現代俳句の父、正岡子規

現代俳句の父、正岡子規

俳句・短歌をやらない方でも、正岡子規の事はご存じの方多いと思います。
その人生は病気に負けない俳句への思いが溢れていました。
そんな彼の生き方について述べたいと思います。

概説

彼は、その生涯を通じて病と闘いながらも、文学に対する深い情熱を持ち続けた人物でした。
東京帝国大学(現在の東京大学)に進学し、その後、新聞記者としても活動しました。
文学とジャーナリズムの両面で才能を発揮しました。
特に俳句と短歌において、既存の形式に捉われず、新しい表現を模索したことで知られています。

人物像・逸話

正岡子規の本名は「正岡常規(つねのり)」です。
幼名は処之助(ところのすけ)、のちに升(のぼる)となります。

正岡子規の家族

妹の正岡 律は1870年(明治3年)生まれです。
病中の子規を熱心に看護し、彼からもとても信頼されていました。

女性医師が胸に掲げている赤いハート兄である正岡子規の死後は教師となりました。
母の看病のために退職してからも、彼の遺品と「子規庵」の維持をし、生計のために裁縫教室を開いていました。
昭和3年に「財団法人 子規庵保存会」の初代理事長に就き、1941年(昭和16年)に亡くなりました。

母親の正岡 八重は、1845年(弘化2年)生まれです。
1872年(明治5年)に夫を亡くし、それからは実家に帰り、正岡子規と律を育てました。
1875年(明治8年)に士族の家禄奉還の1,200円をもらいましたが、家計は裁縫を教えながら支えました。

並べられた和裁の道具たち息子の最期を看取り、1927年(昭和2年)に亡くなりました。

正岡子規の生涯の逸話

幼少期

出生したころは、曾祖父の後妻・小島久が子規を可愛がりました。
幼少期の彼は顔が丸く、鼻も低く、背も低かったため、見苦しくみられ、さらに虚弱体質で内向的だったためによくいじめられていたようです。

青年時代

大学予備門、現在の東京大学の受験のために松山中学を退学しました。
6月に上京した当初は、政治家志望でした。

鎌倉旅行の最中に初めて喀血し、翌年5月には大喀血をしてしまいます。

吐血を表した赤い血模様
医師の診断の結果は肺結核でした。
この頃結核は不治の病とされており、彼も死を意識したと思われます。
はじめてホトトギス(漢字表記「子規」)として句を詠んでいます。

エピソード
英語が苦手だった彼は試験の時に、隣の男性に単語の意味を聞くというカンニングをしたことがあります。
なんと、この時の試験で彼は合格し、隣の男性は落ちたのです。

大学

第一高等中学校本科を卒業し、同年9月に帝国大学文科大学哲学科、現在の東京大学に入学しています。
翌年1月に「哲学というのはわけがわからんぞなもし。わしには手に負えん」と言って国文科に移りました。

社会人

しかし、せっかく入った大学を中退します。
その年の12月に日本新聞社に入社し記者になり、家族も呼びました。
その翌年、新聞に「獺祭書屋俳話」の連載を開始し、人々の関心を集めました。

日清戦争
彼は日清戦争の記者として従軍します。
ですが、5月に帰国中の船上で大喀血し、重体のため入港先の神戸に入院しました。
この従軍が彼の結核をとても悪化させたと言われており、須磨で保養した後、松山に帰郷しています。

結核

2つの道が分かれているところに、置かれた車椅子10月にふたたび上京しようとしましたが、腰痛で歩行困難となり、初めはリューマチとも考えられていました。
翌年にリューマチではなく、結核菌による脊椎カリエスだと診断されました。
何度か手術も受けましたが、改善することはありませんでした。

この時、彼は3,000以上の俳句を残しています。
やがて、横になる日が多くなり、臀部・背中に穴が開き、膿が流れるようになりました。
歩行困難になってからも、人力車で外出していました。

それでも、夏には座る事さえ難しくなり、それからの3年間はほぼ寝たきりになりました。
しかし、こうした状態においても、俳句・短歌・随筆は書き続け、それさえ困難になると口述をして残しました。
寝返りも出来ないほどの痛みを麻酔で乗り切り、病床において後進の指導を続けました。

最後の年

5月に「病牀六尺」の連載を始め、9月17日まで行われました。

しかし、9月19日午前1時頃、正岡子規は脊椎カリエスにより34才で亡くなりました。
21日に葬儀が行われ、150名以上の方が訪れたそうです。
静かな寺に葬ってほしいという彼の遺言通りに、東京都北区田端の大龍寺に埋葬され、安らかに眠っているそうです。

活躍した時代

時代のエピソードから子規の人生に、どのような影響を与えたか述べたいと思います。

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

たぶん日本人なら誰でも知っている俳句だと思います。
ご存じの通り、この俳句を詠んだのが正岡子規です。
1895年10月26日に、奈良旅行で詠んだとされております。
この日は柿が旬の時期でもあったため、柿の日にもなっています。

ざるカゴに入っている柿3つ

夏目漱石との関係

漱石の句に

鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺

があります。

漱石は子規の療養生活を助けたり、奈良旅行を支援したりしてくれ、その返礼として子規が詠んだのが「柿の句」なのです。
漱石は柿をいくつも食べるほど好きで、彼に「柿」というあだ名を付けたこともあります。

漱石との出会いは、東京での共通の趣味の寄席通いで仲良くなりました。
療養のために松山に再び戻った子規は漱石と共同生活をします。それが52日間続きました。
当時松山中学校には漱石が赴任していたためで、毎日のように友人たちが押しかけました。
漱石も俳句を学び、俳号を「愚陀仏」とします。

この時、子規が漱石に鰻丼を奢ると言ったのですが、実際の支払いは漱石がしました。
子規はこの時に考えをまとめ、漱石やほかの友人もその後の俳句の革新運動を支持しました。

近代日本史に多大なる影響を及ぼした「夏目漱石」の壮絶な人生

月並み

カレンダーをめくっている左手「月並み」という言葉がありますが、本来の意味は毎月・月ごとを意味しています。
現在はこの言葉には陳腐・平凡という意味も含まれていますが、彼の俳句・短歌を月並み調と批評家が批判したことが、きっかけになっていると思われています。

野球

1888年、子規が21歳の時に日本に伝わったばかりの野球に熱中していました。
彼はキャッチャーとして選手になり、病状が悪化するまで続けていました。
彼はスポーツには興味がありませんでしたが、野球には夢中になり、周りを驚かせたようです。

また、文学の世界においても、野球の句や歌を詠んだり、「山吹の一枝」という初めての野球小説と考えられている作品を新海非風と連作で書いたりしており、野球の普及に努めました。

野球の俳句と一緒に建てられている「正岡子規」の像

愛媛県には、彼の出身地であるために野球資料館「の・ボールミュージアム」があります。
なぜ「の・ボール」なのかは、彼の子供のころの名前は「升(のぼる)」ですし、子規が名前を「野球(ノボール)」としたこともあったからです。

雅号

彼は54種類の名前を用い、更にペンネームも使用しました。

この一つにホトトギスがあります。
ホトトギスは鳴いて血を吐くといわれていたので、結核を病み喀血した彼は、自身の雅号としました。
その他の雅号には、“獺祭書屋主人”、“竹の里人”などがあります。

評価

正岡子規は俳句及び短歌の方向付けをした改革者として、現代文学に強い影響力を与えています。
19世紀のヨーロッパの自然主義からの写生及び写実による、現実的で生活に密着した俳句を詠んだことで、俳句の新たな道を切り開きました。
短歌よりも俳句を重視した彼ですが、俳句と同様の価値観をとり入れ、今も存在感を残しています。

代表作
  • 獺祭書屋俳話(1893年)
  • 歌よみに与ふる書(1898年)
  • 病牀六尺(1902年)
  • 竹乃里歌(1904年)
  • 寒山落木(1924年)

などがあります。

年譜

正岡子規は、1867年10月14日(旧暦慶応3年9月17日)に、伊予国温泉郡藤原新町:現在の愛媛県松山市花園町3-5に松山藩藩士・正岡隼太常尚の長男として誕生しました。

愛媛県松山市の街並みの眺め1883年(明治16年)5月に松山中学を退学しました。
1888年(明治21年)8月に初めて喀血しました。
1890年(明治23年)7月に第一高等中学校本科を卒業しました。
1892年(明治25年)に大学を退学しました。

1895年(明治28年)4月に彼は日清戦争の記者として従軍し、この年の8月に漱石と松山で一時的に共同生活をします。
1896年(明治29年)に脊椎カリエスだと診断されます。
1898年(明治31年)に短歌の革新になる「歌よみ与ふる書」を発表し、連載します。

1899年(明治32年)、病気の影響で座る事も困難になりました。
1902年に亡くなりました。

2002年(平成14年)に野球の殿堂入りをしています。

まとめ

東京都指定史跡に子規庵があります。鶯谷駅北口から徒歩5分です。

鶯谷駅北口から徒歩5分ほどの距離にある「子規庵」子規庵は1894年(明治27年)、子規が27才の時に旧加賀藩主、前田侯爵家の広大な屋敷のあった一角の前田家の御用人の長屋に引越したところです。

彼の死後も家族が生活しておりましたが、残念なことに太平洋戦争の空襲で焼けてしまいます。
のちに昭和25年に再建されました。

子規庵には、僕も一度訪れたことがあります。
趣のある日本家屋で、庭には様々な植物が彩っていました。
今回、正岡子規のことに触れたため、また行ってみようかと思っています。
四季折々の庭には、以前訪れた時とは違った植物が育っているでしょう。

子規はヘチマに興味があったようで、こんな短歌を人生の最後に読んでいます。

糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな

今度は、ヘチマの花が咲くころに訪れて、彼の愛でた花を観賞してみたいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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