国内でも、世界的にも人気が高い、三島由紀夫についてまとめさせて頂きました。
三島由紀夫は、生涯に33作品もの長編小説を書いています。
Contents
- 1 概説
- 2 人物像・逸話
- 3 活躍した時代
- 4 年譜
- 4.1 1925年(大正14年):0歳
- 4.2 1928年(昭和3年):3歳
- 4.3 1930年(昭和5年):5歳
- 4.4 1931年(昭和6年):6歳
- 4.5 1933年(昭和8年):8歳
- 4.6 1934年(昭和9年):9歳
- 4.7 1936年(昭和11年):11歳
- 4.8 1937年(昭和12年):12歳
- 4.9 1938年(昭和13年):13歳
- 4.10 1939年(昭和14年):14歳
- 4.11 1940年(昭和15年):15歳
- 4.12 1941年(昭和16年):16歳
- 4.13 1942年(昭和17年):17歳
- 4.14 1943年(昭和18年):18歳
- 4.15 1944年(昭和19年):19歳
- 4.16 1945年(昭和20年):20歳
- 4.17 1946年(昭和21年):21歳
- 4.18 1947年(昭和22年):22歳
- 4.19 1948年(昭和23年):23歳
- 4.20 1950年(昭和25年):25歳
- 4.21 1951年(昭和26年):26歳
- 4.22 1953年(昭和28年):28歳
- 4.23 1954年(昭和29年):29歳
- 4.24 1955年(昭和30年):30歳
- 4.25 1956年(昭和31年):31歳
- 4.26 1957年(昭和32年):32歳
- 4.27 1958年(昭和33年):33歳
- 4.28 1959年(昭和34年):34歳
- 4.29 1960年(昭和35年):35歳
- 4.30 1961年(昭和36年):36歳
- 4.31 1962年(昭和37年):37歳
- 4.32 1963年(昭和38年):38歳
- 4.33 1964年(昭和39年):39歳
- 4.34 1965年(昭和40年):40歳
- 4.35 1966年(昭和41年):41歳
- 4.36 1967年(昭和42年):42歳
- 4.37 1968年(昭和43年):43歳
- 4.38 1969年(昭和44年):44歳
- 4.39 1970年(昭和45年):45歳
- 5 まとめ
概説
日本文学界の中で、卓越した日本語力を持つと称される三島由紀夫について、取り上げます。
彼は学生時代から文章を好み、文芸部での活動をしていました。
作家としての活動を始めてからは『金閣寺』など、海外でも評価が高い作品を遺しています。
三島由紀夫が最期に起こした事件や結末は、有名なものと思います。
その事件につきましては、最後の項目に少し触れさせていただきました。
人物像・逸話
三島由紀夫は、祖母が過保護だったために外遊びが禁じられてきました。
行儀見習いに厳しかったことで知られています。
祖母は、谷崎潤一郎や泉鏡花を好んでいて、三島由紀夫は幼いころから読書をする環境が整っていました。
初等科では誌や俳句を意欲的に作成して発表し、中等科・高等科では文芸部に入部をして、詩歌、散文、戯曲を発表していました。
三島由紀夫は21歳のとき、太宰治に「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言って、太宰治から「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と笑われたというエピソードがあります。
三島由紀夫の代表作の一つに『金閣寺』があります。
ここで付け加えますと、一般に金閣寺と呼ばれている建物は、正式名称は「鹿苑寺(ろくおんじ)」の舎利殿の「金閣」です。
じつは金閣寺というお寺は存在しないのです。舎利殿とはお釈迦様の骨や遺灰を祀るお堂のことです。
次に「金閣寺放火事件」についてお話します。
これは実際に起こった、1950年の鹿苑寺の金閣において発生した放火事件です。
その放火により、金閣46坪が全焼しています。
この放火は、見習い僧侶である大学生の林承賢が切腹してうずくまっているところを発見され、逮捕されています。
林は救命処置によって一命を取り留めています。
三島由紀夫は、この事件をテーマに長編小説『金閣寺』を書きます。そして、これが彼の代表作となっています。
この事件で三島由紀夫は、火をつけた学僧が「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して、金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析しています。
この作品は、金閣寺の美に病的に魅せられた学僧が、金閣への放火に至るまでの経緯を綴っている物語です。
『金閣寺』は日本文学を代表する作品と見なされ、海外でも評価が高いです。
活躍した時代
三島由紀夫が作家として活躍した、1940年から1970年あたりの時代にどんなことがあったかを、まとめてみました。
・1940年
日独伊三国同盟
・1941年
金属類回収令施行
真珠湾攻撃
・1943年
学徒出陣
鳥取地震
・1944年
学徒・女性の勤労動員
学童疎開
神風特別攻撃隊編成
・1945年
終戦の玉音放送
アウシュビッツ強制収容所を解放
ベルリン陥落
・1946年
全国初の女性警察官が誕生
第1次吉田内閣発足
日本国憲法公布
・1947年
学校給食はじまる
6・3・3制の男女共学が始まる
参議院が誕生
・1949年
1ドル360円の単一為替レートが決定する
・1950年
プロ野球セ・パに分裂
警察予備隊が発足
朝鮮戦争(1953年まで)
・1951年
マッカーサー解任
東京電力株式会社発足
戦後初の民間航空会社の「日本航空」が誕生する
サンフランシスコ講和会議・平和条約調印
・1952年
硬貨式公衆電話機が登場
鳥取大火
血のメーデー事件
羽田空港が米軍から返還
・1953年
奄美群島が日本に復帰
・1954年
地下鉄丸ノ内線開業
マリリン・モンロー来日
第五福竜丸が被爆
防衛庁・自衛隊が発足
・1955年
自由民主党結成
白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が発売されて「3種の神器」と呼ばれる
後楽園ゆうえんち開園
・1956年
科学技術庁発足
日ソ共同宣言
国際連合に加盟
・1957年
新5千円札発行
東海村原子炉で日本で初めて「原子の火」がともる。(原子の火とは、ウラン燃料が炉内で核分裂を起こすこと)
・1958年
東京タワーが完成する
1万円札発行される
・1959年
安保闘争
当時の皇太子(明仁親王)が結婚し、ミッチーブームが起きる
個人タクシーに営業許可が下りる
・1960年
岸内閣、新安保条約に調印する
チリ地震津波起こる
33万人が国会包囲、安保抗議のデモ隊
・1962年
国産旅客機YS-11が初飛行する
首都高速道路1号線が開通する
・1963年
名神高速道路が開業。(日本初の高速自動車国道)
伊藤博文の新千円札が登場する
・1964年
東京モノレールが開通する
東海道新幹線が開通する
東京五輪が開催される
・1965年
日韓基本条約に調印する
朝永振一郎が「ノーベル物理学賞」を受賞する
・1966年
ザ・ビートルズ来日
カラーテレビ、自家用車、クーラーの「新3種の神器」が登場する
・1968年
東名高速道路開通
小笠原諸島が日本に復帰する
郵便番号制が開始する
川端康成がノーベル文学賞を受賞する
3億円事件が起きる
・1969年
東大安田講堂攻防戦(とうだいやすだこうどう・こうぼうせん)
・1970年
初の「国産人工衛星」の打ち上げに成功する
光化学スモッグが発生する
歩行者天国がスタートする
三島事件が起きる
年譜
1925年(大正14年):0歳
1月14日に東京都四谷区で長男として誕生します。本籍は三島由紀夫の祖父の郷里である兵庫県でした。
1928年(昭和3年):3歳
妹が誕生します。
だけど、彼は祖母から天気がいい日でないと外出許可が下りず、遊び相手も年上の女の子に限定されていました。
1930年(昭和5年):5歳
弟が誕生。
1月に自家中毒に罹って、命が危ない状態となります。
棺に入れる玩具まで用意されましたが、医師である伯父が診て一命をとりとめます。
同年、祖父であり、内務閣僚や福島県知事を務めた平岡定太郎の銅像が樺太神社に建立します。
1931年(昭和6年):6歳
学習院初等科に入学。絵本や世界童話を愛読。
初等科機関誌に俳句と短歌が掲載されます。初等科の低学年の頃は、風邪のため学校は休みがちでした。
1933年(昭和8年):8歳
2月ごろに、学校の池で氷が割れて1人だけ池に落下して号泣します。
8月に祖父母に伴い、近くの家に転居し、両親や妹弟と別居になります。
1934年(昭和9年):9歳
慕っていた図画教師が死去します。作文「大内先生を想ふ」を書きます。
1936年(昭和11年):11歳
作文「我が国旗」を書きます。
1937年(昭和12年):12歳
3月に学習院初等科を卒業し、4月に学習院中等科に進学、文芸部へ入部します。
両親の引っ越しに同伴し、渋谷区へ転居したため祖父母と離れます。
7月に作文の「春草抄――初等科時代の思ひ出」を学習院校内誌の輔仁会雑誌に発表します。
以降は毎号に詩歌・散文作品・戯曲を発表します。
秋頃に高等科の先輩に声を掛けられ、交友が始まります。
10月に父が農林省営林局事務官に就任して、大阪に単身赴任します。
12月頃に自作の詩集ノートの「こだま――平岡小虎詩集」などを編みます。
1938年(昭和13年):13歳
3月に初めての小説『酸模(かんぽう)――秋彦の幼き思ひ出』、『座禅物語』、詩編『金鈴』、俳句を『輔仁会雑誌』に発表します。
10月に祖母に歌舞伎座へ連れられ、はじめての歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』を観劇します。
同じ時期に、母方の祖母の「橋トミ」にも連れられて、初めて能の『三輪』を観ます。
1939年(昭和14年):14歳
祖母の夏子が潰瘍出血のため死去(没年齢62歳)。
当の彼は3月に戯曲や詩編を発表します。
前年より成城高等学校(現在の成城大学)から学習院に転任していた清水文雄が、国文法と作文の担当教師となります。
それ以降、生涯にわたる恩師となります。
1940年(昭和15年):15歳
- 月間俳句雑誌「山梔(くちなし)」に、俳句や詩歌を多く投稿発表。
- 11月に小説の『彩絵硝子』を輔仁会雑誌(166号)に発表。
この年、母に連れられて詩人の川路柳虹を訪問し、しばらく師事します。
1941年(昭和16年):16歳
7月に『花ざかりの森』を書き上げ、清水文雄に批評を請い、9月に清水の同人月刊誌「文藝文化」にそれを発表します。
ペンネームを三島由紀夫とし、以降、同誌に小説などを発表します。
この年の12月8日に、真珠湾攻撃が起き、日米が開戦していました。
1942年(昭和17年):17歳
3月に学習院中等科を卒業します。席次は2番でした。
同月、父が農林省を退官します。
4月に学習院高等科文化乙類(ドイツ語)に入学します。
8月に父方の祖父の定太郎が死去します。(享年79)
1943年(昭和18年):18歳
1月に懸賞論文の『王朝心理文學小史』が入選します。
3月から『世々に残さん』を文藝文化に連載します。
6月の輔仁会春季文化大会では、創作対話劇『やがてみ楯と』が上演されます。
1944年(昭和19年):19歳
4月に徴兵検査通達書を受け取ります。5月に徴兵検査し、第二乙種に合格。
9月に学習院高等科を首席で卒業します。卒業生総代となり、天皇より恩賜の銀時計を拝受します。
10月に東京帝国大学法学部法律学科に入学します。同月に処女小説集『花ざかりの森』を刊行します。
12月に母方の祖父の橋健三が金沢で死去します(83歳没)。
1945年(昭和20年):20歳
学徒動員に伴って、1月から東京帝国大学勤労報国隊として勤労動員となります。
2月に中河与一の厚意で小説の『中世』の第一回、第二回(途中)を文藝世紀に発表します。
2月4日に入隊通知の電報を受け取り、出立までに遺書や遺髪、遺爪を用意します。
2月に入隊するも、検査で右肺浸潤(結核の三期の症状)の診断が下され、即日帰郷します。
3月10日に東京大空襲が起こります。
5月から神奈川県の海軍高座工廠に勤労動員し、高座廠第五工員寄宿舎東大法学部・第一中隊第二小隊に配置されます。
6月に工廠内の東大法学部学生らによる回覧冊子の「東雲」が作られ、編集を担当します。
同月中旬に、軽井沢疎開中の恋人・三谷邦子(三島由紀夫の親友で後の実業家の三谷信の妹)を訪問します。
8月15日に疎開先で敗戦を迎えます。
しかし、彼にとって、8月は発行された「文藝」に『エスガイの狩』を発表し、初めての原稿料を得た時期でした。
10月に妹の美津子が腸チフスで死去します(没年齢17歳)。
1946年(昭和21年):21歳
昭和天皇の詔書の「人間宣言」に憤ります。
1月に川端康成宅を初訪問し、以降長い間師事します。
11月には太宰治と初めて言葉を交わします。
1947年(昭和22年):22歳
4月に『軽王子と衣通姫』を発表します。
7月に日本勧業銀行の第一次試験には合格するも、面接で不採用となります。
11月に東京大学法学部法律学科を卒業します。
12月に高等文官試験に合格します。
同月、大蔵省に初登庁、大蔵事務官に任命され、銀行局国民貯蓄課に勤務します。
1948年(昭和23年):23歳
6月に太宰治が入水自殺します。
三島由紀夫も、作家としての活動と官僚としての勤務の過労から、出勤途中に渋谷駅のホームから線路に転落します。
8月下旬に、河出書房の坂本一亀(音楽家の坂本龍一の父)らが書き下ろした長編を依頼しに、大蔵省を来訪します。
9月に彼は大蔵省に辞表を提出し、依願退職します。
11月に初の長編『盗賊』を刊行します。
1950年(昭和25年):25歳
2月に共産党への入党に誘われます。
6月に『愛の渇き』(書き下ろし長編)を刊行します。
7月には、京都で金閣寺放火事件が起こります。
1951年(昭和26年):26歳
11月に文藝春秋祭の文士劇『父帰る』に出演します。
1953年(昭和28年):28歳
創元社から作品集の『真夏の死』を刊行します。
1954年(昭和29年):29歳
6月に書き下ろし長編の『潮騒』を新潮社より刊行し、第1回新潮社文学賞を受賞します。
10月にも、短編集の『鍵のかかる部屋』を新潮社から刊行します。
11月には、創作歌舞伎の『鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)』が初演されます。
1955年(昭和30年):30歳
7月に作品集の『ラディゲの死』を新潮社より刊行します。
ちなみに、9月からボディビルを始め、生涯続けます。
10月に「劇団青年座」より、三島由紀夫の戯曲『白蟻の巣』が初演します。
この作品で、第2回岸田演劇賞を受賞します。
11月に鹿苑寺の金閣や南禅寺、東舞鶴への取材旅行をします。
同月に講談社より、日記風随筆の『小説家の休暇』を刊行します。
1956年(昭和31年):31歳
1月から『金閣寺』を新潮社に連載します。この作品で第8回読売文学賞を受賞します。
2月に石原慎太郎と初めて対面し、3月に文学座への入団をします。
3月7日に金閣寺の放火犯である林承賢が病死します(没年齢26歳)。
この頃三島由紀夫は「日本空飛ぶ円盤研究会」に入会します。
8月に『潮騒』が初の英訳でアメリカにて刊行します。
11月に、三島由紀夫の戯曲の代表作の1つである『鹿鳴館』が文学座より初演します。
1957年(昭和32年):32歳
聖心女子大学卒業式を参観し、同校の女学生と観劇をした後お見合いをします。
1958年(昭和33年):33歳
6月1日に結婚しますが、相手は別の見合いで知り合った女性とでした。川端康成夫妻が媒酌人(ばいしゃくにん)でした。
同月に箱根、熱海、京都、大阪、別府、博多へ新婚旅行に行きます。
11月下旬から、剣道を本格的に始めます。
1959年(昭和34年):34歳
6月2日に長女・紀子(後の演出家)が誕生します。
9月に書き下ろし長編の『鏡子の家』、11月に日記『裸体と衣装』を新潮社より刊行します。
1960年(昭和35年):35歳
3月に西銀座デパート内での撮影で、エスカレーターに頭部を強打して、10日間入院します。
1961年(昭和36年):36歳
1月に『憂国』を発表します。4月には剣道初段に合格します。
5月、川端康成から依頼を受けて、英文のノーベル文学賞推薦文を送ります。
ノーベル賞は、「スウェーデン・アカデミー」という団体が、世界中の文学関係者に、受賞にふさわしい人は誰かという推薦の意見を集めます。ここで推薦の資格があるのは、各国の作家団体の代表であったり、著名な大学の教授や過去の受賞者などです。
当時、既に作品を多く発表していて、自身もノーベル文学賞候補になっていた三島由紀夫の推薦文が、川端康成から求められました。
12月にパリの雑誌の「エクスプレス」が小説『金閣寺』を紹介します。
1962年(昭和37年):37歳
1月から新潮社に『美しい星』を連載します。
3月にハリー・マーティンソン(ノーベル賞作家)の希望で、スウェーデン参事官邸に招かれます。この時に招かれたのは、川端康成などの約20名でした。
5月には長男が誕生します。
7月20日には、三島由紀夫に執拗に面会を要求をしていた24歳の青年が、住居侵入で現行犯逮捕されます。
1963年(昭和38年):38歳
3月に剣道二段に合格します。
6月に川端康成らと共に、中央公論社の「日本の文学」編集委員となります。また、文学座から退団します。
12月に講談社より短編集『剣』を刊行します。
同月にスウェーデン有力紙の特集の「世界の文豪」の中に入ります。
1964年(昭和39年):39歳
『絹と明察』を「群像」に連載します。この作品で、第6回毎日芸術賞を受賞します。
1月に「劇団NLT」を結成します。
3月には剣道三段に合格しました。
- 長編小説『宴のあと』がフォルメントール国際文学賞第2位を受賞
- 『金閣寺』が第4回国際文学賞で2位を受賞
1965年(昭和40年):40歳
4月30日に短編映画『憂国』が完成し、ツール国際短編映画祭劇映画部門第2位を受賞します。
封切は翌年4月でした。
10月にノーベル文学賞最終候補と報じられます。
11月から居合抜きを習い始めます。
1966年(昭和41年):41歳
1月に国会議員と剣道の親善試合をします。
そのとき、橋本龍太郎(その後の総理大臣経験者・剣道教士六段)と対戦し、引き分けます。
5月には剣道四段に合格します。
6月にビートルズの公演を観ます。
7月には、丸山明宏(美輪明宏)のチャリティーのリサイタルに出演し、自作詞の歌を熱唱します。
この年度から昭和45年度まで、芥川賞の選考委員となります。
8月に日本刀を購入します。
9月に米誌の「ライフ」が彼を特集します。
10月に自衛隊の体験入隊を希望します。
11月に両陛下主催の秋の園遊会に招待されて、出席します。
1967年(昭和42年):42歳
1月に「ゴールデン・アロー賞」の話題賞を受賞します。
2月に居合初段に合格します。
4月下旬から1ヶ月強、本名の平岡公威(きみたけ)で自衛隊に体験入隊します。
5月に短編小説の『真夏の死』がフォルメントール国際文学賞で第2位を受賞。『午後の曳航』も候補作品でした。
ちなみに、2位は三船敏郎でした。
7月に1週間、自衛隊北海道北恵庭駐屯地で体験入隊します。同月から空手を始めます。
9月下旬から、夫人同伴でインドとタイ、そしてラオスへ取材旅行します。
10月にインドでガンディー首相、フセイン大統領と面会します。ラオスでは国王に謁見します。
11月にのちの「楯の会」となる民兵組織である「祖国防衛隊の構想」の試案のパンフレットを作成します。
12月に航空自衛隊のF-104戦闘機に試乗します。
1968年(昭和43年):43歳
学生らを引率して、第1回自衛隊体験入隊をします。
8月に剣道五段に合格します。
9月から『暁の寺』(豊饒の海 第三巻)を新潮社に連載します。
10月に祖国防衛隊から改めて「楯の会」を正式に結成します。
10月に川端康成がノーベル文学賞を受賞します。
1969年(昭和44年):44歳
1月に保利茂官房長官から東京都知事選出馬を勧誘されます。
11月に最後の短編となる『蘭陵王』を発表します。
12月に居合二段に合格します。
1970年(昭和45年):45歳
三島由紀夫は会うつもりはなかったのですが、家政婦に促され、5分だけ会って話をすることになります。
「一番聞きたいことを質問しろ」と高校生に言うと、男子高校生から「先生はいつ死ぬんですか」と質問されます。
どんな返事をしたかはわかっていませんが、その質問が三島由紀夫の心に突き刺さったようで、文章にも動揺が見られたとの話もあります。
4月に第1回世界剣道選手権大会に参加します。このとき台湾の五段選手と対戦して引き分けます。
6月に空手初段に合格します。
7月から『天人五衰(豊饒の海 第四巻)』を新潮社に連載します。
同月に『果たし得てゐない約束――私の中の二十五年』をサンケイ新聞に発表します。
8月に恒例の伊豆下田へ最後の家族旅行をします。
11月に池袋の東急百貨店で「三島由紀夫展」を開催します。
ここで森田必勝(まさかつ)と共に割腹自決します。森田必勝は「楯の会」の第二代学生長でした。
まとめ
文豪である「三島由紀夫」について、まとめさせて頂きました。
三島由紀夫は、国内外で高い評価を得ています。
翻訳されて海外で出回っている作品数では、川端康成や大江健三郎といったノーベル文学賞作家をはるかに上回っています。
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