早世の大作家・樋口一葉について

早世の大作家・樋口一葉について

小説家・歌人として活躍して、24歳で亡くなっている樋口一葉について、まとめさせて頂きました。
2004年から2024年の間、五千円紙幣の肖像にもなっています。

概説

樋口 一葉(ひぐち いちよう)は、本名を樋口 奈津(ひぐち なつ)といいます。
明治5年に現在の千代田区に生まれ、24歳の若さで亡くなるまでに、おおよそ22作品ほども小説を世に残しています。
樋口 一葉が亡くなる原因となったのは、肺結核といわれています。

肺結核について

結核菌による感染が肺で起こる病気を、肺結核といいます。

主な症状としては、微熱や咳、痰、倦怠感、食欲低下、体重減少、寝汗などが起こります。
病状が進行していくと、息苦しさや血痰、喀血、胸痛などに苦しむことが多いです。

結核の診断は、体内で結核菌の存在を証明することで結核となります。
しかし、結核菌が見つかりにくいことも多いです。その場合は血液検査を行います。

治療には、抗結核薬を複数用います。

人物像・逸話

金を貸し借りする男性(アイキャッチ用)

樋口一葉の父親は、役人でありながら、金融不動産業も営んでいました。
樋口一葉は、生涯貧しい生活をしていることが多かったのですが、幼少期は経済的に余裕があったそうです。

学校で非常に優秀な成績でしたが、彼女の母親は「女に学問はいらない」という考えでした。
そのため、12歳までしか学校には通いませんでした。
学校に通えなくなってしまったことは、樋口一葉は日記に、悲しく辛い出来事として残しております。

さらに、樋口一葉が15歳のときに兄が亡くなり、17歳のときには父が事業に失敗をして借金を多く残して亡くなってしまいます。
それによって、17歳で樋口家の大黒柱となって、母と妹と自分の3人の生活を支えることとなります。

樋口一葉の父親について
余談ですが、樋口一葉の先祖は、山梨県の農民でありました。
ですが、樋口一葉の父親・樋口則義が、農民の身分ながら、明治維新の前に同心(武家に属した下級の兵)となりました。幕府直参の下級武士です。
明治維新後には東京府庁の職に就いています。夏目漱石の父親や、芥川龍之介の養父と同じ職場だったこともありました。

許嫁について

袴を着た男性の腕組みしている姿樋口一葉には、許嫁の男性が居りました。渋谷三郎という人物でした。
渋谷三郎の祖父は、樋口一葉の祖父の友人の助けを借りながら、幕府の公務についていました。
その渋谷三郎という人物は、東京専門学校(現在の早稲田大学)で学びました。
そして渋谷三郎は、祖父との縁があったことで、樋口家に出入りをしていました。

その渋谷三郎という人物ですが、戸主となった樋口一葉との結婚は婿養子であることから、樋口一葉に高額の結納金を要求しました。
しかし、樋口一葉の父親が亡くなった後だったので、支払うことはできませんでしたので、婚約破棄となります。

その後に、樋口一葉が小説家として有名になると、今度は渋谷三郎に求婚されます。
もちろん、樋口一葉は結婚を断りました。
その渋谷三郎は、後に阪本三郎と名前が変わり、裁判官・官僚・教育者となっています。

結婚についてその他

赤い花の垣根のところに建てられている、夏目漱石の像

夏目漱石の妻である鏡子の著書の「漱石の思ひ出」によると、樋口一葉の父・則義が東京府官吏を務めていた時の上司が漱石の父の小兵衛直克でした。
その縁で、樋口一葉と夏目漱石の長兄・大助(大一)を結婚させる話が持ち上がりました。

しかし、則義が何度も直克に借金を申し込んでいたので、この悪印象からか直克が「上司と部下というだけで、これだけ何度も借金を申し込んでくるのに、親戚になったら何を要求されるかわかったものじゃない」と言って、破談にしたといいます。

五千円紙幣

1枚の樋口一葉・五千円札樋口一葉の肖像は2004年(平成16年)11月1日発行分から、それまでの新渡戸稲造に代わり、日本銀行券の五千円紙幣の表面に採用されています。
女性が紙幣に採用されたのは、1881年(明治14年)発行の紙幣に採用された神功皇后以来、123年ぶりで2人目の採用です。

2000年(平成12年)に発行開始された二千円紙幣の裏面に紫式部が描かれていますが、これは肖像画の扱いではありません。

偽造防止に利用される髭や顔の皺が少ないため版を起こすのに時間がかかり、樋口一葉の五千円札の製造開始は野口英世の千円紙幣や福澤諭吉の一万円紙幣より遅れました。

活躍した時代

処女作の『闇桜』を発表したのが1892年です。そして亡くなったのが1896年です。
その時代に何があったのかを、簡単にまとめさせて頂きました。

1892年:第2次伊藤内閣

1892年8月8日に第2次伊藤内閣が成立しています。この年に、板垣退助が初入閣しています。

1894年:日清戦争

1894年に日清戦争がありました。戦争開始と終戦の日付には諸説ありますが、1894年7月25日から1895年4月17日までの戦争といわれています。

1895年:三国干渉

1895年4月23日にロシア、フランス、ドイツによる三国干渉がありました。
日本が下関条約で獲得した、遼東半島の清への返還が要求されました。
5月4日に、日本は三国干渉の受け入れを決定しています。
3000万両(4500万円)と引き換えることで、遼東半島を清に返還します。

1896年:夏季オリンピックと地震

1896年4月6日に第1回夏季オリンピックが開催されました。
近代五輪では、最初の大会として開催されています。
このオリンピックでは、財政事情によって金メダルは無く、優勝者に銀メダル、第2位選手には銅メダル、第3位選手には賞状が授与されています。

6月15日には、明治三陸地震が発生しています。
大津波によって、大きな被害が出ました。
死者・行方不明者数は2万1959人です。

樋口一葉と作家たち
樋口一葉が小説家として活躍した1892年から1896年の間に発表された、同じ時代の他の作家の有名な小説を挙げさせて頂きます。

『外科室』:泉鏡花:1895年
『五重塔』:幸田露伴:1892年
『背中の曲がった男』:アーサー・コナン・ドイル:1893年発表
『タイム・マシン』:H・G・ウェルズ:1895年発表
『舞姫』:森鴎外:1890年発表

年譜

樋口一葉が生まれてから24歳で亡くなるまでに、どんなことがあったのかを、簡単にまとめさせて頂きました。

樋口一葉の像

1872年

5月2日に東京府第二大区一小区内幸町に生まれます。現在の東京都千代田区です。
本名は樋口 奈津(ひぐち なつ)です。

1883年

青海学校の高等科を卒業します。

1886年頃

石川中嶋歌子(なかじま うたこ)から和歌を学ぶようになります。
中嶋歌子とは日本の歌人で、和歌と書を教える私塾の「萩の舎」を主宰して、上流・中流階級の子女を多く集めて成功しています。

彼女は樋口一葉や、三宅花圃(みやけ かほ)の師匠として名を残しています。

三宅花圃とは、明治時代の小説家、歌人で、著書の『藪の鶯』は明治以降に初めて女性によって書かれた小説です。

1888年

10代半ばで家督を相続します。このあたりから、小説を書き始めています。

1891年

小説家の半井桃水(なからい とうすい)の門下生になります。
樋口一葉のデビュー作の『闇桜』は、半井桃水が明治25年に創刊した「武蔵野」に発表されました。
半井桃水は、三百篇以上の小説を書いた作家です。代表作には『天狗廻状』『義民加助』などがあります。

1892年

処女作である『闇桜』を発表します。21歳のときでした。

開いた本の上に置かれている八重桜

1893年

作家としての活動をしながら、駄菓子屋/金物店を開店して経営を始めます。
この頃に駄菓子店で近所の子供たちと接したことが、その後の発表作の「たけくらべ」につながっています。

1894年

経営していた駄菓子屋/金物店を閉店します。

1895年

「文学界」という文芸雑誌で、『たけくらべ』の連載が始まります。
秋には「文藝倶楽部」という雑誌で『にごりえ』を発表します。

1896年

1月に『たけくらべ』を完結します。この作品が、森鴎外などから高い評価を受けます。
新作の『わかれ道』、『この子』、『裏紫』を発表します。

ベージュの背景に置かれた本3冊ですが、11月に肺結核の重症化によって24歳で亡くなります。

まとめ

小説家・歌人の樋口一葉について、まとめさせて頂きました。
五千円札の肖像にもなっていたので、知らない人は居ないと思いますが、どんな人で何をした人なのかまでは、あまり知らない人も多いのではないかと思います。

樋口一葉は、24歳で亡くなるまでに、おおよそ小説を22作品と、多くの日記などを残しています。
樋口一葉は父親と兄を亡くしてから、父親の借金の返済することになり、生活は厳しいものでありました。

 

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