒲生氏郷(蒲生氏)

戦国時代に葦名氏を伊達政宗が破り、領地を会津まで広げます。
後に豊臣秀吉に領地を米沢に移封されたので、蒲生氏郷(がもううじさと)が入城して会津の地を治めました。
石垣を建てて、現在の鶴ヶ城の原型を作りました。
蒲生氏郷の死後、子の蒲生秀行が継ぎましたが、お家騒動の影響で減封されてしまいました。

3.上杉景勝(上杉氏)

蒲生氏が会津から宇都宮に領地を移したので、代わりに上杉氏が入城しました。
しかし、上杉景勝が徳川家康に反抗的な態度をとったため関ヶ原の戦い後に徳川家康によって会津を減封され、米沢の地に移されました。

4.蒲生秀行(蒲生氏)

再び、蒲生氏が統治しました。
蒲生秀行が入城して会津を統治していましたが、秀行の子の蒲生忠郷が死去して後継ぎがいませんでした。
当時、お家は改易になるところでしたが、忠郷の弟・蒲生忠知が跡取りになったため、改易は免れました。
しかし、伊予松山に減封されました。

5.加藤嘉明(加藤氏)

蒲生氏が転封になると、加藤氏が会津に移封されて加藤嘉明が統治しました。
ですが、2代目の加藤明成は家臣と揉める会津騒動があり、加藤氏は会津の領地を幕府に返上しました。

6.保科正之(保科氏、会津松平家)

徳川秀忠(妾)の息子の保科正之像
江戸時代から徳川家光の弟の保科正之(ほしなまさゆき)が入城して、城の瓦を整備して壊れにくくする工夫をしました。
その後は正之の子・保科正容が「会津松平氏」に改名して、江戸末期まで会津を治めていました。

明治時代になり、新政府が廃城令を出すと、この城は取り潰されました。

歴史

1384年、葦名直盛により会津に館が建築されました。若松城の前身と言える館です。
当時の地名に因んで「黒川館」と呼ばれました。
室町時代から黒川城と命名されていましたが、蒲生氏の統治の時に家紋にちなんで「鶴ヶ城」と命名されました。

1593年、蒲生氏郷により、鶴ヶ城に天守閣が築城されました。
千利休の切腹で表千家の存続が危ぶまれた時に、会津で千利休の子である「千小庵」を匿うことができたので、茶室を鶴ヶ城に建築して、表千家流を守りました。

茶室でお茶をたてている女性の手元

しかし、蒲生秀行の御家騒動で会津を減封により没収されてしまったので、代わりに上杉氏が加増されて鶴ヶ城に入城して支配しました。

ところが、関ヶ原の戦いで、蒲生氏が東軍(家康側)についたので、勝利時に蒲生氏に会津が加増されて戻りました。
一方の上杉氏は西軍(石田三成側)についたので、会津から米沢に減封されて会津から去りました。
入城した際、黒川という地名を蒲生氏の家紋の松の印から「若松」に改名したため、現代でも呼ばれるようになりました。

江戸時代には将軍の家光の異母兄弟の保科正之が入城したので、徳川の血筋が会津を長年統治することとなります。

青空に浮かんでいる徳川家の家紋

1611年に会津地震があり、会津地方の町は大きな被害になりましたが、鶴ヶ城は天守が傾いたり石垣が崩れ落ちたりした程度で済みました。
本丸には屋敷があり、藩主の生活やお勤めの中心になっていました。

会津戦争の時には、松平容保(まつだいらかたもり)が籠城しながら新島八重などの会津藩士が総動員して新政府軍と戦いました。
大砲を受けてもびくともせず、難攻不落の城を見せつけました。

しかし、新政府の発した廃城令により、鶴ヶ城は解体されました。
解体された後、旧会津藩士に当時の金額で2500円で払い下げられて、土地は松平家に寄付されました。

人(人形)から「権利」を奪う手

戦後の1957年、本丸が立て直されて「鶴ヶ城記念博物館」として開館されました。
1965年、天守閣を復元して、江戸時代当時の鶴ヶ城を再現しました。

現在は博物館になっており、会津を治めた当主や当時の戦で使った武具などが展示されています。
また、城址公園には、茶室鱗閣を元の場所に移築して、蒲生氏郷の保護した茶室を後世に伝えています。

建築(築城した人物)

  • (室町時代)
    最初に葦名直盛が会津の地に館を建てたことが始まりで、黒川館と呼ばれていました。
    いつからかは分かりませんが、黒川城と呼ばれるようになりました。
  • (戦国時代)
    葦名氏を伊達政宗が滅ぼして黒川城を若松城に改名すると、豊臣秀吉の命により蒲生氏郷が会津地方を支配しました。

蒲生氏郷は城下がみすぼらしかったので、城に本丸を建てて、天守などの城内の施設を整備させて城としての機能を持たせました。
さらに、町も整備して城下町を活気づけさせました。

武者走りや大手門なども、城攻めが難攻するように工夫しました。

氏郷は茶道を趣味にしており、千利休の弟子になるほどでしたが、千利休が秀吉に切腹させられます。
氏郷は千利休の子・小庵を匿い、鶴ヶ城内に茶室鱗閣を建てて千家流が途絶えるのを防ぎました。

エピソード(関連する出来事)

じつは、鶴ヶ城は正式には会津若松城と言います。戦国時代に入城した蒲生氏郷が名付けました。
(なぜ「鶴ヶ城」になったのかは【歴史】の欄に書かれてあります)

鶴ヶ城は「野面積み」と呼ばれる自然石を重ねる手法で石垣を作りました。
そのおかげか、会津地震が起きても櫓や天守閣が傾き、石垣が少し壊れましたが、本丸は壊れることなく持ちこたえました。

鶴ヶ城に使われている「野面積み」といわれる石垣

食糧庫も天守閣にあります。
食料や塩の備蓄があるので籠城戦もできます。二ノ丸、三ノ丸が敵の進行を抑えるので防御力も高く、鏖丸と呼ばれるほどの堅牢さでした。

また、武者走りから兵士をすぐに防御に回せるように、走りやすいよう工夫しています。

鶴ヶ城の門は防御力が高いです。
敵兵の侵入が容易ではなく、鉄門は指揮官が門の上で指揮が出せる造りでした。
会津戦争時に松平容保は、実際に城門から兵に指揮をしていました。

会津戦争で新政府軍と戦っていた時に城下町が燃えていて、その光景が鶴ヶ城が落城しているように見えました。
会津藩が組織していた少年兵である白虎隊2番隊が飯盛山で全員自刃しました。(1名は命を取り留めました)

しかし、実際には新政府軍に攻められても落城するどころか、新政府軍の激しい攻撃を受けても、城は持ちこたえました。
飯森山には自刃した白虎隊全員の墓が建てられて、今もその魂を供養しています。

白虎隊の墓がある飯盛山からの景色

他にもエピソードを紹介します。

  • 滝廉太郎の作曲した『荒城の月』は、詩人の土井晩翠が荒廃した鶴ヶ城をモチーフにして作詞しました。
  • 1934年、武徳殿という武道場が建てられて、今も会津の武術愛好家が稽古しています。
  • 鶴ヶ城の屋根瓦は当初は全国で使われていた黒瓦を使用していましたが、東北の冬でも耐えられるように、鉄分を多く含ませた赤瓦を使用して劣化を防いでいます。

アクセス

福島県にある会津若松駅

東京駅から東北新幹線で90分、郡山駅で磐越西線に乗り換えてそこから60分で、会津若松駅に到着です。

  • 「ハイカラさんバス」では、若松駅から鶴ヶ城入口まで20分です。
  • 「あかべぇバス」では、会津若松駅から26分で、鶴ヶ城入口で降りてすぐです。

自家用車で行く場合は、東北自動車道に乗って、郡山JCTで磐越自動車道/会津・新潟方面に向かいます。
そして、会津若松ICで下車して、鶴ヶ城現地に向かいます。
駐車場は、鶴ヶ城専用駐車場や近くのコインパーキングに停める必要があります。

まとめ

ヒストリー(歴史)

鶴ヶ城は福島県を代表する城として有名で、観光客も多く、人気のある場所です。

室町時代から会津を支配しており、戦国時代には次々と勢力が変わっていくのも大変面白い時世でした。

東北は伊達政宗が有力でしたが、豊臣秀吉に会津を没収されてから、蒲生氏が会津の地を統治することとなりました。

蒲生氏が統治することになってからは、館に石垣を建てて、そこから城に改築し、さらに天守を建てて現在の鶴ヶ城の原型となりました。

蒲生氏の継嗣問題から次々と城主は変わりましたが、最終的には徳川の血縁を有する保科氏が会津の地を統治することとなります。

江戸時代になると、譜代大名の保科氏が会津松平氏と名を変えて、300年間にわたって会津の地を統治して平和な時代を送っていました。
保科正之は寒冷な地域で雪などの凍結で劣化しやすい屋根瓦に鉄分を含ませることで、耐久性を高めているのも当時の知恵でした。

幕末に会津戦争の悲劇的な戦いがあったことが、哀愁と忠誠の心を誘います。
白虎隊の話も魂を揺さぶられるものがあります。

天守閣から見る城下町の景色はきれいで、会津若松の町並みや磐梯山などの見事な山脈を見ることが出来ます。
東北を代表する鶴ヶ城ですが、その素晴らしい風景を一目見てはいかがでしょうか。

 

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