「理念を持ち、信念に生きよ。」の名言で有名な戦国武将「織田信長」の生涯

「理念を持ち、信念に生きよ。」の名言で有名な戦国武将「織田信長」の生涯

戦国武将として名高い織田信長ですが、気性が荒い性格で家臣に苦労を掛けた印象があります。
織田信長は暴虐非道の限りを尽くし、比叡山延暦寺や一向宗を弾圧してきましたが、意外にも宗教には寛容でした。
経済活動や南蛮文化にも敏感で、経済を活発にさせたり、南蛮渡来の道具にも興味を示したりしました。
さて、信長はいったいどのような人生を歩んできたか解説していきます。

概説

信長の少年期

織田信長 画像2

織田信長は尾張の戦国武将ですが、少年期はうつけ者として有名で、家臣や領民の頭を悩ませるほどの奇行ぶりでした。
父・信秀の死後、家督を継いだ後はうつけぶりは鳴りを潜め、冷静に物事を考える性格に変わりました。

今川義元を桶狭間で破った事で、名声が全国に広まり、有力武将として名を挙げました。

室町幕府との関係

足利義昭の上洛を助けて、彼を室町幕府の将軍にしましたが、やがて亀裂が入りました。
そして敵対した時には、義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼしました。
その後は反抗勢力を討つなどをして、勢力を強くしていき、織田氏の天下統一の手前までいきました。

宗教政策

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キリスト教を保護しながら、織田氏は実力を高めていきました。

最後は本能寺で明智光秀に謀反にあい無念のままに自害しました。

人物像・逸話

組織などの運用

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少年期はうつけ者として知られていて、当初は側近から能力はあまり評価されていませんでした。
しかし、信長は個人の成果を優先したため、有能な人材が多く集まり、組織としても高い実力を持ちました。

例えば、鉄砲を実用化させたときです。
「長篠の戦い」で連射ができないのが鉄砲の欠点でしたが、それを順番に弾を込めることで、発砲にかかる時間を短縮できるように工夫しました。

信長の性格

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戦勝式の時に浅井長政の髑髏で酒を飲んだり、比叡山延暦寺焼き討ちの際に女・子供を容赦なく殺害したという逸話があります。

また、キリスト教宣教師のルイスフロイスとも深い交流をした際、『日本史』の編纂には、信長の性格や趣味を詳細に書いています。
これにも苛烈な性格だったと言われています。

長男の信忠の誕生時に顔が奇妙だったことから、名前を「奇妙丸」と名付けるなど、人に変な名前を付けるのを楽しんでました。
その性格からか、家臣にあだ名をつけて気さくに接したり、有能な部下には褒美や重要な役職を与えたりと個人の能力を評価をしていました。

経済政策

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信長は経済活動を重視して、人と物の行き来を活発にするために関所を廃止したり、楽市楽座の政策を取り、税を払わなくても自由に商売を出来るようにして、経済を発展させていきました。

また、堺などの工業都市、交易都市を支配下に置いて、鉄砲などの武器を増産して、武器や物を容易に調達できるようにしました。

信長の趣味

信長は南蛮好きでした。
欧米の帽子などの珍しい物を集めたり、当時の新兵器である鉄砲を使ったり、黒人の奴隷を気に入って弥助と名乗らせて家臣にしたりしていました。

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また、信長は南蛮のマントを愛用しており、戦の時にもつけて出陣していました。

他にも、鷹狩が趣味で領地で行っていて、全国の武将に鷹を贈ったり、反対に贈られたりしていました。
武芸の鍛錬も怠らず、武術や水泳の訓練を行い、健康を維持していました。

活躍した時代

室町幕府が衰退して、戦国武将が各地で現れ、群雄割拠している時代に領地を求めて争っていました。

父が亡くなると家督を継ぐのに弟と揉めていましたが清州城で謀殺することで、織田氏の家督を信長が継ぎました。

当時は、今川が天下統一に近づいていましたが、織田信長が桶狭間で打ち破りました

幕府の再興の為、将軍足利義昭を上洛させると、義昭を後ろ盾にして各地の武将の反抗を抑えようとしました。
やがて、信長との仲が悪くなった義昭は彼の勢力を削ごうとしましたが、それに反発した信長は義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼしました。

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その後、当時最強と言われた武田騎馬隊を「長篠の戦い」で破り、戦国最強の名を手に入れました。

また、ルイス=フロイスと会った時にキリスト教を気に入りました。
布教活動を許可したため、信長の領地にもキリスト教が広まりました。

年譜

天文3年:尾張の武将である、織田弾正忠家の織田信秀の子として生まれました。

天文17年:斎藤道三の娘である濃姫と政略結婚をして、美濃の斎藤氏と同盟を結びました。
その後、美濃の斎藤道三に謁見した時はうつけの衣装ではなく、しきたりに則った服装だったので、一目置かれるようになります。

永禄元年:父の信秀が亡くなった後の後継者争いの時に、弟の信勝に病気と偽い、見舞いに来させたときに謀殺しました。

永禄3年:「桶狭間の戦い」で今川義元を討ったのが知られるようになると、織田氏の実力は全国に広まりました。
その頃に今川氏から独立した徳川家康と同盟を結んでいます。

永禄10年:斎藤道三の息子の龍興を討ち取り、斎藤氏を滅ぼしたことで、美濃の領地を平定しました。

永禄11年:室町幕府を支配していた三好三人衆を討伐したことで足利義昭は、敵対勢力が無くなり、京都に上洛することが出来ました。
義昭は上洛の功績を称え、信長を副将軍に任命しようとしましたが、丁重に断り、代わりに草津、大津、堺の領地の支配を要求しました。

永禄12年:キリスト教宣教師であるルイスフロイスと出会い、キリスト教を好意的に受け止めて領内の布教を認めました。

元亀元年:「金ヶ崎の戦い」で浅井長政の裏切りにあい、朝倉・浅井連合に敗北して逃亡しましたが、「姉川の戦い」の時に戦力を整えたことで連合を打ち破りました。

元亀3年:「三方ヶ原の戦い」で織田・徳川連合軍で武田信玄に挑みましたが、あえなく敗北しました。

天正3年:「長篠の戦い」で武田信玄の子である武田勝頼率いる騎馬隊を鉄砲を使って破りました

天正4年:天下統一に近づきつつある信長は、安土に安土城を築城して天下布武を達成させる準備をしました。

天正9年:天皇に謁見して“信長に左大臣の位を与えよう”という話になりましたが、年が良くないという事で延期しました。

天正10年:本能寺で明智光秀の裏切りにあい、天下統一を目前に49歳で自害し、生涯を終えました。
自害する際、本能寺を炎で焼いて焼死体を増やすことで、信長の首がわからないようにしました。

まとめ

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織田信長は最初は尾張の一武将に過ぎませんでしたが、今川義元を討伐したことで織田氏の実力が全国に知れ渡りました。

継嗣問題で弟の信勝と対立して最後は彼を謀殺しますが、そうしなければ信長が信勝に追い詰められていました。
そうなると、織田氏の実力、政策は様変わりしていたかもしれません。

信長は反抗勢力には、徹底的に攻撃して反抗心を失わせるとともに処刑するなどしていて、気性が荒いことを垣間見ることができます。

しかし、部下には意外とフレンドリーでした。
豊臣秀吉に“猿”、明智光秀には“キンカン頭”とあだ名をつけて遊んでいたくらいです。

家臣には能力主義をとっていて、高い能力を要する人材にはどんな身分であれ、それ相応の地位を与えていました。

その一方、信長はキリスト教は気に入っていたようで、南蛮由来の道具を収集したり、南蛮人の話を聞いたりして外国の文化を取り入れていました。
特にマントはお気に入りで、合戦でも鎧兜に付けて出陣する程の気に入りようでした。

経済にも敏感で、座(商工業者や芸能者による同業者組合)を廃止して自由に商売できるようにしたり、関所を撤廃して物流や人の往来が活発になるようにしました。

残虐と言われていた信長ですが、意外と寛容な性格もあったので、もしかしたら歴史で言われているような人物ではなかったのかもしれません。

 

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