多くの愛憎渦巻いた世界があった江戸城の謎

多くの愛憎渦巻いた世界があった江戸城の謎

最近放送されていたドラマ『大奥』で、江戸城について知りたくなった方もいるのではないでしょうか?
今回は江戸城の魅力に迫ってみます。

城主

歴史ある江戸城ですが、どのような城主が住んでいたかというと

  • 太田氏(1457年~486年、1561年~1577年)
  • 扇谷上杉氏(1486年~1524年)
  • 後北条氏(1524年~1561年、1577年~1590年)
  • 徳川氏(1590年~1868年)

⇒1868年以降は皇居

となっています。

歴史

様々なことが渦巻く江戸城ですが、その歴史はどうなっていたかということにも迫ってみます。

江戸城が建てられるまで

江戸(現在の東京都区部の一部)は西に日本橋川東に駿河台に挟まれたことを示していました。

まずこの地を一番初めに根拠にした武家ですが、それは江戸重継(えどしげつぐ)でした。
平安時代の終わりから鎌倉時代の初めにかけて、江戸氏の住まいは江戸城と同じ場所に置いたという説が存在しています。

しかしながら、歴史学者の山田邦明は、江戸氏の住まいは豊島郡江戸郷内であって、のちの江戸城が作られた場所には存在することはありえないと言っています。
山田氏は江戸氏の住まいを、今の水道橋と推測しています。

江戸城建設

15世紀に入り、関東で騒乱が起き、江戸氏が没落して去ります。
その後に、扇谷上杉家の上杉持朝の臣下である太田道灌が、「享徳の乱」に際して、1457年に江戸城を現在と同じ所に作りました。

晴れた日に撮影されている、太田道灌像

道灌が上杉定正に殺害されてしまった後、江戸城は上杉氏のものとなり、上杉朝良が隠居するための城としました。

1524年には扇谷上杉氏を破った、後北条氏の北条氏綱の支配下に入ったとされています。
1590年に、豊臣秀吉が小田原討伐の際に、城を開きます。
豊臣秀吉により、後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康が同じ年の8月30日に現在の静岡市より、江戸に入りました。

江戸時代、天下普請前まで

江戸幕府を開いた徳川家康が江戸城に入ったはじめは、江戸城は道灌氏が作った小さな城であり、荒れ果てていました。
そのため、本丸、二ノ丸、西ノ丸、三ノ丸、吹上、北ノ丸を増築し、また道三堀や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ移設を行いました。

慶長期天下普請

1603年になると、徳川家康が天下普請を出し、江戸城の拡張に着手します。
江戸前島の東側を開削、神田山を崩し、日比谷入江を完全に埋め立てを行い、町割を実施します。

1607年には関東、奥羽や信越の大名達にに命じて天守台および石垣などを修築します。
この時ですが、建設の天才ともいわれた藤堂高虎(とうどうたかとら)が設計を行い、関東諸大名は5つに分かれて、80万石で石を寄せて、20万石で天守の石垣を作ります。

そして奥羽や信越の伊達政宗、上杉景勝、蒲生秀行、佐竹義宣、堀秀治、溝口秀勝、村上義明などは堰普請(せきぶしん)を行いました。
この年には慶長度天守が完成します。

1611年に西ノ丸・吹上の工事を東国大名に課役します。
この時、将軍・徳川秀忠がこれをよく巡視したそうです。

徳川秀忠のイラスト画

1614年には石垣の修築を行い、夏から冬にかけて工事を進めます。
この時家康は11月3日に大坂の陣を出し、一部を除いた大名たちはこの場所から参加を余儀なくされてしまい、著しく疲弊をしてしまいます。
そのため翌年の大坂夏の陣が終わった後には、家康は3年間天下普請をやめるように言いました。

元和期天下普請

1618年に紅葉山東照宮を造営して、神田川の開削を行います。
1620年には東国の大名に、内桜田門から清水門までの石垣と各枡形の修築をさせます。
1622年には本丸拡張工事を行います。それにあわせて天守台、御殿を修築し同じ年には元和度天守が完成をします。

寛永期天下普請

1628年から翌年にかけて、本丸、西丸工事、そして西ノ丸下、外濠、旧平河の石垣工事、また各場所の城門工事が行われました。
1635年には、二ノ丸拡張工事が行われます。
そして1636年には石垣担当の6組62大名、濠担当7組58大名の120家による飯田橋から四谷、赤坂から溜池までを掘り抜き、石垣や城門を築く外郭の修築工事が行われました。

1637年には天守台、御殿を修築し、その翌年には寛永度天守が完成をします。
1660年より神田川御茶ノ水の拡幅工事が行われて、一連の天下普請は終わりを迎えます。

黄緑色の紙に書かれてある「完」の文字

作られたその後200年以上は、徳川幕府の中心として機能します。

しかし、1657年の「明暦の大火」によって、天守を含めた城構の多くが焼けてしまい、その後、天守が再建されることはありませんでした。
さらに、1855年には「安政の大地震」によって、石垣、櫓、門なども多大な被害を受けてしまいます。

近現代

1868年に始まった戊辰戦争の「鳥羽・伏見の戦い」で、旧幕府軍を打ち破った新政府軍は、江戸に逃亡した徳川慶喜に対して追討令を発令します。
同年3月15日に、江戸を総攻撃する日と定めて完全に包囲網を完成させました。

しかし、徳川家存続に向けた交渉の全権を持っていた旧幕府陸軍総裁の勝海舟と、東征軍参謀である西郷隆盛との会談が実現し、結果として江戸城の無血開城が決まるのです。
4月11日には江戸城は明治新政府軍に渡され、10月13日には名前が「東京城」と変わりました。

1923年の関東大震災では、残されていた建造物が大きな被害を受けてしまいます。
1945年の太平洋戦争末期にはアメリカ軍の空襲で一部が消失、そして1948年には皇居として名前が変わります。
1967年・1968年には、空襲による焼失で被害を受けた場所が直されたり、新たな建物ができたりしました。

そして、2006年の4月6日に、「日本100名城21番認定」を受け、江戸城の歴史は今に続きます。

建築(築城した人物)

江戸城を築いたのは徳川家康です。

徳川家康像と富士山との合成写真

徳川家康は江戸幕府を開き、日本の政治・経済・文化の中心地となる江戸(現在の東京)に江戸城を築きました。
江戸城は、徳川氏の政権を象徴する要塞としての機能だけでなく、その後の江戸時代を通じて幕府の政治の中心地として栄えました。
また、江戸城の築城は、江戸時代の城郭建築の傑作として評価されています。

江戸城の築城には、膨大な労力と技術が費やされました。
徳川家康は、江戸湾に面したこの場所を選び、水に囲まれた要塞都市を築くことで、敵からの攻撃を防ぐと同時に、幕府の権威を示す象徴としました。

青空をバックに象徴されている徳川家の家紋江戸城の築城には多くの熟練した建築家や技術者が動員され、木造建築のみならず、堀や土塁、石垣などの防御施設も巧みに組み合わされました。

江戸城は、徳川幕府の本拠地として機能し、幕府の政治はもちろん、行政、軍事、文化の中心地としても栄えました。
城内には幕府の役所や将軍の御殿、武家屋敷、そして商業地域が整備され、多くの人々が集まりました。
また、江戸城周辺には武家や商人、職人などが居住し、江戸の発展と共に栄えることになりました。

徳川家康は、その偉大な戦略眼と統治力によって、日本の統一を果たし、安定した江戸時代の基盤を築きました。
その遺産は、日本の歴史と文化に深く根ざし、現代の日本社会にも多大な影響を与えています。
江戸城は、その象徴的な存在として、日本人の誇りと歴史の一部として永遠に刻まれています。

エピソード(関連する出来事)

江戸城にはこのようなエピソードがあります。

築城の計画と完成

徳川家康が江戸に幕府を開くことを決定した際、江戸城の築城が始まりました。
この計画は巨大かつ野心的であり、多くの手を動員して実現されました。
築城には多くの人々が参加し、木造建築や堀の掘削、石垣の建設などが行われました。
最終的に、堅牢な城郭としての江戸城が完成しました。

三代将軍家光の幼少期

江戸城には、多くの興味深い逸話が残されています。
その一つに、徳川家光(三代将軍)の幼少期のエピソードがあります。

3代将軍・徳川家光のイラスト家光が幼い頃、江戸城内での遊びの一環として、家臣によって鷹狩りが行われました。
このとき、家光の鷹が手から天守閣より飛び立ち、城内を飛び回ったという逸話が残っています。

火災と再建

江戸城は何度か火災に見舞われましたが、特に大規模なものが起きた際には、城の再建が行われました。
特に、「安政の大地震」や「享保の大火」は甚大な被害をもたらしましたが、それでも城は再建され、その度に改良が加えられました。
このような火災と再建の歴史は、江戸城の耐久性と重要性を示すものでした。

徳川将軍の居城

江戸城は徳川将軍家の居城として機能しました。
将軍やその家族が居住する御殿や御茶屋、そして重要な政務が執り行われる書院などが城内に存在しました。

また、将軍の日常生活や儀式、政治的な行事などが城内で行われ、その一部は当時の記録や絵図から伝えられています。

外国人の訪問

江戸時代、江戸城は外国人使節団や貿易商人などの外国人も訪れる場所でした。
特に、17世紀後半から18世紀にかけては、オランダ商館中国使節団などが江戸城に訪れ、将軍との面会や外交交渉が行われました。
これらの訪問は、江戸時代の日本と外国との交流を象徴するものでした。

アクセス

桜田門があった箇所の、現在の皇居

電車

最寄りの駅は、東京メトロの「大手町駅」「二重橋前駅」、JRの「東京駅」です。
これらの駅からは、徒歩やバスを利用して江戸城へ向かうことができます。
また、観光案内所や地下鉄の案内板などがあるので、案内を頼りに進むことができます。

徒歩

大手町や東京駅からは、比較的近い距離にあるため、徒歩で江戸城に向かうことも可能です。
特に、大手町からは歩いて数分で到着できます。
周辺には案内板や案内図が設置されており、道を迷うことなく目的地にたどり着けます。

バス

大手町や東京駅から、江戸城へのバスが運行されています。
バス停は「二重橋前」や「江戸城北門」などがあります。
バスの時刻表やルートは、公共交通機関のアプリやウェブサイトで確認できます。

タクシー

タクシーを利用すれば比較的短時間で江戸城に到着できます。
ただし、東京の交通状況や混雑具合によっては、道路が混雑することがありますので、時間に余裕を持って出発することが重要です。

まとめ

周りの堀を中心に撮られた皇居(江戸城)いかがだったでしょうか?
江戸城は徳川家康の権力を示すものでもありましたね。
『大奥』などで愛憎渦巻く城としても、様々な歴史がありました。
この記事を読んで、もし東京に行くなら江戸城を訪れるのもおすすめですよ。

 

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