暗愚の戦国大名?実は後に文化人として成功を収めた今川氏真について

暗愚の戦国大名?実は後に文化人として成功を収めた今川氏真について

今川氏真(いまがわ うじざね)は、父の義元が築いた勢力を弱体化させ、やがて今川氏を滅亡させてしまうほど暗愚だったとされています。
事実として、氏真は争いよりも和歌や蹴鞠に通じており、その技芸は戦国大名としては不要なものでしたが、これが後の今川家を存続させた大きな要因とされています。
どうやら、彼は世間一般のイメージ通りの愚かな人物なだけでは無い様です。
ここでは、彼の生涯と共にその逸話を通して人物像に迫っていきます。

概説

今川氏真の生涯

誕生

・1538年:氏真は駿河国領主を主とする今川義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に、嫡子として生まれます
これは武田信玄の甥にあたる間柄です。

早川殿 糸

・1554年:今川氏は自国の脅威となっていた相模国の北条氏と、そして既に同盟済みであった甲斐国の武田氏との「甲相駿三国同盟」を成立させるために、北条氏康の長女である早川殿と氏真は結婚しました。

桶狭間の戦い

・1560年:5月19日、この同盟により京への上洛の機が熟したとみた今川義元が尾張に侵攻したものの、「桶狭間の戦い」で織田信長に討たれて亡くなったために氏真は今川氏の家督と領国を継ぐこととなります。

家督を継いだ後の今川氏真

しかし、今川氏にとってこの敗戦の影響はあまりにも大きく、体勢を立て直しつつ他国との攻防を展開するのは至難の業でした。
領国こそ駿河・遠江(とおとうみ)・三河の三国にわたりますが、周囲の戦国大名は誰もが強者ぞろい。
氏真はこの領土を、わずか7年あまりで失うこととなるのです。

その領土崩壊の口火を切ったのは、桶狭間での敗戦の影響から沸き起こった三河・遠江での相次ぐ家臣の離反や反乱、それに加えて三河の松平元康(徳川家康)の行動でした。

松平元康は織田信長と同盟を結びます
そして家臣たちの離反により、混乱を極める今川氏から三河での独立を計ります。

同盟

氏真はこれを攻めましたが元康の奮戦で撃退され、今川氏の勢力は三河から駆逐されてしまいました。
そのうえ、この頃の今川家では、老臣・三浦義鎮(よししげ)が国政の実権を握っていたものの、他の重臣が反発していたことで家中の統制が乱れ、不穏な空気が漂っていました。

氏真は祖母の寿桂尼の後見を受けながら、徳政令や楽市を発してなんとか国力を保とうとしますが決定的な策とはなりません。

そのような中、遠江においても家臣団の混乱、離反の動きが広がります。
これはなんとか治めることができましたが、勢力は衰退していきます。

上杉謙信が敵の信玄に塩を送った「敵に塩を送る」語源となった出来事
この状況を絶好の機会とみた甲斐の武田信玄は、1567年に信玄の嫡男・義信に嫁いだ氏真の妹を駿府に送り返し、父・義元の時に結んだ同盟を破棄します。
これを受けて氏真は、相模国・北条氏康とともに報復手段として甲斐に対する「塩止め」を行いました。これは食塩の禁輸政策をしたということです。
しかし、武田信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、この策は信玄に対して決定的な打撃にはなりませんでした。

そこで、氏真は上杉謙信と秘密裏に同盟の交渉を始めていきます。

武田信玄は徳川家康と共に、今川家中の反・三浦派らを誘って駿河に侵入します。
氏真も迎撃にでますが、駿河の有力国人21人が信玄に通じたため氏真は敗走します。
今川氏の駿府城は焼かれ、氏真は逃れて家臣である朝比奈泰朝の居城・掛川城に移ったのでした。

続いて遠江にも、今川領分割を武田信玄と約束していた徳川家康が侵攻し、遠江領の大半が制圧されてしまいます。
やがて徳川軍によって掛川城も包囲されましたが、朝比奈泰朝を始めとした家臣らの抗戦で半年近くの籠城戦へと展開します。

掛川城

徳川軍による掛川城への包囲が長期化する中で、武田信玄が同盟国との約定を破り、自ら遠江への圧迫を強めたため、徳川家康は氏真との和睦を模索し始めます。

1569年5月17日、氏真は家臣団の助命を要求することと引き換えに掛川城を開城しました。
この時に氏真・徳川家康・北条氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った暁には氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立します。

しかし、この盟約は実際には履行されることなく、氏真及びその子孫が領主の座に戻れることは二度とありませんでした。

掛川城を退去した氏真は、駿府城の修復完成まで伊豆・ 戸倉城に在城することになります。
ただ、駿府城は武田軍の3回にわたる侵攻を受けて落城し、武田信玄のものとなりました。

これにより城を失った氏真は北条氏を頼りその保護下に置かれ、北条氏政の子である氏直を養子とすることにより、駿河の名目的支配権も氏政に奪われてしまいます。

そして、1571年に北条氏が同盟関係を上杉氏から武田氏に変えると、氏真は北条氏のもとから見放され、今度は浜松の徳川家康のもとに身を寄せたのでした。
こうして今川氏は滅亡を遂げ、氏真は以後家康に保護される生活を送ったとされます。

人物像・逸話

一般的なイメージ

江戸時代中期以降の文献では、和歌や蹴鞠といった娯楽に溺れ、国を滅ぼした文弱で暗君な人物として描かれていることが多いです。
こうした氏真のイメージは、現代の歴史小説やドラマにおいてもよく見受けられます。

甲乙つけがたい「馬鹿な大将」
また、江戸時代初期に成立した『甲陽軍鑑』品第十一では「我が国を亡し我が家を破る大将」の一種として「鈍過たる大将(馬嫁なる大将)」を挙げています。
※註釈(先づ第一に馬嫁なる大将。これをところによりて虚うつけとも、戯たはけとも、耄者ほれ藻のとも申すなり。『甲陽軍鑑』 品第十一)。

氏真が今川家を滅ぼした顛末として、氏真が長く仕えてきた譜代の賢臣を評価せず、三浦義鎮のような「佞人」を重用した挙句に失政を行ってしまった点を中心に批判が展開されています。

意外な?良いエピソード

今川さま氏真の大名時代は内政、特に治水工事に注力したため、菊川市棚草の雲林寺跡地に「今川さま」と呼ばれる今川氏真公を祀る祠があります。
また、木札には「今川用水」と呼ばれる丹野川から取水する用水路があります。

文書一通の持つ重み
「遠州棚草村文書」の中には、氏真が棚草の領主であった「朝比奈孫十郎公」宛てに出した朱印状が残されており、「他郷からの干渉を禁止する」等の用水に関する特権を保証する内容が書かれております。
治水工事に関するいくつかの郷にまたがる治水工事を認めたため、領内の石高は増え、農民の水不足も大幅に改善させることに成功しました。

文化人としての成功

貴族趣味に熱中
戦国大名としては不要と思われるものの、氏真は和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に優れた「文化人」であったとされています。
氏真は少年時、駿河に下向していた権大納言・冷泉為和や詩歌に通じていた太原雪斎などから指導を受けけ、その文化的な環境から技芸を磨いたとも考えられていますが、詳細については不明です。

氏真は生涯に多くの和歌を詠んだことでも知られています。
観泉寺史編纂刊行委員会編「今川氏と観泉寺」には、なんと1,658首もの和歌が収録されています。

この技芸は子孫にも教育として受け継がれました。
今川家は代々の公家文化の高い能力を活かし、結果として氏真の子孫達は江戸幕府の朝廷や公家との交渉役として高家に抜擢されました。

これは、戦国時代の戦で武功を上げることこそできなかったものの、江戸時代という平和が訪れてから今川家の子孫が「文化人」の能力で役人として登用されたことを表しています。
また、幕末の「鳥羽・伏見の戦い」で旧江戸幕府軍が敗れ、新政府軍が江戸を目指して進軍すると、高家として朝廷と交流してきた今川範叙(のりのぶ)が若年寄を兼任したこともあるほど今川家は後世に躍進しました。

活躍した時代

争乱

今川氏真が活躍した時代は、戦国時代です。
そして、戦国時代の中でも特に全国各地での争いが激しかった時代と言えます。
歴史ドラマや小説などでよく登場する大名達が数多く存在しており、その中で頭一つ抜け出そうという勢力が少しずつ形成されていった時代でした。

氏真の領国の周囲を見ても、後に覇権を握る織田信長や、当時最強の大名と目されていた武田信玄と上杉謙信、そして戦国時代の一旦の終結を告げる豊臣秀吉の天下統一最後の相手となった関東の雄、北条氏の北条氏康などその知名度と実力は相当なものがありました。

そのような中で織田家に敗北を喫し、急遽今川家の後継者となった氏真は、その家督を継承する時点ではまだ若すぎたこと、そして衰えた国力を持ち直しながら戦うという意味で条件が悪すぎたのかもしれません。

年譜

・1538年:氏真は駿河国領主を主とする今川義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に嫡子として生まれます。

・1554年:氏真は北条氏康の長女である早川殿と結婚します。

・1560年:今川義元が「桶狭間の戦い」で織田信長に討たれて亡くなったために氏真は今川氏の家督と領国を継ぐこととなります。

・1567年:武田信玄に氏真との同盟を破棄されます。氏真は相模国・北条氏康とともに、報復手段として甲斐に塩止めを行いました。

・1567年:武田信玄が徳川家康と共に今川家中の反・三浦派らを誘って駿河に侵入します。敗北した氏真は掛川城に逃れます。

・1569年:氏真・徳川家康・北条氏康の間で盟約が成立し、氏真は掛川城を開城しました。城を失った氏真は、北条氏を頼ります

・1571年:氏真は北条氏のもとから見放され、浜松の徳川家康を頼ってその臣下となります。これにより今川氏は滅亡します。

まとめ

今川氏真の戦国大名、そして一個人としての性質は彼の「辞世の句」にはっきりと表れています。

「なかなかに 世をも人をも恨むまじ ときにあはぬを 身のとがにして」という句です。

これは「この世も人も恨まない。時代に合っていなかったということが、我が身の罪であるのだから」という内容です。

先見の明氏真自身も戦国の世が自分の性に合わないことを自覚していたのではないでしょうか。

しかし、文化人としての彼の実績、後世の今川氏への教えは、たとえ暗君と称されても陰るものではありません。
戦国大名としては滅亡しましたが、その後の江戸の平穏の中、お家を永く存続させていったことに関してはまさに「先見の明」を持った人物だったのかもしれません。

 

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