松尾芭蕉は忍者だったという説があります。
伊賀の出身である事と、45歳で奥の細道の1,768kmを歩き切ったことの足の強さから、その説が肯定されている理由です。
さらに、奥の細道は江戸幕府から隠密で東北諸藩を調べていたという説もあります。
忍者であるという証拠はありませんが、彼はいつの時代においても注目される人物であることは間違いないようです。
この記事でそんな彼の事を少しでも知って、俳句に興味を持っていただければと思います。
Contents
概説
江戸時代初期に活躍し、俳句の作成者、俳人として知られています。
芭蕉の身分は低かったのですが、俳句で人々に知られるようになります。
彼は数多くの俳句を旅行記にまとめ、世に残しました。
その代表作が奥の細道です。
人物像・逸話
子供の頃から江戸に行くまでをご紹介します。
子供時代
子供の頃、伊賀の侍大将の子供である藤堂良忠とは、お寺で一緒に勉強をした仲でした。
芭蕉は良忠の2歳年下であり、農民の子供ではありましたが、この差があったにも関わらず、2人は俳句という共通の趣味を持った友達でした。
青年時代
良忠の薦めで、良忠の厨房で料理人として芭蕉は仕事をしましたが、良忠は25歳の若さで亡くなってしまいます。
彼は友人と仕事を失いますが、好きな俳句を作ることは続けました。
俳句の腕前が徐々に認められ、初めての俳諧集を伊賀市に奉納すると、それを機会に江戸に行くことを決意します。
江戸へ
江戸では日本橋に家を借り、俳句の活動に積極的にかかわります。
ただ、俳人としてあまり有名でない芭蕉が、定職にも就かずに俳人として活動することは、役所から目を付けられることにもなりかねません。
俳句だけでは食べていけませんでしたので、帳簿付けとして水戸藩の用水事業に関わることにしました。
活躍した時代
芭蕉の地道な活動が次第に実を結び、俳人として生活を始めます。
引越
深川(現在の江東区)に移ります。
彼の生き方は自然の中に居場所を感じているところがあります。
なので、それまでの人間関係から離れて静寂と孤独の中に自分を置くことにしました。
『むさしぶり』
芭蕉に共感する人々に俳句を集めて出版したものです。
彼の俳句には侘びが感じられるようになります。
芭蕉という名前が初めて使用されたのも、この時からで、深川の住まいを「芭蕉庵」とします。
残念ながらこの住まいは1度火事で焼けてしまいましたが、再建されます。
『みなしぐり』
こちらで発表した芭蕉の俳句には笠を題材としたものが多くあり、この頃、彼は笠を自作していたようです。
彼は笠も小さな家と考えていたので、自分の家で過ごすのも、旅で笠を使用して生活するのも似たようなものだと考えるようになります。
この考え方から、旅に対する関心が、この頃湧いてきたと思われています。
旅に出る
和歌山県・奈良県・岐阜県・愛知県と東海道を西に向かいました。
旅に出るときは、悲観的だったのですが、旅の中で徐々に心が穏やかになっていきます。
この旅の途中、名古屋で他の俳人と『冬の日』を編集しており、これは『芭蕉七部集』の初めの作品とされています。
この俳句集は『芭蕉開眼の書』とも呼ばれています。
京都へ
静岡県・愛知県・三重県・大阪府・京都府と旅し、三重県では伊勢神宮に参拝しました。
帰りは滋賀県・岐阜県・愛知県・長野県と旅し、長野県で善光寺に参拝しました。
『奥の細道』
栃木県・福島県・宮城県・山形県・新潟県・石川県・福井県・岐阜県と回りました。
未知の地を訪ね、多くの句を残しました。
奥の細身の旅は岐阜県大垣市で終わりますが、さらに彼はそこから三重県・京都府・滋賀県をと回りました。
松島
『奥の細道』に松島についての句は載っていません。
なぜ載せなかったか様々な考えがありますが、句を載せないことで松島の美しさがさらに強調されるから、というのが有力説です。
上記は芭蕉の作品だと考えられてきましたが、近年別の方の作品だとするのが有力です。
最後の旅
三重県・京都府・大阪府と旅をしていました。
大阪で門人が仲違いをしてしまい、芭蕉の説得にも聞く耳を持たず一人は失踪します。
このストレスで彼は体を壊しますが、一時的に回復します。
しかし、残念ながら容態はさらに悪くなります。
これが彼の最後の句になり、遺書を残し亡くなりました。
50歳でした。
葬儀
遺体は門人によって淀川を上り、滋賀県の義仲寺に葬られました。
集まった門人は80名で、更に300名ほどの人が別れを悲しみました。
批評
芭蕉は色々な俳人の作った句を批評しませんでした。
句を作ることを重要視していたためで、門人が他の価値観で句を作っても修正することはなく容認していたようです。
彼の考えた「誠」は万物の誠が意識されいる事で、「風雅」は主観的にではなく、対象とするものの気持を考えることが重要と説きました。
年譜
1644年:伊賀国阿拝郡、現在の三重県伊賀市の農家の次男として生まれました。
1656年:13歳の時に父が亡くなり、兄が家を継ぐが、暮らし向きは貧しかった様です。
1662年:良忠と一緒に俳人の北村季吟に教えを求め、本格的に俳句の勉強を始めました。
この年に芭蕉の最古の句が作られていて、「立春の日」について詠んだと言われています。
1672年:29歳の時に江戸に行くきっかけとなった句集『貝おほい』を発表し、若々しく才気に溢れた句集として、世に知られるようになりました。
1675年:江戸での生活を開始しました。
1677年:用水事業に関わりました。
1678年:俳人を職業としました。
1680年:江東区に引越し、『むさしぶり』が出版されます。
1682年:「天和の大火」により自宅を失くし、翌年5月に再建します。
1684年:8月に旅に出て、1685年4月に帰ります。この度は「野ざらし紀行」とも呼ばれています。
1686年:春に蛙の句会を芭蕉庵で行います。
1687年:10月25日から京都方面に旅に出て、笈の小文(おいのこぶみ)と呼ばれています。
帰りの道中は『更科紀行』にまとめられ、8月下旬に戻りました。
1689年:3月27日に奥の細道の旅に出発し、大垣には8月下旬に到着しました。
1691年:10月29日に江戸に帰りました。
1694年:5月に最後の旅に出て、9月に大阪に到着します。
10月8日に最後の句を残し、12日の午後4時頃に亡くなります。
まとめ
福島県に飯坂温泉というところがあり、ここの駅前には芭蕉の銅像が立っています。
彼はこの温泉に泊まり感想を奥の細道に残していますが、その感想はあまり良いものではありません。
もっとも当時の飯坂温泉は小さな温泉宿で、人々にはあまり知られていませんでした。
しかし、今では温泉宿として多くの人に知られています。
彼に紹介されたことが影響したと考え、記念の銅像が建てられたようです。
芭蕉の立ち寄ったところの多くには、何らかの記念碑が建てられていることが多く、彼の影響力の強さを感じます。
これからも多くの人々の心を惹き付ける人として、残り続けると思いますし、彼に対する新たな事実や発見がニュースとして報道されることでしょう。
俳句に興味のある方だけでなく、人々の心に残り続ける偉大な人物だと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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当時それまで蛙の鳴くことに注目してきたのですが、蛙の動きを題材にして静けさを感じさせる句として、斬新なものと評され芭蕉に注目が集まりました。