皆さんは源頼朝が開いた鎌倉時代を倒し、新たな時代を開いた足利尊氏をご存じですか?
今回は足利尊氏について紐解いていきます。
概説
生い立ちと背景
足利尊氏は足利貞氏の次男として生まれます。
足利氏は源氏の流れを汲む有力な武士の家系であり、鎌倉幕府の中で大きな権力を持っていました。
父である貞氏が亡くなると跡を継ぐのは兄・高義のはずでしたが、兄・高義が父よりも先に亡くなったため、尊氏氏が跡を継ぐことになります。
鎌倉幕府との関係
鎌倉幕府末期に後醍醐天皇による倒幕運動が活発化し、幕府内部でも対立が深まっていました。
足利尊氏ははじめは鎌倉幕府側に付いて戦いました。
そして、後醍醐天皇の「建武の新政」に力にするために転向します。
これにより、足利尊氏は倒幕の英雄として一時的ではありますが権力の座に上り詰めます。
「建武の新政」と南北朝の動乱
後醍醐天皇の「建武の新政」は、古代律令制の復活を目指したものでしたが、武士層の不満を招くのでした。
足利幕府の成立
1338年、足利尊氏は征夷大将軍に任命されます。
そして足利氏が足利幕府を開くと、これが室町幕府の始まりとなります。
尊氏の政権は、南朝の勢力を抑えつつ、国内の統一を目指しましたが、国内はかなり混乱していました。
尊氏は、弟の足利直義と一緒にに政権運営を行いました。
しかしながら、次第に二人の間に対立が生じ、「観応の擾乱」と呼ばれる内乱に発展しました。
足利尊氏の評価
一方では、鎌倉幕府を倒し、室町幕府を創設した英雄と見なされますが、他方では、「建武の新政」を裏切った裏切り者としての側面も持っています。
彼の治世は戦乱が続いたものの、結果として日本の中世政治体制の転換点を築いたことは確かなのです。
足利尊氏の死後、室町幕府はその後も200年以上続き、日本の歴史に大きな影響を与えました。
人物像・逸話
足利尊氏の人間像
尊氏は、優れた武将であり、策略家でもありましたが、その性格は寛容で情に厚かったと言われています。
彼は、多くの文化人や僧侶とも交流し、文化の庇護者としても知られています。
早熟な才能と初陣の逸話
尊氏の武将としての才能は早くから顕在化しました。
彼の初陣は、わずか15歳の時であり、この時の武勇が早くも評判となりました。
若き日の尊氏は、身のこなしが素早く、敵を迅速に討ち取ることで名を上げました。
鎌倉幕府との葛藤
尊氏ははじめは鎌倉幕府に仕えていましたが、後醍醐天皇の「建武の新政」に協力するために転向しました。
この転向の背景には、幕府に対する不満や後醍醐天皇の新政に対する期待があったとされています。
しかし、「建武の新政」に参加はしたものの、やがては貴族中心の政治に失望してしまい、再び鎌倉幕府の再興を目指しました。
後醍醐天皇との確執
「建武の新政」に失望した尊氏は、後醍醐天皇と対立するようになります。
1335年、足利尊氏は中先代の乱を鎮圧し、その勢いで鎌倉に入り、鎌倉幕府再興を図りました。
京都の戦いと忠誠の変遷
尊氏は1336年の「湊川の戦い」で楠木正成を破り、京都を制圧しました。
しかし、ここでも忠誠の変遷が見られます。一度は後醍醐天皇に従う姿勢を見せましたが、実際には北朝を擁立し、南北朝の分裂を引き起こしました。
観応の擾乱と兄弟の争い
尊氏の弟・足利直義との関係は複雑でした。
二人の対立は「観応の擾乱」として表面化します。
直義は尊氏の補佐役として重要な役割を果たしていましたが、次第に政権運営を巡って対立が深まりました。
寛容な性格と人望
尊氏は寛容な性格で知られており、その人望は多くの武将や文化人に及びました。
彼の寛容さを示す逸話として、敵であった楠木正成の遺族を手厚く保護したことが挙げられます。
正成が「湊川の戦い」で敗れた後、尊氏は彼の遺族に対して尊敬の念を抱き、厚遇をしていました。
文化の庇護者としての側面
足利尊氏は武将としてだけでなく、文化の庇護者としても知られています。
彼は多くの文化人や僧侶と交流し、彼らを保護しました。
例えば、夢窓疎石という高僧を厚く信頼し、天龍寺を建立するなど、禅宗の振興に努めました。
晩年と死去
尊氏の晩年は、南北朝の動乱の中で過ごしましたが、彼はなおも室町幕府の安定を図るために尽力しました。1358年、尊氏は病に倒れ、京都で亡くなります。
彼の死後、息子の義詮が後を継ぎ、室町幕府の体制を引き継ぎました。
歴史に大きな影響を与え、彼の遺産は後の室町幕府の発展に繋がっています。
尊氏の逸話を通じて、日本の中世史の複雑な様相と、彼自身の多面的な人間像を垣間見ることができます。
活躍した時代
足利尊氏が活躍した時代は、日本の歴史における南北朝時代(1336年 – 1392年)です。
この時代は、鎌倉幕府の崩壊と室町幕府の成立という大きな政治的変動期にあたります。
以下に、尊氏が活躍した時代の背景、主な出来事、社会状況について詳述します。
鎌倉幕府の終焉
鎌倉幕府は、1185年に源頼朝によって開かれ、約150年間続きました。
しかし、幕府の末期には内紛や経済的困難が重なり、支配体制が揺らぎ始めました。
特に元寇(1274年と1281年)の影響で財政が圧迫され、御家人たちの不満が高まっていました。
後醍醐天皇はこの機に乗じて倒幕を企て、1331年に挙兵します。
この運動は当初失敗しますが、1333年には足利尊氏や新田義貞などの武将が後醍醐天皇側に転じ、幕府に反旗を翻します。
同年、鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇は「建武の新政」を開始しました。
「建武の新政」
「建武の新政」(1333年 – 1336年)は、後醍醐天皇が中心となって行った短期間の政治改革です。
新政は、古代の律令制の復活を目指し、中央集権的な統治を志向しました。
しかし、この新政は武士層の支持を得られず、彼らの不満を招く結果となりました。
特に、恩賞の分配や新しい官職の任命などで多くの不平が噴出し、尊氏を含む多くの武将が新政に対して反発するようになりました。
南北朝の動乱
1336年、足利尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻し、京都を制圧します。
後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を樹立しました。
一方、尊氏は京都に光明天皇を擁立し、北朝を設立しました。
この対立により、日本は南北朝時代に突入し、両朝が正統性を主張しながら約60年にわたって争いました。
この時代は、全国各地で武士たちが南朝・北朝のどちらかに属して戦う混乱期でした。
特に有力な守護大名が台頭し、地方の実権を握るようになりました。
これが後の戦国時代の前兆とも言える状況を生み出しました。
室町幕府の成立と内紛
1338年、足利尊氏は征夷大将軍に任命され、正式に室町幕府を開きました。
室町幕府は、鎌倉幕府とは異なり、京都を拠点にした政権であり、朝廷や貴族との関係を重視しました。
しかし、幕府内部では権力闘争が絶えず、特に尊氏の弟・足利直義との対立が深刻でした。
この内乱は最終的に尊氏の勝利に終わり、弟の直義は失脚しましたが、幕府の内部抗争が続くこととなり、室町幕府の権威は安定しませんでした。
経済と文化の発展
この時代は戦乱が続いたものの、経済や文化の面では重要な発展が見られました。
商業が発達し、各地に市場や定期市が開かれるようになりました。
また、貨幣経済も徐々に広まり、都市の経済活動が活発化しました。
文化面では、禅宗が広まり、禅寺が各地に建立されました。
足利尊氏自身も、禅僧の夢窓疎石を厚く信頼し、彼の指導の下で天龍寺を建立しました。
また、能楽や茶道、華道などが発展し、後の室町文化の基礎が築かれました。
足利尊氏の評価と遺産
足利尊氏の評価は一面的ではありません。
彼は武将としての才能を発揮し、室町幕府を創設した英雄とされる一方で、裏切り者や策略家としての側面も持っています。
尊氏の治世は戦乱と混乱の連続でしたが、その中で日本の中世政治体制の転換点を築きました。
尊氏の死後、室町幕府はその後も200年以上続き、日本の歴史に大きな影響を与えました。
彼の政権は地方の有力武士を束ねる形で成立し、室町時代の政治・経済・文化の発展に寄与しました。
尊氏の遺産は、後の戦国時代や江戸時代の政治体制にも影響を与えています。
足利尊氏が活躍した南北朝時代は、日本の歴史における大きな転換期でした。
鎌倉幕府の崩壊から室町幕府の成立、南北朝の対立といった激動の時代を通じて、尊氏は日本の中世政治の新たな枠組みを築きました。
この時代の混乱と変革は、後の日本社会の発展に深く関わる重要な要素を含んでおり、尊氏の人物像とその影響力を理解するためには欠かせない背景となっています。
年譜
1305年
足利貞氏の次男として生まれる
1319年
元服・高氏と名乗る、従五位下、治部大輔
赤橋登子を正室に迎える
1331年
元弘の乱、幕府の派兵命令で参加、後醍醐天皇が廃位される
1332年
後醍醐天皇が隠岐島に配流される
1333年
- 後醍醐天皇が隠岐を脱出
- 高氏は幕命を受け上洛するも妻子が人質として鎌倉に残される
- 所領の丹波国篠村八幡宮で反幕府の兵を挙げる
- 六波羅探題を滅亡させる、同時期に関東では新田義貞らが鎌倉幕府を制圧
- 従四位下→鎮守府将軍→左兵衛督→尊氏と改名
1335年
- 「中先代の乱」、「相模川の戦い」で北条時行の軍を破る
- 後醍醐天皇が新田義貞に尊氏討伐を命じる
- 「箱根・竹ノ下の戦い」で新田義貞軍を破る
1336年
- 尊氏が入京、後醍醐天皇が比叡山に退く
- 北畠顕家・楠木正成・新田義貞らの軍に大敗し九州に下る
- 西国の武士を傘下に集め勢力を立て直す
- 「湊川の戦い」で新田義貞・楠木正成の軍を破る
- 「延元の乱」で再び京都を制圧
- 後醍醐天皇が和議に応じ、光明天皇に神器を譲る
- 建武式目
- 後醍醐天皇が吉野へ逃れ、南朝を樹立する
1338年
光明天皇から征夷大将軍に任じられる
1339年
後醍醐天皇が崩御
1350年
観応の擾乱、足利直義派と高師直派の内部抗争
1352年
弟・足利直義が死去
1354年
直冬を奉じた旧直義派に大攻勢を受ける
1358年
死去
まとめ
いかがだったでしょうか?
波乱万丈の人生を遂げ、最低な男と言われた足利尊氏氏ですが、興味を持っていただけたら嬉しいです。
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そして後醍醐天皇の軍を破り、翌年には京都に入城しました。
これにより、後醍醐天皇は吉野へ逃れてしまい、結果として南朝を樹立します。
一方、京都側は光明天皇を擁立し、北朝を立てました。
これにより、日本は南北朝時代に入り、両朝が対立する中で戦乱が続くのでした。