金閣寺を建て、のちの政策・文化に影響を与えた足利義満とは

金閣寺を建て、のちの政策・文化に影響を与えた足利義満とは

皆さんは京都にある金閣寺をご存じだと思います。
一面に金を散らした建物はすごく豪華ですよね。
その金閣寺を建て、日本の文化に大きな影響を与えてきた足利義満について、今回は紐解いていきます。

概説

足利義満は、日本の南北朝時代から室町時代にかけての武将であり、第3代室町幕府将軍です。

幼少期と背景

足利義満 写真1

足利義満は1358年に、足利義詮(よしあきら)の子として誕生しました。
父・義詮は第2代将軍であり、義満は幼少期から将軍家の跡取りとして期待されて育ちました。
彼が生まれた時期は、南北朝時代と呼ばれる、南朝(吉野朝廷)と北朝(京都朝廷)が対立していた時代です。
この時の日本は対立が続き、政治的には非常に不安定な状況にありました。

将軍就任と初期の政務

1367年、義満が10歳の時、父の死去により第3代将軍に就任しました。
しかし、まだ幼少であったため、当初は側近たちが実質的に政務を行っていました。
義満が成人するにつれ、自ら政治の舵取りを始めます。
彼は武力と政治的巧妙さを駆使し、全国の有力守護大名を従え、幕府の権力を強化していきました。

南北朝統一

終結

義満の最大の業績の一つは、南北朝の統一です。
1392年、長年にわたる南北朝の争乱を終結させるべく、義満は南朝の後亀山天皇を説得し、北朝の後小松天皇に譲位させることに成功しました。
これにより、日本は再び一つの天皇の下に統一され、内乱の時代に終止符が打たれました。
この統一により、義満は国内での権威をさらに強固なものとしました。

政治改革と経済政策

日明貿易

義満は地方の有力守護大名を京都に呼びました。
そして、自身の監視下に置くことで、彼らの力を抑制しました。

また、京都の北山に豪壮な邸宅(現在の金閣寺)を建設し、政治・文化の中心地としました。
この北山文化は後の東山文化と共に、室町時代を代表する文化の一つとされています。

経済面では、義満は貿易にも力を入れました。
特に中国の明朝との勘合貿易を行い、日本の経済発展に寄与しました。

文化振興と金閣寺の建設

能楽

義満は文化振興にも熱心
彼の治世下で能楽が発展し、観阿弥・世阿弥父子の活躍により、能が日本文化の一つの頂点を築きました。
また、禅宗を庇護し、禅寺の建設や保護に努めました。

彼の代表的な文化事業の一つが、1397年に建設された北山山荘・現在の金閣寺です。
この寺院は義満の権力の象徴であり、後に日本の国宝として評価されています。

年と死去

義満は晩年、さらに自身の権力を強化するために、天皇の位への野心を抱くようになったと言われています。
彼は太上天皇(上皇)の称号を受け取り、自身の権威を天皇と同等にすることを試みました。

しかし、1408年に病に倒れ、50歳で急死しました。
義満の死後、彼の政策は多少の変化を経ながらも、室町幕府の基盤として維持されました。
足利義満は室町幕府の権威を確立し、南北朝の統一を果たした重要な人物です。
彼の政治手腕、経済政策、文化振興により、室町時代は一時的ながらも安定と繁栄を迎えました。

人物像・逸話

政治手腕と統治者としての姿

終結

足利義満が幼いまま将軍となったとき、当初は側近たちに支えられながら政務を行いましたが、成長とともに自身の権力基盤を固めていきました。
彼の政治手腕は巧妙であり、武力と外交を駆使して反抗勢力を抑え込みました。
特に南北朝の統一は彼の政治的手腕を示す重要な事例です。

義満は1392年に南朝の後亀山天皇を説得し、北朝の後小松天皇に譲位させることで、長年にわたる南北朝の対立を終結させました。
この統一により、彼は国内の安定を実現し、幕府の権威を大いに高めました。

文化振興と宗教

金閣寺

義満は文化の保護者としても知られており、彼の治世下で北山文化が花開きました

義満と金閣寺(鹿苑寺)
彼は禅宗を深く信仰し、多くの禅寺を建立しました。
その代表的なものが金閣寺(正式名称は鹿苑寺)です。
これは彼の権力の象徴であると同時に、彼の美的感覚を示すものでもあります。

また、義満は能楽の発展にも寄与しました。
観阿弥・世阿弥父子を庇護し、彼らの芸術を奨励することで、能楽は日本の代表的な伝統芸能としての地位を確立しました。

このように、義満は文化の保護と振興に努め、その成果は後世にわたって日本の文化遺産として評価されています。

晩年と死去

晩年の義満はさらに権力を集中させようと試みました。
彼は太上天皇(上皇)の称号を受け、自らの権威を天皇と同等にしようとしました。
この行動は、彼が単なる武家の将軍ではなく、国家の頂点に立つ存在であることを示すものでした。

義満の死後は、彼の政策や体制は多少の変化を経ながらも、室町幕府の基盤として残り続けました。
彼の業績は後世に大きな影響を与え、室町時代を代表する将軍としてその名を歴史に刻みました。

輝かしい功績
足利義満は、その政治手腕、経済政策、文化振興において卓越した能力を発揮した人物です。
彼は武力と外交を巧みに使い分け、南北朝の統一を実現し、室町幕府の権威を確立しました。
また、経済政策や貿易においても果敢な手法を取り入れ、日本の経済発展に寄与しました。
文化面では、北山文化の開花に大きな役割を果たし、能楽や禅宗の発展を支援しました。
これにより、義満の治世は日本文化の一つの黄金期として評価されています。

義満の人物像は多面的であり、政治家としての冷徹さと文化人としての審美眼、そして統治者としてのカリスマ性が融合しています。
彼の生涯は、日本の中世史において重要な位置を占めており、その影響は現代にまで及んでいます。
義満の遺産は、政治・経済・文化の各分野で日本の歴史に深く刻まれ、彼の名声は永遠に語り継がれることでしょう。

活躍した時代

転換期

足利義満が活躍した時代は、14世紀後半から15世紀初頭の南北朝時代から室町時代にかけての日本の歴史的転換期でした。
この時期は政治的・社会的に大きな変動があり、義満の治世はその中心に位置しています。

1573年、15代将軍・足利義昭が、戦国大名の織田信長より京都から追われたことで室町幕府は終わります。
そのときまで室町時代は続いたのでした。

年譜

1358年:足利義詮と側室・紀良子との間に生まれる。

1361年:南北朝の抗争が激化し、都が南朝勢力に占領されたため白旗城(兵庫県南西部)へ逃亡する。

1362年:室町幕府が都を奪還したため、帰京する。

1366年:「貞治の変」が起こり、父・足利義詮の側近・斯波義将が陰謀の嫌疑をかけられ失脚。名を足利義満に改名する。

1367年:父・足利義詮が、管領・細川頼之に足利義満の後見を頼み、死去。

1369年:室町幕府の第3代征夷大将軍となる

1374年:日野業子と結婚。

1378年:邸宅を都の北小路室町に移す。

1379年:「康暦の政変」により、側近の細川頼之を罷免。

1381年:義満、内大臣に就任。

1386年:側室・藤原慶子との間に足利義持が生まれる。

1392年:南朝と和平交渉し、南北朝合一を遂げる

1395年:家督を子の足利義持に譲り、出家

1399年:鹿苑寺に、のちに「金閣寺」と呼ばれる舎利殿(しゃりでん:入滅した釈迦の遺骨を安置する場所)を建てる。

1408年:病により死去。

まとめ

学び

いかがだったでしょうか?

おそらく皆さんは小学校~中学校の間に金閣寺を知ったのでは?と思います。
その金閣寺を建てた足利義満に興味を持っていただければ幸いです。

 

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